Episode 97. 病床の皇帝
室内は、ひどく静かだった。
重い扉が閉じたあとも、その静けさは少しも揺らがない。
薬草とも香ともつかぬ匂いが薄く漂い、帳を落とした寝台のまわりには、やわらかく抑えられた灯りだけがある。
豪奢なはずの部屋だった。
壁も柱も、置かれた調度も、一目で帝国皇帝の私室だと分かるだけの格を備えている。
それなのに、色だけが妙に淡い。
金も紫も深い色をしているはずなのに、今はそのすべてが薄い膜をかぶったように沈んで見えた。
その中央。
高く整えられた寝台に、オルディウス皇帝は伏せっている。
痩せている。
顔色もよくはない。
長く病に臥せっていたことは、遠目にも分かった。
だが、ミュレットの意識を強く引いたのは、寝台の上の病人より先に、その傍らへ控えている男のほうだった。
灰銀の髪を低く束ね、右目の下に斜めの傷を持つ男。
黒と深紅を重ねた帝国式の長外套。
左耳には、細い金鎖の飾り。
エルニア。
焼け跡。
黒い転移門。
背後から伸びてきた闇の手。
そして、撤退を命じたあの声。
息が浅くなる。
エルニアの焼け跡で、自分を奪おうとした帝国の幹部。
その男が、今、皇帝のすぐ傍に立っている。
男は何も言わなかった。
ただ、こちらが気づいたことを承知したうえで、まるで最初からそこにいるのが当然であるかのように静かに佇んでいる。
視線が合う。
男の口元が、ごくわずかに歪んだ。
挑発と呼ぶには浅すぎる。
だが、隠す気のない笑みだった。
――やはり、ここに繋がっていた。
あの襲撃も。
あの黒い門も。
帝国の宮廷と、地続きだったのだ。
服の下、胸元へ落ちた指輪には触れない。
それでも、鎖骨のあたりへ当たる細鎖の冷たさだけが、今まででいちばんはっきりと感じられた。
その時、寝台の上の皇帝が、ゆっくりと目を開ける。
その眼差しだけは、病人のものではなかった。
老いている。
衰えている。
それでも、誰よりも上に立つことへ慣れきった者の目だった。
「……よく来てくださった」
最初に口を開いたのは、皇帝だった。
思っていたよりも穏やかな声だった。
威圧でも、試すような響きでもない。
ただ静かで、よく通る。
「遠路、感謝する」
ミュレットは一礼する。
「クレスティア王国、王太子府所属、筆頭医務官のミュレットにございます」
「……」
「本日は、診療と治療のため参りました」
皇帝は小さく頷いた。
「そなたのことは聞いている」
「……」
「人命を分け隔てなく救う、稀有な力の持ち主だと」
その言い方に、ミュレットは目を伏せたまま小さく返す。
「目の前の傷を癒すだけです」
皇帝はそこで、ほんのわずかに口元を動かした。
笑った、とまでは言えない。
ただ、その答えを面白がったみたいに目が細められた。
「謙遜は美徳だ。だが、力は力だ」
それは称賛のようにも聞こえた。
王族らしい、余裕のある言葉でもあった。
それでも、ミュレットの胸の奥では何かが小さく軋む。
――力は力。
人ではなく、力を見ている。
そう感じさせる言葉の置き方だった。
帝国医官のひとりが、恭しく一歩出る。
「筆頭医務官殿、こちらへ」
「はい」
寝台の近くへ進む。
帳の内側へ入ると、皇帝の病の気配がはっきり見えた。
呼吸は浅くはないが重い。
脈にも乱れがある。
身体の内側で、長く削られ続けたものがある。
ただし、手遅れではない。
ミュレットは目を閉じた。
外からは見えない指輪。
見えない守り。
それがいま、この場で自分の支えになっている。
掌へ光を集める。
やわらかな光だった。
眩しさで押し切るものではない。
熱を散らし、滞りをほどき、傷んだ流れを静かに整えていく光。
室内の空気が、ほんの少しだけ変わる。
帝国医官たちが息を呑むのが分かった。
文官も、侍従たちも、表情を崩しはしないが、視線の緊張だけが増していく。
灰銀の髪の男だけは、ほとんど動かなかった。
その分だけ、かえって気配が際立つ。
ミュレットはただ、皇帝の身体へ流れる魔力の歪みだけを見た。
熱の偏り。
内臓の疲弊。
長く抑え込まれていた痛み。
加えて、体の表層にかすかにまとわりついている別種の気配。
術式だ、と直感する。
防御か、補助か、あるいは別のものか。
一度で断定はできない。
ただ、病そのものとは違う力が、この男の周囲に常にある。
ミュレットは深入りしない。
今日ここでやるべきことはひとつだけだ。
治す。
光を注ぐ。
皇帝の呼吸が、少しずつ深くなる。
額に浮いていた薄い汗が引いていく。
指先の冷えも、先ほどよりやわらいでいた。
時間にすれば、それほど長くはなかった。
だが、室内の誰も一言も発しなかったせいか、妙に長く感じられた。
やがてミュレットは、そっと手を離す。
光が消える。
沈黙が、静かに戻ってくる。
最初に変化を見せたのは皇帝だった。
閉じていた目をゆっくりと開き、ひとつ深く息を吸う。
先ほどよりも、明らかに顔色がよかった。
帝国医官たちが、抑えきれぬ驚きを目に宿す。
だが誰も口を挟まない。
皇帝自身が先に口を開いたからだ。
「……楽になった」
その声には、たしかに実感があった。
「胸の重さが、薄い」
「……何よりでございます」
皇帝は数秒、黙ってミュレットを見た。
その沈黙は、感謝の言葉を探しているようにも見えた。
だが実際には、もっと別の何かを測っている気配があった。
そして、ゆっくりと言う。
「まことに、尊い力だ」
今度ははっきりとそう言った。
周囲の者たちが、それを追うように頭を垂れる。
医官も、文官も、侍従も。
称賛。
感謝。
そう受け取れば、それだけで済むはずだった。
けれど、ミュレットの背筋には細い冷たさが残った。
その言葉は、癒してくれた人へ向けるものとしては、どこか硬すぎた。
人へではなく、稀少なもの、価値あるものへ向ける響きに聞こえてしまう。
皇帝は続ける。
「クレスティアは、得難きものを持っているのだな」
「……」
「いや」
そこでわずかに目を細める。
「持っている、という言い方は、正確ではないか」
ミュレットの指先がわずかに強ばる。
その瞬間、傍らの灰銀の髪の男が、ほんの少しだけ視線を動かした。
何も言わない。
だがその沈黙まで含めて、ここで交わされる言葉の意味をよく知っている気配だった。
皇帝はそれ以上は続けない。
ただ、穏やかに微笑みを戻し、寝台の上で少しだけ身じろぐ。
「今日は礼を言おう、ミュレット殿」
「……」
「余のために、その力を使ってくれたことを」
ミュレットは頭を下げる。
「医務官として当然の務めにございます」
その返答に、皇帝はまた何かを面白がるように目を細めた。
「そうか」
短い一言だった。
だがそれで十分だった。
この人は、こちらの言葉をそのまま受け取ってはいない。
そう分かるには。
帝国医官のひとりが、寝台の脇へ進み出る。
「陛下、お加減はいかがでしょう」
「先ほどよりよい」
皇帝は短く答える。
「胸の圧迫感が薄れた」
「……まことに」
医官は感嘆を押し殺しきれぬ声で言った。
「これほど明確に改善が見られるとは」
もうひとりの医官が、慎重に言葉を継ぐ。
「恐れながら、筆頭医務官殿」
「はい」
「本日の治療で一定の改善は見られましたが」
「……」
「陛下のご病状は、長く蓄積したものでございます」
「……」
「ご快復を確かなものとするには、継続した治療が望ましいかと」
室内の空気が、ほんのわずかに変わった。
それは強い圧ではない。
露骨な命令でもない。
むしろ、医官として当然の見解を淡々と述べただけに見える。
だが、その一言が意味するものは軽くなかった。
一度限りの治療。
限定された滞在。
公式医療使節としての条件。
それらすべての輪郭が、今この瞬間に少しだけ曖昧にされたのだ。
ミュレットはすぐには答えない。
皇帝は口を挟まない。
ただ、寝台の上から静かにこちらを見ている。
その視線が、返答そのものよりも、返答の仕方を見ているように感じられた。
クレスティア側護衛の空気が、背後でぴんと張る。
記録結晶係も、何かを言うべきか迷っている気配を見せる。
だがこの場で先に動けば、むしろ帝国側へ口実を与える。
ミュレットは呼吸をひとつ整えた。
胸元の下、指輪は見えない。
けれど鎖骨に触れる冷たさだけが、いまも確かにそこにある。
「本日の診療結果につきましては」
ミュレットは静かに言った。
「まず、使節として記録へまとめ、クレスティア側とも共有したうえで判断いたします」
「……」
「そのうえで、必要な手順に従ってお答えいたします」
帝国医官は一拍置き、恭しく頭を下げた。
「承知いたしました」
そう言いながらも、その目には引いていない色がある。
皇帝は寝台の上で、やわらかく目を閉じた。
「よい」
「……」
「急かすつもりはない」
その声は穏やかだった。
「ただ、命には時に、待てぬこともある」
それは脅しではなかった。
脅しではない形をした圧だった。
ミュレットはもう一度、頭を下げる。
「承知しております」
その返事に、皇帝は満足そうにも、不満そうにも見えない顔をした。
だがミュレットには分かった。
静かだ。
礼もある。
気品もある。
それでもこの場所では、すべてがもう始まっている。
治療は終わった。
だが、役目は終わらないことにされようとしている。
室内を辞したあと、重い扉が背後で閉じる。
その音は大きくなかった。
なのに、妙に胸へ残った。
ミュレットは歩きながら、服の下へ隠した指輪には触れなかった。
ただ、鎖骨へかすかに触れる細鎖の冷たさだけを感じていた。
見えない。
けれど、そこにある。
それだけを頼りに、静かに息を吐く。
その時、帝国の文官が後ろから一歩進み出て、恭しく告げた。
「筆頭医務官殿」
「……何でしょう」
「本日の治療記録につきましては、帝国側でも写しを作成し、内容確認をさせていただきたく存じます」
ミュレットは足を止めた。
確認。
共有。
礼節。
そのどれも、言葉としては正しい。
だが、ひとつひとつが、静かに囲い込んでくる。
ミュレットが振り返ると、その少し後ろに、あの灰銀の髪の男が立っていた。
今度は笑っていない。
ただ無表情にこちらを見ている。
まるで、どこまで気づいているのかを測るような目だった。
ミュレットも目を逸らさない。
あの黒い門を開いたのが誰で、ここで何が決められているのか。
もう分からないふりはできない。
帝国宮廷は、思っていた以上に静かだった。
そして、その静けさこそがいちばん不気味だった。
最初の治療を終えたその日のうちに、
“条件”はもう、少しずつ崩れ始めていた。




