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Episode 98. 保護という名の部屋



案内された部屋は、静かすぎるほど整っていた。


皇帝の私室を辞したあと、ミュレットは帝国の女官と文官に付き添われて、内城の一角へ通された。

磨かれた床。

淡い色の絨毯。

窓辺に垂れる薄布。

卓には香りの弱い茶と、喉にやさしいという湯まで用意されている。


客人を迎える部屋としては、申し分なかった。


広さもある。

寝台もやわらかく、暖炉の火もきちんと整えられていた。

奥には小さな書き物机まであり、必要であれば文具も使えるらしい。


だが、居心地がよいとは思えなかった。


「こちらでお休みくださいませ」


年かさの女官が、礼を崩さぬまま言う。


「何かご入用のものがあれば、すぐに」

「……ありがとうございます」


ミュレットが答えると、女官は深く頭を下げた。


そこまではよかった。


続く言葉が、やはり静かに引っかかった。


「なお、夜間の出入りは安全のため制限されております」

「……」

「筆頭医務官殿の御身は、陛下より大切にお預かりするよう仰せつかっておりますので」

「……そうですか」


大切に。


その言い回しが、胸の奥に小さな棘を残す。


女官は微笑みを崩さなかった。

文官もまた、少しも不自然な顔をしない。


保護。

配慮。

安全。


どの言葉も正しく聞こえる。

それなのに、そこに含まれているものは、ミュレットが知っている“やさしさ”とは少し違った。


「クレスティア側の護衛の方々は」

ミュレットは、できるだけ平らに尋ねた。

「どちらに?」

「同じ棟の別室に待機いただいております」

文官がすぐに答える。

「筆頭医務官殿のご静養を優先し、過度な出入りを避けるためでございます」

「……会えますか?」

「必要なご用件があれば、こちらでお取次ぎいたします」


必要なご用件。


その言い方は、つまり自由に会えないということだった。


「記録係の方は?」

「本日は長旅の疲れもございましょう」

文官の声は、どこまでも柔らかい。

「明日以降、必要に応じて調整いたします」


必要に応じて。

調整。

確認。

共有。


今日だけで、何度そういう言葉を聞いただろう。


ミュレットはもう何も言わなかった。

言えば、きっとまたもっともらしい言葉で包まれるだけだと分かっていたからだ。


女官たちは一礼し、静かに下がっていく。

扉が閉まる。


それでようやく、部屋にひとりになった。


ひとりきりのはずなのに、完全な独りではないと分かる。

扉の向こうに人の気配がある。

足音は遠くない。

たぶん護衛ではなく、監視なのだろう。


ミュレットは窓辺へ歩み寄る。


窓は高く、外には帝都の屋根が遠く見えた。

整えられた街並み。

規則正しく並ぶ灯り。

美しい都だと思う。


だが、美しいという印象のあとに、なぜか息苦しさが残る。


整いすぎているのだ。

ひとつひとつの屋根も、石畳も、灯りも、そこに暮らす人の温度より先に、国の意志で配置されているように見える。


服の下、首もとへ落ちた指輪には触れない。

触れれば少しだけ気が緩みそうで、いまはそれが怖かった。


その代わり、鎖骨に触れる細鎖の冷たさだけを感じる。


見えない。

でも、ある。


それだけで、かろうじて息を整える。


しばらくして、扉が控えめに叩かれた。


「……はい」


入ってきたのは、先ほどとは別の若い女官だった。

湯気の立つ器を持っている。


「喉にやさしい薬湯をお持ちしました」

「ありがとうございます」

「本日のご疲労もおありでしょう。どうぞお早めにお休みくださいませ」


恭しく差し出される。


ミュレットは受け取った。

薬湯の香りはやわらかい。

喉を気遣ってくれているのだろう。

それ自体はありがたかった。


だが、ありがたさと安心が同じではないことも、もう分かっている。


女官は器を置くと、ふと視線を机へ向けた。


そこには、使節として持ち込んだ書き物用の紙がある。

ミュレットがさきほど整え直したばかりのものだ。


「ご文書をおしたためになるようでしたら」

女官はやはり丁寧に言う。

「こちらで預かり、文官へお渡しできます」

「……直接ではなく?」

「内城の規則がございますので」

「……」

「もちろん、失礼のないよう確認のうえ、責任をもって届けられます」


確認。


また、その言葉だった。


ミュレットは小さく頷いた。


「分かりました」

「ご不便をおかけいたします」

女官は微笑む。

「ですがすべては、筆頭医務官殿のお立場と安全のためでございます」


そう言い残して、女官も下がった。


静かだ。


静かすぎる。


ミュレットは卓の前へ座った。

紙を前にして、しばらく何も書けなかった。


書けないのではない。

書いても、そのままは届かないのだと分かってしまったからだ。


アランへ。


その名を書こうとして、指が止まる。


何を書けばいいのか。

無事だと伝えるべきか。

すでに条件が崩れ始めていると書くべきか。

皇帝の傍らに、あの灰銀の髪の男がいたと伝えるべきか。


どれも本当だ。

だが、そのままは届かないだろう。

言葉を選べば選ぶほど、何も言えなくなる気がした。


結局、紙は白いままだった。


ミュレットは細く息を吐く。


その時、扉の向こうで複数の足音が止まった。

ひとつだけではない。

誰かが来たのだと分かる、少し張った気配だった。


叩く音。


「筆頭医務官殿」


昼間、皇帝の傍らで見た帝国医官の声だった。


「……はい」


扉を開けると、医官が二人。

その後ろには、文官がひとり立っている。

いずれも礼は崩していない。


「夜分に失礼いたします」

年長の医官が言う。

「陛下のご容態について、ひとつお伝えが」


ミュレットは胸の内で小さく身構える。


「何かありましたか」

「本日の治療後、陛下のお加減は大きく持ち直されました」

「……それは、何よりです」

「はい」

医官は深く頷く。

「それゆえ、明日もお力をお借りしたく存じます」


明日も。


やはり来た。


医官は続ける。


「本日の処置だけでも十分な改善は見られました」

「……」

「ですが、病が長く蓄積したものである以上、一度の治療で完全に除けるものではございません」

「……」

「この機会を逃せば、再びご容態が悪化するおそれもございます」


文としては正しい。

医療としても、理屈は通る。


だからこそ、厄介だった。


そこへ文官が一歩出る。


「もちろん、これは帝国としての正式なお願いでございます」

「……」

「筆頭医務官殿を不当に引き留める意図はございません」

「……」

「ただ、世界の安定のためにも、陛下のご快復は極めて重要であるとご理解いただければ」


世界の安定。


今日だけで、その言葉が何度も形を変えて現れる。


ミュレットは医官たちを見た。

嘘をついている顔ではない。

少なくとも彼ら自身は、本当にそう思っているのかもしれない。


だから怖い。


悪意だけなら、まだ分かりやすい。

だが、正しさの顔をした所有欲は、もっと深く食い込む。


「……使節としての条件は」

ミュレットは静かに尋ねた。

「一度限りの治療と、限定された滞在だったはずです」

「承知しております」

文官はすぐに答えた。

「ですので、その件も含め、明日改めて正式に協議の場を設けたく」

「……」

「本日は、まず陛下のお身体が本当に快方へ向かっておられることをお伝えし、明日のお願いだけ先に申し上げに参りました」


手順としては、何も間違っていない。


だが、間違っていないことと、正しいことは違う。


ミュレットはしばらく答えなかった。


その沈黙の中で、ふと、昼間の寝台の傍らを思い出す。

灰銀の髪。

右目の下の傷。

左耳の金鎖。


あの男は今日、何も口を挟まなかった。

けれど、何も知らない者の立ち方ではなかった。


エルニアでの襲撃。

焼け跡の黒い門。

自分を奪い去ろうとした手。

それが皇帝の私室へ、まっすぐ繋がっていた。


ならば、いまここで起きている“静かなお願い”もまた、別の形をした同じものだ。


無理やりではない。

叫びも、刃も、黒い手もない。


その代わり、礼と理屈と正しさの顔で、少しずつ逃げ道を塞いでくる。


ミュレットは細く息を吸った。


「本日の記録は、使節として先にまとめます」

「……」

「明日のことは、それを踏まえて判断します」


年長の医官が、わずかに顔を曇らせる。


「筆頭医務官殿」

「陛下のご病状は……分かっています」

ミュレットは遮らず、ただ静かに返した。

「分かったうえで申し上げています」

「……」

「私は、医務官です」

「……」

「ですから、治療が必要かどうかも、手順をどう守るべきかも、考えてお答えします」


強く言ったつもりはなかった。

だが、部屋の空気は少しだけ張った。


文官はすぐに、かたちよく一礼する。


「承知いたしました」

「……」

「では、明朝あらためてお迎えに上がります」


迎えに。


その表現もまた、静かに重い。


一行は礼を残して去っていく。

扉が閉まる。


ミュレットはしばらく、その場から動けなかった。


明日も。

正式な協議。

世界の安定。

迎え。


どの言葉も丁寧だった。

そして、そのひとつひとつが少しずつ、自分を帝国の中へ押し込めていく。


胸元に手をやることはしなかった。

しないまま、ただ細鎖の冷たさを意識する。


見えない。

でも、そこにある。


それだけで、かろうじて立っていられる。


窓の外では、帝都の灯りが静かに並んでいた。

整然と、美しく、少しも乱れずに。


その光景を見ながら、ミュレットは思う。


この国は、叫ばない。

乱暴にも奪わない。

その代わり、相手が自分で頷く形へ整える。


そして、そうやって手に入れたものを、きっと正しいことだと信じるのだ。


部屋はあたたかい。

寝台もやわらかい。

薬湯も用意されている。


それなのに、ここは檻だった。


最初の治療を終えたその日のうちに、

“一度限り”も、“限定滞在”も、もう静かにほころび始めていた。



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