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Episode 95. 出立前夜



出立前日の夜、アランの私室は静かだった。


静かなはずなのに、落ち着きはしなかった。


長椅子に腰掛けたアランの前には、小卓が置かれている。


その上へ、警護配置、帝国側の受け入れ条件、使節の随員一覧、中継地点の確認書類、同盟側への通知文案が何枚も広げられていた。


護衛の顔ぶれも、随員の名も、見栄えや形式だけで選んだ者は一人もいない。


それでもなお、足りない気がしてならなかった。


その横へ、ミュレットはそっと茶器を置いた。


「……冷めますよ」


アランは「ああ」とだけ返し、書類から目を離さない。

手だけ伸ばして茶を取り、一口飲む。


その隣へ、ミュレットも腰を下ろした。


いつもより、少しだけ近い。

肩が触れるほどではない。

だが、意識すればすぐに分かるくらいには近い距離だった。


ミュレットは靴を脱ぎ、長椅子の上で膝を抱える。

その姿勢のまま、小卓へ広がった書類を見て、小さく息を吐いた。


「何度見るのですか、それ」


アランは視線を紙へ落としたまま答える。


「ああ」


返事になっていない。


ミュレットは少しだけ目を細める。


「同じものを、さっきも見ておられました」

「そうかもしれないな」

「……そんなにたくさん」

「必要だ」


低い返事だった。

それだけで、どれほど落ち着かないかが分かる。


ミュレットはしばらく黙っていた。

やがて、膝を抱えたまま小さく口を開く。


「……あえて、言わないでいたことがあるんです」


アランの指が、紙の上で止まる。


「何だ」


ミュレットはすぐには続けなかった。

言うべきかどうか、最後まで迷っている顔だった。


「レオルド・ファーレン」


その名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。


アランの目が、すっと細まる。

だが声はまだ低いままだった。


「……なんだ」


ミュレットは膝の上で指先を重ねる。


「実は、父は……ファーレン家を不審に思っていたみたいで」

「……」

「子どもの頃、書斎の隙間から声が聞こえて」


少しだけ頬を膨らませたあと、ミュレットは続けた。


「父が、誰かに向かって」

「……」

「“あの家は、領地に都合の良い利をもたらす帝国の介入を許してはならない”って」

「……」

「“利用されるだけだ”と」


アランはそこで茶を飲みかけ、思いきりむせた。


「っ……!」


珍しくはっきり崩れた音だった。

茶器を持つ手がわずかに乱れ、ミュレットは慌てて身を乗り出す。


「だ、大丈夫ですか?」

「……大丈夫ではない」

「え」

「その話を、なぜ今まで黙っていた?」


咳を押さえたままの声は低い。

怒鳴ってはいない。

だが、本気で頭が痛い時の声音だった。


ミュレットは肩をすくめる。


「確証がありませんでした」

「……」

「子供の頃の記憶ですし、扉の隙間から聞こえた言葉だけで……」

「……」

「それに、父はそのあと、二度とその話をしませんでした」


アランは目元を押さえ、もう一度だけ呼吸を整える。


「それでもだ」

「知っていた、というほどでは」

「疑っていた」

「……はい」


そこは素直に認める。


ミュレットは少しだけ視線を逸らした。


「言えば、余計な推測になるかもしれないと思って」

「……」

「それに、レオルドの名前を出すと」

言い淀む。

「……アラン様が、あまりよくないお顔をなさるので」


アランは一瞬だけ黙った。


否定はできなかった。


レオルド・ファーレンの名を聞くだけで、胸の奥の温度が変わる。

帝国全体への警戒とは別の、もっと個人的で、もっと不快な怒りが立つ。


「……だから黙っていたのか」

「はい」

「気を遣ったつもりか」

「……もっと早くに言っていたら、きっと"俺も行く"と仰いますし」


アランは深く息を吐いた。

今度は咳ではなく、本物の溜め息だった。


「ごめんなさい」


素直に謝られると、それ以上責め続けることもできない。


アランは背もたれへ身体を預けた。

だがもう、さっきのような書類を見る目ではなかった。


「父君は、誰に向かってその話をしていた」

「分かりません」

「家臣か」

「たぶん」

「“ファーレン家”とは、はっきり言ったのか」

「はい」

「“帝国の介入”も」

「はい」

「他には」

「……“利に目が眩めば、最後は家ごと呑まれる”と」


アランの視線が鋭くなる。


その言い方は、ただの噂を嫌ったものではない。

何かを掴んでいた者の警戒に近い。


「なぜ今、言おうと思った」

低く問う。


ミュレットは膝を抱えたまま、小さく答えた。


「帝国からの書状を読んで」

「……」

「妙に、私のことを知っている文面だと思いました」

「……」

「制度だけではなく」

「……」

「私が、どういう言葉に弱いかまで知っているみたいで」


その声には、はっきりとした不快さが滲んでいた。


アランは何も言わなかった。

言わなくても、それが自分も感じた嫌悪と同じ種類のものだと分かる。


「ずっと、考えすぎかもしれないと思っていました」

「いや」

アランは即座に遮った。

「考えすぎではない」

「……」

「少なくとも、疑う価値はある」


その答えに、ミュレットは少しだけ肩の力を抜いた。


アランは机上の書類を一枚引き寄せ、余白へ短く書きつける。

ファーレン家。

父の言葉。

帝国の利。

それだけでも、十分すぎる材料だった。


「明日の朝一番で、ディルクに洗わせる」

「……はい」

「もっと早く言え」

「……ごめんなさい」

「本当にそう思うなら、次は黙るな」

「……わかっています」

「また、納得していない顔をするな」


いつものやり取りみたいに返したつもりだった。

だが声は、思っていたより少し柔らかい。


ミュレットはそこでようやく、膝を抱えた腕を少し緩めた。


「だって」

ぽつりと言う。

「言ったら、もっとその書類が増えます」

「当たり前だ」


あまりにも即答されて、ミュレットは少しだけ笑った。

その笑いが、今夜はありがたかった。


アランは茶器を取り直し、今度は慎重に一口飲む。

もうむせない。

だが、落ち着いたわけでもない。


しばらく静かな時間が落ちた。


書類をめくる音。

茶器が小卓へ戻る小さな音。

灯りの下で影が少し揺れる。


アランはまた紙へ目を落とした。

もう十分見たはずの文面を、さらに追い直している。


ミュレットはその横顔を見つめた。


明日には帝国へ立つ。

その前夜だというのに、アランは書類ばかり見ている。


不安なのは分かる。

分かるけれど、前日くらい、もう少し二人の時間を優先してくれてもいいのにと思ってしまう。


そんなことを口にしたら困らせるだろうか。

いや、でも、今夜くらい困らせてもいい気がした。


ミュレットは膝を抱え直し、半ば意地のように口を開く。


「……アラン様」

「何だ」

「私、昔、王城へ来たことがあるんです」


そこでようやく、アランの視線が紙から少しだけ外れた。


「……ほう」


たったそれだけなのに、ミュレットは胸の中で少しだけ満足した。


「まだ母が生きていた時に。父と母と三人で」

「……」

「父と母は、その時とても忙しそうでした」

ミュレットは小さく笑った。

「王様に、何かお願いをされていたみたいで」

「そうか」

「私は退屈してしまって、勝手に庭へ出たんです」

「またか」


ミュレットは少しだけ肩をすくめる。


「その時は、まだ綺麗な庭で」

「……」

「木陰を歩いているうちに、地面に寝転がって眠ってしまって」


アランはそこで茶を口へつけた。


「起きたら寝台の上でした」

「……」

「父と母には、ひどく怒られました」


その言葉に、アランは「今もやっていることが変わらないな」と返しかけた。


だが、茶を喉へ流し込もうとした瞬間、ふ、と何かが引っかかったように動きが止まる。


記憶だった。


喉へ流し込んだ茶が変なところへ入り、アランは二度目の咳を立てた。


「っ……!」


「だ、大丈夫ですか?」


ミュレットがまた慌てて身を寄せる。


アランは咳を押さえながら、顔を上げた。


そして、まじまじとミュレットの顔を見る。


一度。

もう一度。


「……ど、どうか、されましたか?」


その問いに、アランはすぐには答えなかった。


いまの話が、遅れて胸の奥へ落ちてくる。



七つか、八つか、九つか。

その頃のことは、さすがに輪郭が曖昧だ。


だが、その日の空気だけは妙にはっきり覚えていた。


第一王子としての教育が本格化し、人前で感情を抑える癖がますます強くなっていたころだ。

礼法、統治、歴史、剣術、政治、語学。

学ぶものは山ほどあった。

その全部を抱えたうえで、特別な力だけは決して表へ出すなと、父母は厳しく教えていた。


その日、父は珍しく執務の合間にアランを呼び止めた。


「アラン、今日から三日間、力の制御をご教授いただくことになった」

「……はい」

「無礼のないように」

「……はい」

「また、三日間は力の制御に集中し、他には手をつけるな」


そこで父の傍らへ立った女を、アランは黙って見上げた。


長い髪をきちんとまとめ、柔らかな微笑みを浮かべている。

見るからに穏やかで、いかにも“優しそうな淑女”という顔だった。


正直に言えば、不信感しかなかった。


本当にこんな女が、俺の力の制御を教えられるのか。


眉間に皺が寄る。


女はそんなアランの顔を見ても少しも怯まず、むしろおかしそうに笑っただけだった。


父が部屋を出る。

扉が閉まる。


その途端、彼女はきっちりまとめ上げていた髪を留める飾りへ手をやった。


するり、と髪がほどける。


「さっ!」


明るい声だった。


「まずは、庭へ出ましょう!」


言うが早いか、彼女はアランの手を取り、半ば引っ張るようにして中庭へ連れ出した。


「こんな素敵なお庭、毎日見られるのだから見ないと損よ!」

「……」

「力の制御でいちばん大事なのは感情」

「……」

「花を愛で、風を感じて、窮屈なお城から出て、馬に乗って走り回ってこそ……」


そこから先も、彼女はずっとそんな話ばかりだった。


庭がどうだの。

花の香りがどうだの。

今日は天気がいいだの。

風がやわらかいだの。


指導らしい指導など、ほとんどしない。


聞いていられん。


そう思って、その場を離れようとした時だった。


視界の端に、小さなものが映る。


青々とした草が生い茂る隙間。


陽だまりの匂いが残る場所に、幼い女の子がひとり、ぐっすり眠っていた。


四つか、それくらい。

やわらかな髪が頬へかかっている。

小さな手は少し開いたまま、安心しきった顔で寝息を立てていた。


アランは、足を止めた。


なぜ止まったのか、自分でも分からなかった。


ただ、そのまま近づいて、隣へしゃがみ込む。


寝顔を見た。


ずっと見ていた。


後ろでは女が、相変わらず庭がどうだの花がどうだの、今日はいい日だのと、取り留めのないことを話し続けている。

まるでそれが当たり前みたいに、やわらかな声が風の中へ流れていく。


アランは聞いていなかった。


目の前の寝顔から、なぜか目を離せなかった。


頬へ落ちる髪。

呼吸に合わせて小さく動く肩。

陽を受けてやわらかく光る睫毛。


ただ眠っているだけなのに、奇妙なほど静かで、妙なほど気になった。


そのうち、後ろの女がふと不思議そうに言った。


「あら、どうしたのかしら? こんなところに座り込んで……」


足音が近づく。

そして、アランの肩越しに草の上を覗き込んだ次の瞬間。


彼女は、はっと手を口に当てた。


「ミュレット!?」



そこで、記憶は途切れた。


アランはしばらく何も言わなかった。


ミュレットは不安そうにその顔を覗き込んでいる。


「……アラン様?」

「……」

「本当に、大丈夫ですか?」


アランはようやく、ゆっくりと息を吐いた。


「昔、見た」


低く言う。


「え?」

「庭で眠るミュレットを」


ミュレットが目を見開く。


「……え?」

「母君もいた」

「……」

「力の制御を教えると言っておきながら、庭がどうだの花がどうだの、ずっと話していた」


呆然としたままのミュレットの顔が、少しずつ驚きと信じられなさへ変わっていく。


「そ、それって」

「間違いない」

「でも」

「王城の庭で寝る娘など、そう何人もいない」


ミュレットはとうとう、茶器を抱えたまま固まった。


アランはその様子を見て、ようやく少しだけ口元を緩める。


「……いや、ミュレットしかいない」

「……そ、そんな」

「父君と母君が怒るのも当然だ」


ミュレットの頬がじわじわと赤くなっていく。


「で、でも、私が四つくらいの頃のお話でしょう?」

「ああ」

「お、覚えておられるのですか……?」

「寝顔だけは、妙にはっきりと」


その言葉に、ミュレットはもう何も言えなくなった。


だが、アランの中では、それだけで終わらなかった。


あの庭の記憶。

母の明るすぎる声。

眠っていた幼いミュレット。

そして父が、何の迷いもなくその女へ自分を預けたこと。


それらが、いまになってひとつに繋がる。


「父上は、母君の力を知っていた」


低く言う。


「ただの客人ではなかった」

「……」

「力の制御を任せるくらいには、信頼していた」


ミュレットは息を呑んだまま、アランを見つめた。


アラン自身も、いま口にしながらようやく理解していた。


つまり、秘密を抱えていたのはミュレットの家だけではなかった。

クレスティア王家もまた、その力の存在と危うさを知った上で、長く沈黙を選んでいたのだ。


アランは戦争で、王であった父と王妃であった母を失った。

王家の秘密を、十分に知らされぬまま、その先を引き継いだ。


ミュレットは戦争で家を失った。

そして、たった一人でその秘密を抱えたまま、生きてきた。


その事実が、今さらのように重く胸へ落ちる。


出立前夜の張りつめた空気の中へ、思いがけず遠い昔の陽だまりだけではなく、長く伏せられてきた王家の沈黙までが立ち上がってくるようだった。


ミュレットは、まだ信じられないものを見るような目で、静かに言う。


「……あの戦争が……母を追い詰めたのですね」

「戦争ではなく、父上と母上の死だろう」

「……はい」


その一言で、部屋の静けさが少しだけ変わる。


「王家の秘匿なくして、守りきれないと」


帝国へ向かう前夜だというのに、二人のあいだへ、もっと古い時間が流れ込んできていた。


ミュレットは茶器を小卓へ戻す。

それから、ゆっくりと息をついた。


「母は優しい人でしたから」

静かな声だった。

「アラン様に、負担をかけたくなかったのかもしれません」


「違う」


アランは、間を置かずに言った。


「俺が一人で政を継ぐことより、母君にとって恐ろしかったのは」

「……」

「ミュレットが“次”として見つかることだ」


ミュレットの睫毛が、かすかに震える。


アランはそのまま、低く続けた。


「だから死んだ」

「……」

「生きていれば、守りきれないと知っていたからだ」


その言葉は、少しも飾られていなかった。

ただ、まっすぐに胸の奥へ落ちてくる。


ミュレットは何も言えなかった。


母は自分を残して逝ったのだと思っていた。

しかし、いま目の前の人は、違う意味を示している。


最後まで、自分を守るために。

自分へ辿り着く手を断つために。

母は、あの選択をしたのだと。


その言い方があまりにもまっすぐで、ミュレットは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


出立前夜の張りつめた空気の中で、思いがけずこんな話になるとは思わなかった。

だからこそ救われる気がした。


帝国へ向かう前に、自分は一人きりではなかったのだと知る。


母が抱えていた秘密のそばには、王家の沈黙もまたあった。

そしてアランは、何も知らぬままその先を引き継ぎ、今ここでようやくその重なりへ辿り着いた。


「……不思議なものだな」

ぽつりとアランが漏らす。


「え?」

「いや」


アランは首を振った。


あの時も目を離せなかった。

そして今も、結局同じように目を離せずにいる。


それだけが、妙におかしかった。


ミュレットは茶器を両手で包んだまま、そっと口元を緩める。


自分の知らないところで、そんな昔に一度会っていた。

しかも、そのことをアランが覚えていた。


それだけで、胸の奥がくすぐったいほど満たされる。


ミュレットはとても満足げに、静かに微笑んだ。



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