それ止めときな。危ないから
水汲みの容器に手を伸ばしかけた神谷へ、和泉が先に声をかけた。
「今日はお前は火の番だ。休め」
短い声だった。
神谷は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷く。
「分かりました」
代わりに手を挙げたのは佐伯だった。
「じゃあ俺行くわ、水汲み」
いつもの軽い調子でそう言ってから、藍里のほうを振り向く。
「藍里ちゃん。昨日は振られたし、リベンジってことで」
藍里は小さく息をついた。
呆れ半分のまま、それでも頷く。
その瞬間、神谷の視線が向けられているのが分かった。
顔を上げると、神谷と目が合う。
けれど、神谷の表情は変わらない。
ただ静かにこちらを見ているだけなのに、なぜか視線だけが離れなかった。
―――
岩場は相変わらずきつかった。
足元は悪いし、容器を抱えて歩くだけでも体力を削られる。
「これ毎日やってるの、マジで偉くない?」
先を歩いていた佐伯が、息を切らしながら振り返る。
「そうだよね」
藍里も額に浮いた汗を手の甲で拭った。
ただ水を汲みに行くだけなのに、毎回ちょっとした登山みたいだった。
「偉いっていうか、修行だろこれ」
佐伯は軽口を叩きながらも、足取りは止めない。
ふざけた口調のくせに、歩幅はきちんと藍里に合わせてくれていた。
ようやく水場へ辿り着くと、二人で容器に水を満たす。
冷たい水が手に触れて、少しだけ息がつきやすくなった。
「ちょい休憩」
佐伯がそう言って、その場に腰を下ろす。
藍里も少し遅れて隣に座った。
岩肌越しに吹き抜ける風が、火照った体には心地よかった。
「ねえ」
隣で、佐伯がふいに口を開いた。
「神谷と俺、どっちが役に立ってる?」
藍里はすぐには答えられなかった。
あまりにも唐突で、しかも軽く返していい問いには思えなかった。
沈黙したままの藍里を見て、佐伯はくすっと笑う。
「まあ、別に答えはどっちでもいいけどさ」
そう言いながら、佐伯は膝に片肘をついた。
その目は笑っているのに、藍里を逃がさないみたいにじっと見ている。
「俺は、分かった上でここまで乗ってきたし」
返す言葉が見つからず、藍里は息を詰めた。
佐伯は目を細める。
「神谷は、たぶんまだ知らない」
藍里は視線を落とした。
これは何なのだろうと思う。
答えを求められているのか。
試されているのか。
それとも、ただの軽口なのか。
分からない。
分からないものは、怖い。
そういうとき、自分がどうしてきたのかを、藍里はもう知っていた。
相手の好意に触れてしまえば、少しだけ落ち着ける。
それが正しいやり方じゃないことも分かっている。
けれど、止めるより先に指先が動いた。
藍里はそっと、佐伯の手に触れた。
反応はない。
間違えたかもしれない、という不安が胸をかすめる。
離そうとして、やめた。
そのまま自分を落ち着かせるみたいに、指を絡める。
少しだけ、力を込めた。
その指先を見下ろして、佐伯がふっと目を細めた。
笑ったように見えたのに、どこか寂しそうな顔だった。
次の瞬間、藍里の腕が引かれた。
「――っ」
気づいたときには、体が佐伯のほうへ傾いていた。
そのまま抱き寄せられる。
思ったより、ずっと近い。
細身に見えるのに、腕の力はしっかりとしていて、逃がさないように囲われた体の内側はひどく狭かった。
少し力を込められただけで、簡単には抜け出せないのだと分かる。
藍里の背筋にひやりとしたものが走った。
けれど、藍里が焦りを覚えるより先に、佐伯の腕はすぐに離れた。
佐伯はすぐには藍里を見なかった。
自分の手元に視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「それ、神谷にはやめときな」
低く落ちた声に、藍里は息を詰めた。
「危ないから」
いつもの軽さはなかった。
冗談めかして流してくれる気配もない。
これ以上は違う。
理由ではなく、感覚でそう思う。
この先へ進んだら、もう今までみたいにはいられない。
でも同時に、止められたことに少しだけ安堵している自分もいた。
しばらく、二人とも口を開かなかった。
やがて佐伯が膝を軽く叩き、立ち上がる。
「帰ろ」
その声はもういつもの調子に戻っていた。
続けて、何事もなかったみたいに笑う。
「帰り道もきついしさ」
藍里は頷いた。
―――
洞窟へ戻ると、綾はちょうど目を覚ましたところだった。
藍里は水の入った容器を置くと、そのまま綾のそばへ腰を下ろす。
「ちょっと神谷連れて散歩いくわ」
振り向くと、佐伯がいつもの軽い調子でそう言っている。
神谷が顔を上げる。
「え?」
佐伯は返事を待たず、そのまま神谷の腕を引いた。
「いいからいいから」
半ば強引に外へ連れていく。
神谷は戸惑ったように振り返ったが、そのまま佐伯に引っ張られて洞窟の外へ消えていった。
綾が小さく呟く。
「……どうしたの、佐伯さん」
藍里は答えられなかった。
「分からない」
そう返すしかなかった。
洞窟の入り口の向こうへ消えていく佐伯の背中を、藍里はしばらく目で追った。
胸の奥のざわつきだけが、なかなか消えなかった。




