Episode 96. 胸もとの指輪
出立の朝。
城の中はすでに動き出している。
使節の随員は持ち場につき、護衛は最終確認を終え、馬車の準備も整いつつある。
廊下の向こうでは足音が絶えず、扉の開閉もいつもより多い。
それでも、アランの私室だけは、外の世界から切り取られたように静かだった。
小卓の上には、黒布が一枚敷かれている。
その上に置かれていたのは、細鎖に通された婚約指輪だった。
ミュレットの指輪。
数日のあいだアランが預かり、守りの術を組み直したものだ。
以前より、わずかに光が深い。
見た目そのものは大きく変わらない。
だが、そこへ触れれば分かる。
重ねられた魔力の密度が違う。
アランはそれを手に取った。
「術式は組み直した」
低い声で言う。
「前より強い」
「……はい」
「代償に、発動条件がより厳しくなった」
ミュレットは素直に頷いた。
その返事を聞きながらも、アランの顔は少しもやわらがない。
ここ数日で何度見たか分からない表情だった。
やるべきことをすべてやると決め、そのためだけに動いている顔。
アランは細鎖に通された指輪を見下ろしたまま、続けた。
「薬指には戻さない」
「……」
「帝国では、見せないほうがいい」
「はい」
「服の下へ隠そう」
「……はい」
見せる守りではなく、隠す守り。
その判断が、いかにもアランらしかった。
ミュレットはその細鎖を見つめ、それからそっと胸元へ触れた。
そこへ落ちる重みを思い描くような仕草だった。
「ここに?」
アランは短く頷いた。
「ああ」
それだけだった。
ミュレットは目を伏せた。
アランにできることは残さないという言葉の通り、準備には余念がなかった。
嬉しい、というには少し違う。
胸の奥へ静かに沁みるような、深いあたたかさだった。
本当に大切にされているのだ。
幸福で心が満ちる。
アランは視線で促す。
ミュレットはこの数ヶ月で伸びた髪を片側へ寄せた。
項があらわになる。
アランの指先が、細鎖を持ってそっと回る。
冷たい金属が肌に触れる。
後ろの留め具が留められ、指輪が胸元へ落ちた。
服の下へ滑り込んでいく、小さな重み。
ミュレットは手のひらを胸へ当てた。
確かにある。
見えない。
けれど、そこにあるのが分かる。
鎖骨のあたりへ触れる冷たい感触が、かえって呼吸を落ち着かせた。
「……ありがとうございます」
アランは短く頷くだけだった。
だがその目は、ミュレットが胸元へ置いた手からしばらく離れなかった。
出立の刻は近い。
扉の向こうでは、もう準備の確認が進んでいるはずだ。
あと少しでこの部屋を出て、帝国へ向かう列へ加わらなければならない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
言いたいことはたくさんある気がした。
でも、何を言っても足りない気もした。
だからミュレットは、考えるより先に動いた。
一歩、近づく。
そのまま、アランへ抱きつく。
「……っ」
アランの身体が、ほんのわずかに強ばった。
驚いたのだとすぐに分かった。
無理もない。
こうして衝動的に抱きしめるのは、たいていアランのほうだった。
サンダレインへ向かう前も。
エルニアで再会した時も。
言葉より先に腕を伸ばしたのは、いつもアランだった。
だから今、自分から抱きついたミュレットを、アランは一瞬どう受け止めていいか分からず静止する。
ミュレットはその胸へ額を寄せたまま、小さく息を吐いた。
「……帰ってきたら、一番に会いに行きます」
しばらく、返事はなかった。
その沈黙が長くなりすぎる前に、ようやくアランの腕が背へ回る。
今度は迷いがなかった。
静かに、けれど深く。
逃がさない腕だった。
「ああ」
低い声が、髪の上に落ちる。
ミュレットは抱きしめる力を少しだけ強くした。
行かなければならない。
戻ってこなければならない。
その前に、ちゃんとこの人のぬくもりを覚えていたかった。
「……アラン様」
「何だ」
「ご無事でいてください」
アランの腕が、わずかに止まる。
「帝国へ行くのはミュレットだ」
「……アラン様のそばで、アラン様の傷を癒せなくなるから……心配です」
その返しに、アランはほんの一瞬だけ言葉を失った。
ミュレットの声は静かだった。
泣きそうでも、弱々しくもない。
ただ、当たり前みたいに自分の役目の中へアランを含めている声だった。
アランは抱きしめる腕に少しだけ力をこめた。
「……俺を心配するのは、ミュレットくらいだ」
そう答えると、アランは小さく息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか、そのどちらでもある気配だった。
「俺の無事まで気にする余裕があるなら」
低く言う。
「自分のことを最優先にしろ」
そう言いながらも、その声は少しだけやわらいでいた。
アランは胸元へ落ちた指輪の位置へ、指先でそっと触れる。
「使う時は躊躇うな」
「はい」
「俺が組み直したそれを、無駄にするな」
「はい」
ミュレットはその声を聞きながら、もう一度だけ胸元へ手を当てた。
見えないところに隠した指輪。
なのに、以前よりもずっと近く感じる。
アランは少しだけ身を引くと、ミュレットの顔を見た。
「離れ難いな……」
指先でミュレットの頬へ触れる。
「……もう時間だ、ミュレット」
その一言だけで、胸の奥がまた少し熱くなる。
涙は浮かぶ。
けれど、落ちない。
落とさない。
アランはそんなミュレットを見つめて、額へ静かな口づけを落とした。
「行ってこい」
その一言は、許可でも命令でもなかった。
納得していない男が、それでも自分の手で送り出すと決めた声だった。
ミュレットは小さく頷く。
「……行ってきます」
言った途端、胸の奥で指輪が小さく重みを返した気がした。
ここにある方が、安心する。
その意味が、今はもうはっきり分かる。
⸻
廊下へ出た時、空気はもう私的なものではなかった。
使節の随員。
近衛から選ばれた護衛。
記録係。
医務局からの補佐。
それぞれが定められた位置につき、出立前の最後の確認を終えている。
ミュレットはその中へ歩み出る。
以前のように、胸元の指輪へ何度も手を伸ばしたりはしなかった。
ただ、鎖骨のあたりへ触れる小さな冷たさだけを感じていた。
見えない。
けれど、ある。
それで十分だった。
護衛の者たちは、その姿に思わず息を呑んだ。
怯えた娘の顔ではない。
ただ守られるだけの者の顔でもない。
静かに覚悟を決めた、王太子の隣に立つ者の顔。
いずれ妃となる者の姿だった。
だからこそ、なおさら守らねばならない。
誰も口には出さない。
だが、無言のまま背筋が揃って正されていく。
ミュレットは馬車へ向かう前に、一度だけ振り返った。
アランは少し離れた場所に立っている。
近くまで来ない。
来れば、たぶん送り出せなくなるからだ。
その代わり、目だけがまっすぐこちらにある。
ミュレットは小さく会釈をした。
アランは、ほんのわずかに頷き返す。
それだけでよかった。
馬車の扉が閉まり、車輪がゆっくり動き出す。
クレスティアの城壁が少しずつ遠ざかる。
見慣れた石の色。
整えられた街道。
雪解けを越えてやわらかくなった春の光。
見送りの景色は、思っていたより静かに後ろへ流れていった。
⸻
道中は大きな乱れもなく進んだ。
警戒は厳重だった。
中継地ごとに護衛が入れ替わり、書簡は先行し、同盟側への連絡も滞りなく回されていく。
誰もが、今回の使節が単なる診療ではないことを知っていた。
国境へ近づくにつれて、空気が変わっていった。
景色は整っている。
道は広い。
見張りの配置も無駄がない。
それなのに、どこか息苦しい。
整いすぎているのだ。
人の暮らしより先に、支配の都合で引かれた線のように見える。
帝国領へ入る時、出迎えは驚くほど丁重だった。
高位の文官が先頭に立ち、深く礼を取る。
言葉遣いは完璧で、無礼は欠片もない。
「筆頭医務官ミュレット殿をお迎えでき、皇帝陛下もお喜びになるでしょう」
その一言だけで、ミュレットは理解した。
歓迎されている。
丁重に遇されている。
だが、人としてではない。
“治癒の力を持つ者”として、価値あるものを迎えている目だった。
ミュレットは礼を返す。
視線は下げない。
やわらかく、しかし退かない。
胸元の下、鎖骨へ触れる冷たい感触だけが、かすかに現実を繋いでいた。
都へ入る。
城壁は高く、門は重い。
大通りは広いのに、どこか圧がある。
行き交う人々の視線も、静かすぎる。
誰も騒がない。
それでも見られているのが分かる。
皇帝のもとへ案内されるまで、無駄な会話はほとんどなかった。
案内の文官は必要なことだけを述べ、余計な感情を一切見せない。
それがなおさら、不気味だった。
やがて、重い扉の前で足が止まる。
「こちらにて、陛下がお待ちです」
扉が開かれる。
室内は静かだった。
薬草とも香ともつかぬ匂いが薄く漂う。
帳が落とされ、光は柔らかく抑えられている。
豪奢なはずの部屋なのに、色だけが妙に淡い。
その中央。
高く整えられた寝台に、オルディウス皇帝は伏せっていた。
痩せて見える。
顔色も悪い。
たしかに病人だった。
だが、ミュレットの目は、その寝台へ辿り着く前に、別のものへ引き留められた。
傍らに控える者たちの中に、ひとり。
灰銀の髪を、後ろで低く束ねている。
右目の下には、斜めに走る傷。
黒と深紅を重ねた帝国式の外套。
そして、左耳に揺れる細い金鎖。
息が止まる。
焼け跡。
晴れすぎた朝。
崩れた柱のそばで開いていた黒い転移門。
背後から伸びてきた、闇の手。
そして――撤退を命じた、あの男。
喉の奥がひやりと冷えた。
あの時、ミュレットを奪おうとした幹部の男が、いまここにいる。
しかも、皇帝のすぐ近くに。
男はもう戦場の顔ではなかった。
帝国宮廷の一員として、あまりにも自然にそこへ立っている。
それがかえって恐ろしかった。
視線が、合う。
男の目が、ほんのわずかに細められた。
驚きも、動揺もない。
ただ、こちらが気づいたことを承知したうえで、何も隠さない目だった。
口元が、ごく浅く歪む。
あの時と同じ、わずかな笑みだった。
――やはり、帝国なのだ。
エルニアの焼け跡で起きたことも。
自分を黒い門へ引きずり込もうとした手も。
すべて、ここへ繋がっている。
そう理解した瞬間、服の下の指輪がある場所だけを意識した。
触れはしない。
だが、鎖骨に当たる細鎖の冷たさを、今まででいちばんはっきり感じる。
その時だった。
寝台の上の皇帝が、ゆっくりと目を開ける。
その眼差しだけは、病人のものではなかった。




