新しい約束
じっと桜の古木を見つめて、過去に思いを馳せていた春香はふと表情を緩めた。
「なぁ、約束、守っただろ?これからも守るよ。ずっとずっと。もみじのことを思い続けるよ」
この約束は二人だけの秘密だ。
きっとこの先、もみじ姫にも告げることはない。
あの夜、咲き誇る桜の花に命を救われた。
白い花びらの舞う中で、もみじ姫と抱き合った。
桜の花は春香に、あの時も思いを鮮烈に思い出させる。
そしてその思いを更に強固なものに塗り替えていく。
「また、一緒に花見ができたらいいのに」
あの美しい人と今ならもっと話が出来るのではないか。
あの日の桜を思い出すたびに春香はずっとそう思ってきた。
「でも、その咲き方はずるくないか?もうちょっと、認めてくれてもいいだろ?」
僅かに花びらをつける古木に思わず、本音が漏れる。
まだまだもみじ姫を守るに値する人物ではないという辛口の評価に、春香は苦笑いしかでない。
「厳しいな。いや、そうこなくっちゃね。もっと俺を認めさせてやるよ!」
にやりと笑って宣戦布告する春香は、もうあの頃の子どもではない。
迷子の子どもはあの日を境に、泣かなくなった。
自分の進むべき道を見つけ、その為に知識を身に着け、必要な演技を覚えた。
誰かの悪意に怯えて取り繕っていた過去とは違う。
もみじを守りたい。
その思いとあの日の約束が今の春香を作ったのだ。
「だから、いつまもで見守っていてよ。もみじのことを」
ずっと伝えたかった思いを口にして、春香はほっと息を吐いた。
胸の内のつかえが取れ、肩の荷が下りた思いだ。
桜の花を見つめ、大きく頷くと、胸を張った。
全てを下すには、まだ道半ばだ。
「絶対に満開にしてやるからな!」
春香の宣言に応えるように、桜の枝がしなる。
その時、さわさわと衣擦れの音が響いた。
卒のない足運びに、視線をやらなくても綾乃が来たのだと分かると、春香はそちらを向いた。
「お一人にして申し訳ありませんでした」
慇懃に頭を下げるが、一つも申し訳なさそうではない。
迎えの牛車が用意できましたと告げる綾乃に、春香は鷹揚と頷き返した。
ゆっくりと立ち上がり、その場を離れようとしたが、後ろ髪引かれるようにそちらを振り向く。
「桜……」
まるで春香の心を見透かしたように綾乃が呟いた。
「あの桜はまるで紅の方のようですわね」
目を細め、優美に微笑む綾乃にも、あの美しい人との思い出が蘇っているのかもしれない。
ふと、春香はずっと気になっていたことを口にした。
あの時、あの女性は春香に告げたのだ。
悲しみはすべて桜とともに。
悲しみを受け止めれることが出来たら、思い出も蘇ると……。
少しだけ咲いた桜の花。
それは、もみじ姫が何かを思い出した証なのではないだろうか。
「あのさ、あの桜を見て、もみじ、何か言ってなかった?」
そわそわと身をすり合わせながら、綾乃の答えを待つ。
いつもはどんなことにも堂々としている春香だが、この時ばかりは、答えを聞くのが怖かった。
どこか様子のおかしい春香に綾乃は目を瞬いて、その意図を問うように見つめてくる。
「もみじ姫様ですか?」
「そ、そう、もみじ……」
「そういえば、昔、麗景殿の女御の元に行かれた時のことを口にされていました」
「それで、それで!」
飛びかからんばかりの春香に、さすがの綾乃も呆気にとられる。
「落ち着きあそばせ、春香の君!」
そう言われても春香は落ち着いてなどいられない。
もみじ姫が思い出したのは、二人の出会いの時の思い出に他ならない。
思い出してくれた。
そのことが春香の胸を熱くする。
形振り構わず、ここまで来てよかった。
「どうも内裏で、神様に出会ったそうで……」
歓喜に打ち震える春香に、呆れたような綾乃の声が響く。
神様。
その単語に春香は更に胸をときめかした。
「その神様は、春を告げる神様らしく、雪が溶け、春が訪れる少し前に、姫に桜の枝を渡して、消えていったそうです。思い出の中では少年の姿をしていたそうですが、どうも神々しく光っていたので、顔はよく分からないとかなんとか……」
「え?」
最後の言葉に春香は絶句した。
先ほどまでの歓喜が嘘のように、茫然とした顔で綾乃を見つめてくる。
「ど、どうされました?顔色が優れないようですが……」
綾乃は、心配げに眉を寄せる。
強張った顔で笑う春香にはそんな声は届かない。
「くそ~まさかそこだけ記憶を消すなんて……」
先ほどの麗しい微笑みが一遍、ぎりぎりと歯を食いしばり、怒りを耐える。
もみじ姫の話だけ聞くと、その春告げの神様は春を告げて消えてしまっている。
ぼけっとしたもみじ姫はきっとその神様と春香のことを結び付けたりはしない。
「からかいやがって~」
怒り心頭な春香は、勢いよく桜の古木を振り返った。
桜はただ静かに、慎ましやかに咲いているが、その雰囲気の中に何かを面白がっているような空気が混じっていた。
「絶対に認めさせるからな!その時は、神様落ちの夢物語を改めろよ!」
そう叫ぶと、春香は桜に背を向け、ずんずんと歩き出す。
春香が感情を顕わにしたところをあまり見たことがない綾乃は、目を白黒させるばかりだ。
「誰におっしゃっていますの?」
そう問いかけても春香の答えは返ってこない。
困ったように、その小さな背を追うように歩を進める。
そういえば……
『神様に出会えるなんて、本当に奇跡でしょ?何で、わたし、今まで忘れていたのかしら?こんなに素敵な思い出。いつ出会ったのかは、詳しく覚えてないのだけど、でも、確かに桜の枝をくれたの』
そう嬉しそうに微笑んで話すもみじ姫の姿を思い出した。
『そういえばね、あの神様、どことなく春香君に似ていた気がするの。でも、春香君には内緒よ?』
嬉しそうにそう告げるもみじ姫を思い出し、綾乃はふっと笑みを漏らした。
もみじ姫に内緒と言われれば、従うしかない。
何故か肩をいからせ怒っている春香を面白げに見つめながら、綾乃は愛しい主とその母に思いを馳せた。
完結まで大変長い時間がかかりました。読んでいただいた皆様にはご迷惑をかけましたが、ようやく着地点に到着です。後は余談として、本編で書ききれなかったことを言い訳のように書きたいと思っていますので、お暇でしたら目を通してください。
もみじ姫と春香の物語に目を通してくださって、本当にありがとうございました。