幕間 見ざる者の話
蝋燭の火が揺れ、石壁に長い影を落とす。
その影の中で、フランチェスカは膝を抱えて座っていた。
「……眠れないのか?」
声をかけると、彼女は少し驚いたように振り返った。
その目は、昼間よりもずっと素直で、年相応に幼い。
「はい。なんだか、いろいろ考えてしまって」
「いろいろ?」
「今日のことも……あなたのことも」
言い淀む声は、夜の静けさに溶けていく。
俺はその隣に腰を下ろした。
石床は冷たいが、彼女の体温が近くにあるだけで、妙に落ち着いた。
「フランチェスカ」
「はい」
「俺は……全部を話せるわけじゃない」
彼女の肩がわずかに揺れた。
拒絶ではなく、覚悟を決める前の緊張だ。
「でも、少しだけなら話せる。聞きたいか?」
フランチェスカは胸の前で手を組んだ。
祈るような仕草だった。
「……聞きたいです」
俺はしばらく黙った。
“言ってはいけないこと”と“言ってもいいこと”の境界線を探していた。
「そうだな。もう気づいているだろうが……俺は顔料について、少しは知っている」
「ええ。分かっていました。でも、いずれ話してくださるとは思っていました。今日とは思っていませんでしたが」
彼女がはにかむ。
その笑顔に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「そうか……。まあ、それでだな。昔、絵を描く機会があってな。そこで少しだけ覚えたんだ」
「どんな絵を描かれていたのですか?」
「風景画だよ。人に見せられるほど上手くはなかったが」
フランチェスカは、少しだけ視線を落とした。
「……もし許されるなら。いつか、私も……描いていただけたら嬉しいです」
その声音は慎ましく、けれど確かに願いを含んでいた。
「人は専門じゃないんだがなぁ。しかも最後に描いたのは随分前だ。それに顔料も……」
「……そうですよね。分かっています。でも、機会があれば……」
「分かったよ。他に聞きたいことは?」
フランチェスカは一度口を開き、迷い、そして言葉を選んだ。
「そうですね……。
時にあなたは……いえ、やめておきます。
修道院長に伝えた話は真実ではないのでしょう? 何か事情があるのかと」
「あぁ、それは……」
返答に窮する。
言えば嘘になる。
黙れば不誠実になる。
「……そうだな。それについては、なんとも言えない」
沈黙が落ちる。
俺は、ふと昔聞いた話を思い出した。
「青髭という話を知っているか?」
「青髭……?」
「ある男が妻に言うんだ。『この部屋だけは開けてはいけない』ってな」
フランチェスカは息を呑んだ。
童話の内容を知らなくても、禁忌の匂いは伝わる。
「妻は約束を破って扉を開けてしまう。そこには……見てはいけないものがあった」
「……」
「俺にも、開けてはいけない扉がある。
お前に嘘をつきたいわけじゃない。
ただ、全部を見せられない……許してくれ」
フランチェスカはしばらく黙り、やがて震える声で言った。
「……怖い話、ですね」
「怖がらせたいわけじゃない」
「わかっています。でも……」
彼女は俺の袖をそっとつまんだ。
「あなたが“言えないことがある”って、初めて言ってくれました」
胸の奥が少し痛む。
俺はどれだけ彼女に隠してきたのだろう。
「……ありがとう」
「え?」
「信じてくれて」
フランチェスカの頬が赤く染まった。
蝋燭の光のせいだけではない。
「それと……今日、修道士たちが話していた。
“フランスで新しい王が生まれた”って」
「あ……シャルル王のことかな?」
その名を聞いた瞬間、俺は確信した。
ここが“どの時代”なのか。
どれほど危険な時代に足を踏み入れてしまったのか。
「ならばオルレアンも……」
「オルレアン……? どこの地名ですか?」
しまった。油断していた。
「……いや、忘れてくれ。言わない方がいい」
フランチェスカは一瞬だけ首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
「……全部は言えないんですね」
「全部は言えない」
「青髭の部屋、ですね」
「そういうことだ」
フランチェスカは小さく笑った。
その笑顔は、どこか寂しげで、どこか誇らしげだった。
「……少しだけでも、話してくれて嬉しいです」
「少しだけなら、これからも話すよ」
「はい」
夜風が吹き、蝋燭の火が揺れた。
影が伸び、縮み、また重なる。
その影の中で、俺たちはほんの少しだけ、互いに近づいた。
後書き
まぁ修道院長へは1429年の時点でローマからの境界書簡が届いているんですけどね。
だから作中の想定年代は予想してください。
当時の情報は、修道院長のような立場の者にまず届き、修道士たちの噂話になるのは少し遅れます。だから作中の“情報のズレ”は意図的なものです。
そして主人公はフランス王の話を出した時、当初の想定は山賊(brigante)が傭兵(condottiere)崩れだったのか?の話をしようとしたのですが藪蛇を突きましたね。
平静を装えば誤魔化せたでしょうに、将来の警戒心の高さが裏目に出て隙を見せてしまいましたね




