もうやだ。馬鹿みたい
その夜は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、昨夜のことが嫌でもよみがえった。
月明かりに照らされた海も、抱き寄せられた腕の強さも、最後に見た神谷の傷ついた顔も、何度振り払おうとしても離れてくれない。
何度も寝返りを打っているうちに、気づけば空が白み始めていた。
―――
朝になっても、神谷はいつも通りだった。
「俺、水汲みに行ってくるね」
笑顔も、声も、いつもと変わらない。
それなのに、藍里とは一度も目を合わせようとしなかった。
そのことが、胸の奥に小さく刺さる。
「……うん」
藍里はそれだけ返すのがやっとだった。
すると、そばで和泉が立ち上がる。
「俺も行く」
神谷が顔を上げた。
「大丈夫ですよ」
「行く」
短く言い切られて、神谷はそれ以上何も言わなかった。
二人は容器を持つと、そのまま洞窟の外へ出ていった。
その背中を見送りながら、藍里は小さく息を吐く。
昨夜、戻ってきた二人の様子を見ていたはずなのに、和泉は何も聞かなかった。
詮索されないことが、今は少しだけありがたかった。
―――
残ったのは、藍里と佐伯、それから綾だった。
藍里は黙って魚を手に取る。
尖らせた石で腹を裂き、内臓を取り除いて、枝へ刺して干していく。
最初は気持ち悪かった作業も、今ではもう手が覚えてしまっていた。
ただ黙々と、藍里は手を動かし続ける。
しばらくして、佐伯が口を開いた。
「だから言ったでしょ」
軽い声だった。
けれど、その言葉は藍里の胸に痛いほど刺さった。
思わず手が止まる。
佐伯はそんな藍里を見もしないまま、尖らせた石で魚の腹を裂いた。
「……もう、ああいうのやめる」
小さく呟くと、佐伯は肩をすくめる。
「そうしたいなら、そうすればいいんじゃない?」
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ淡々とした口調だった。
「神谷は普通に頼めば聞いてくれるよ。和泉さんも。俺もね」
開いた魚の内臓を取り除き、枝へ刺していく手は止まらない。
藍里は何も言えず、ただ自分の手元に視線を落とした。
最後の一匹を枝に刺して干し終えると、佐伯が立ち上がった。
「野草でも見てこようかな」
軽く伸びをしながら、洞窟の外へ目を向ける。
それを見て、藍里も腰を上げた。
佐伯とは反対のほうへ足を向ける。
「私、綾のところ――」
そう言いかけた瞬間、手首を掴まれた。
振り返ると、佐伯はいつもの調子で笑っている。
「でもさ」
少しだけ楽しそうな声だった。
「またしたくなったら、俺にはいつでもしていいからね」
藍里は呆れたように眉を寄せる。
「もうしないよ」
「残念」
佐伯はあっさり手を離した。
「じゃ、行ってきます」
ひらひらと手を振って、そのまま洞窟の外へ出ていく。
残された藍里は、ひとつ息をついてから綾のいるほうへ足を向けた。
―――
それから藍里は、今まで神谷たちに任せていたことにも手を出すようになった。
水汲みにもついていったし、魚取りにも加わった。
じっとしていると、余計なことばかり考えてしまう気がした。
けれど、山道を登って水を汲むだけで、すぐに息が上がる。
容器は思っていたよりずっと重く、持ち上げた腕がじんじんと痛んだ。
神谷が毎日当たり前みたいにやっていたことの重さを、藍里は自分の身体で思い知った。
魚取りも簡単ではなかった。
以前、佐伯がやっていた姿を思い出しながら、見よう見まねで槍を構える。
狙っても外れるし、踏み込む位置を間違えて魚を逃がす。
水に足を取られてよろけることもあった。
それでも何度も繰り返すうちに、少しずつ川の流れの見方が分かってきて、魚の動きにも目が追いつくようになっていった。
うまく突ける数はまだ少ない。
けれど、前みたいに何もできないまま終わることはなくなっていた。
そのぶん、疲れは確実に溜まっていった。
―――
綾と話している最中だった。
何かを言われていたはずなのに、気づけばその声が遠のいていた。
「お姉ちゃん?」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
目の前の綾が、不安そうにこちらを見ていた。
「大丈夫?」
どうやら、ぼんやりしていたらしい。
「大丈夫」
藍里は慌てて笑った。
けれど、自分でも分かる。
うまく笑えていなかった。
「ちょっと外、行ってくるね」
綾はまだ心配そうな顔をしていたが、最後には小さく頷いた。
洞窟の外へ出ると、和泉が狼煙の火を見ていた。
煙はまっすぐ空へ伸びている。
これも毎日続けていることだった。
誰も口にはしない。
けれど、全員が同じことを考えている。
救助は来るのか。
本当に、来るのか。
和泉が顔を上げ、視線がぶつかった。
また見られている、と思う。
それだけで、藍里はひどく居心地が悪くなった。
「必ず生き延びる」
不意に、和泉がそう言った。
飛行機が墜落した初日。
あの日、和泉が口にしたのと同じ言葉だった。
その瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
「本当に……?」
声が震える。
「本当に、救助来るんですか」
言った途端、喉が詰まった。
胸が苦しい。
うまく息ができない。
気づけば、涙がぽろぽろと零れていた。
「私たち……」
その先が、どうしても言葉にならない。
ただ涙だけが、次から次へと頬を伝って落ちていった。
和泉は何も言わなかった。
ただ、じっと藍里を見ている。
泣き崩れた顔から、視線を逸らそうともしない。
「座れ」
短く言われて、藍里は慌てて涙を拭った。
けれど、拭っても拭っても止まらない。
和泉が藍里の近くに腰を下ろす。
それでも視線は変わらず、まっすぐ藍里に向けられたままだった。
「必ず来る」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
藍里は泣いた。
子供みたいに、みっともなく声を漏らしながら。
「もうやだ……」
喉の奥がひきつって、うまく息もできない。
「もうやだよ……」
嗚咽で言葉が途切れる。
この環境が嫌だった。
不安が消えないことも、先が見えないことも、全部嫌だった。
「馬鹿みたい……」
泣きじゃくりながら、藍里は呟く。
綾のためだと思ってやってきたことも、神谷にしたことも、何もかも。
本当に馬鹿みたいだった。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
それでも涙は止まらなかった。
和泉は最後まで何も言わなかった。
ただ、藍里が泣き止むのを待つみたいに、そこにいた。
やがて、少しずつ呼吸が落ち着いていく。
鼻をすすり、腕で乱暴に顔を拭った。
最悪だ、と思う。
きっとひどい顔をしている。
それなのに、和泉はまだ藍里を見ていた。
藍里は思わず睨む。
「なんで泣き顔ばっかり見るんですか」
和泉が、珍しく視線を逸らした。
しばらく沈黙が落ちる。
ほんの少しだけ、気まずそうな顔をしてから、和泉は口を開いた。
「強い人間が崩れてる姿を見るのが好きだ」
一瞬で涙が引っ込んだ。
「……キモ」
思わず本音が漏れる。
和泉はさらに視線を逸らし、大きな体をわずかに縮こまらせた。
藍里は呆れた。
泣いているところを、前にもこうして見られたことがある。
あのときも、こんな目で見ていたのかと思う。
そう思った瞬間、火の前で和泉に言われた言葉が頭に浮かんだ。
『仕方ない』
あのときは少しだけ救われた気がしていたのに。
何が仕方ないだ、と思った。
けれど、そうやって腹を立てることさえ、もうどうでもよくなっていく。
救助が来るのかどうかなんて、今は誰にも分からない。
来ないかもしれないし、来るかもしれない。
それでも、待つしかなかった。
仕方ない。
本当に、その通りだった。
藍里はひとつ息を吐き、それからゆっくり吸い込んだ。
まだ少し熱の残る目元のまま和泉を見る。
「……すみません。取り乱しました」
和泉は少し遅れて頷いた。
「ああ」
返ってきたのは、それだけだった。
藍里は空を見上げた。
神谷にしたことも、佐伯にしたことも、綺麗に正当化できるとは思わない。
神谷も佐伯も、最初から綾を見捨てるような人たちではなかった。
和泉だって、きっと同じだった。
だったら、最初から普通に頼ればよかったのだ。
本当に、それだけのことだった。
狼煙の煙が、空へ細く伸びていく。
藍里は目を細めた。
救助はまだ来ない。
それでも、もう少しだけ頑張ろうと思った。




