君にとって、俺って何?
夜中だった。
ふと目が覚める。
洞窟の中は静かだった。
すぐそばから、綾の寝息だけが小さく聞こえる。
火の明かりが揺れ、岩肌にぼんやりと影を落としていた。
火の番をしているのは和泉だった。
壁にもたれたまま、いつもと変わらない顔で炎を見つめている。
藍里は身を起こし、洞窟の中を見回した。
そこに、神谷の姿はなかった。
「……神谷くんは?」
和泉が顔を上げる。
「外だ」
短い返答だった。
「夜風に当たると言って出ていった」
藍里は小さく息をつき、少しだけ迷う。
昼間、佐伯に連れられていった神谷の背中が、ふと脳裏に浮かんだ。
「様子、見てきます」
そう言うと、和泉は数秒だけ藍里を見た。
「遠くまで行くな」
「はい」
藍里は頷いて立ち上がる。
足音を立てないよう洞窟の外へ出ると、ひやりとした夜気が頬を撫でた。
夜の海は静かだった。
月明かりが砂浜を白く照らし、寄せては返す波だけが絶え間なく小さな音を立てている。
獣避けのために和泉が作った簡易の松明が、砂浜に等間隔で立てられていた。
その光が届くぎりぎりの場所。
岩場の近くに、人影があった。
神谷だった。
砂浜に腰を下ろし、ひとりで海を見ている。
「神谷くん」
声をかけると、神谷が振り返った。
一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから少しだけ笑う。
「起きたんだ」
「うん」
藍里は短く返して、その横へ歩み寄る。
隣に座ろうとして、昼間の佐伯の言葉を思い出す。
――それ、神谷にはやめときな。危ないから。
足が止まる。
少し迷ってから、藍里は神谷のすぐ隣ではなく、ひと一人分だけ間を空けて腰を下ろした。
神谷は何も言わなかった。
ただ、また海へ視線を戻す。
沈黙に耐えきれなくなったのは、藍里のほうだった。
「昼」
声を出すと、自分でも少し掠れているのが分かった。
「佐伯くんと、何話してたの?」
神谷がゆっくりこちらを見る。
その視線は一度、藍里の顔をかすめてから、二人の間に空いたわずかな距離へ落ちた。
何かを言いかけるみたいに唇がわずかに動いたが、結局、何も言わない。
ほんの少しだけ、寂しそうな顔をした気がした。
「俺さ」
しばらくして、落ちた声は小さかった。
「役に立ってるかな」
藍里は反射的に答える。
「もちろん。神谷くんのこと、一番頼りにしてるよ」
神谷は黙った。
波の音だけが響く。
やがて、神谷がゆっくり顔を上げた。
「じゃあさ」
声が、少しだけ震えていた。
「藍里ちゃんにとって、俺って何?」
胸の奥が、ひゅっと詰まった。
神谷の視線はまっすぐで、少しも逸れない。
逃がしてくれない、と思った。
「神谷くんは……」
言いかけて、言葉が止まる。
本当は分かっていた。
けれど、それを口にしてしまったら、もう誤魔化せなくなる気がした。
「一番頼りになる人」
やっと出てきたのは、さっきと同じ答えだった。
神谷はわずかに眉を下げ、ゆっくりと首を横に振った。
「そういうことじゃない」
静かな声だった。
「分かってるでしょ」
藍里は何も言えなかった。
神谷が欲しい答えを分かっていながら、返せない。
そのことが、ひどく苦しかった。
神谷が小さく息を吐く。
それから、静かに言った。
「キスしてほしい」
藍里は目を見開く。
神谷は動かなかった。
距離を詰めてくることもしない。
ただ、まっすぐ藍里を見たまま待っている。
答えを。
藍里自身の意思を。
断ってもいい。
そう思った。
神谷はきっと、それだけで綾を見捨てたりしない。
だから本当は、ここで止まるべきだった。
けれど、ここで拒んだら何かが終わってしまう気がした。
神谷の優しさも、そのそばで感じていた安心も、もう今までみたいに切り分けては考えられなかった。
――危ないから。
佐伯の言葉が、また頭をよぎる。
これ以上踏み込んだら、もう前みたいには戻れない。
それでも、失いたくないと思ってしまった。
そんなふうに、まっすぐ自分を見てくれる神谷くんのことを。
だから藍里は、ゆっくりと体を寄せた。
砂浜に片手をつく。
わずかに空いていた距離が、少しずつ埋まっていく。
その途中で、神谷が小さく息を呑むのが分かった。
藍里は顔を上げる。
すぐ目の前にある神谷の顔を見て、ほんの一瞬だけためらった。
それでも離れず、そのままそっと唇を重ねる。
触れるだけの、短いキスだった。
確かめるみたいに触れて、すぐに離れるはずだった。
その瞬間、不意に腕が伸びてきた。
ぐっと腰を引かれ、藍里の体が神谷のほうへ傾く。
「……っ」
気づけば、神谷の腕の中だった。
離れかけた唇が、もう一度重なる。
今度はさっきのものとは違った。
強くて、熱い。
後頭部に添えられた手が逃がさないように支え、腰に回った腕にじわりと力がこもる。
抑え込んでいたものが、堰を切ったみたいだった。
神谷の感情が、そのまま流れ込んでくるようで、藍里は息を詰めた。
待って、と言いたかった。
止めようとして、わずかに唇を開く。
けれど、その隙さえ塞ぐみたいに、神谷のキスはさらに深くなる。
苦しい。
息がうまくできない。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
受け入れると決めたはずなのに、返ってきた熱を受け止めきれない。
自分は何をしているんだろう。
この人に、何をさせてしまっているんだろう。
どうして、こんなところまで追い詰めてしまったんだろう。
そのときだった。
頬を、温かいものがつたった。
涙だ、と気づいた瞬間、藍里ははっとして神谷の胸を押した。
神谷の動きが止まる。
重なっていた唇が、ゆっくりと離れた。
神谷が藍里を見る。
月明かりの下でも分かるほど、傷ついた顔だった。
それを見た瞬間、藍里の胸が強く締めつけられる。
傷つけたのは、自分だと思った。
最初から。ずっと。
「ごめん」
神谷が言う。
藍里は反射的に首を振りかけた。
違う。
謝るのは、神谷くんじゃない。
謝るべきなのは、自分のほうなのに。
けれど、喉が詰まって、何も言えなかった。
神谷は一歩、藍里から距離を取った。
そのまま何も言わず、少し離れた場所に座り直す。
二人とも、もう何も言えなかった。
藍里はうつむいたまま、頬を伝う涙が止まるのを待った。
どれくらいそうしていたのか、自分でも分からない。
やがて神谷が立ち上がる。
「……帰ろう」
静かな声だった。
「ごめんね」
藍里はただ頷いた。
立ち上がって、神谷のあとを追う。
二人で、洞窟へ向かう道を歩き出す。
松明の火が、夜風に揺れていた。
前を歩く神谷の背中は、ひどく遠く見えた。
手を伸ばせば届くはずなのに、もうそんな気がしなかった。




