Episode 99. 紙切れと開戦
翌朝、帝都の空はよく晴れていた。
高窓の外に広がる春の光は明るい。
城壁の上にも、規則正しく並ぶ屋根にも、金と白の淡い光が落ちている。
都は整っていた。
整いすぎているほどに。
ミュレットは早い刻から別室へ呼ばれた。
昨夜、「明朝あらためて」と告げられていた部屋である。
皇帝の私室ではない。
だが、私的な相談の場でもなかった。
長机。
整えられた書状。
帝国の文官が二人。
医官が一人。
クレスティア側からは護衛と記録係が同席を許されていたが、座る位置は微妙に遠い。
形だけは整っている。
そう感じた瞬間、扉の外からもうひとり入ってきた。
深紫の外套をまとった年かさの文官だった。
帝国の紋章を刻んだ細い杖を携え、その顔には何ひとつ余計な感情が見えない。
「失礼いたします」
その一礼とともに、部屋の空気がわずかに変わる。
「陛下より、あらためて帝国としての正式な見解を、筆頭医務官殿へお伝えいたします」
正式な見解。
その言葉を聞いた瞬間、ミュレットの胸の内で何かが冷えた。
文官は書状を広げる。
「まず、昨日の治療により、陛下のご体調に明確な改善が見られたことを、我々は高く評価しております」
「……」
「つきましては、陛下のご快復を確かなものとするため、筆頭医務官殿による継続治療を正式に要請いたします」
「……」
「なお、陛下のご病状は帝国全体の安定に関わるものであり、その回復は諸国にとっても極めて重大な意味を持つ、と」
丁寧な言葉だった。
礼もある。
だが、昨日よりさらに進んでいる。
継続治療。
正式要請。
帝国全体の安定。
諸国にとっての重大な意味。
ひとつひとつの語が、ゆるやかに逃げ道を塞いでいく。
ミュレットが口を開くより先に、クレスティア側の記録係が一歩進み出た。
「恐れながら」
「本使節は、三国同盟と帝国のあいだで取り交わされた条件に基づき参っております」
「一度限りの診療、限定された滞在、護衛および記録の同伴――」
「それらを逸脱する変更は、正式な協議なくして認められません」
文官の顔色は変わらなかった。
「承知しております」
「……」
「ですので、その点も含めた正式な回答を、帝国はすでに同盟側へ送付しております」
クレスティア側の護衛が、ぴくりと反応する。
「回答を?」
記録係が問い返す。
「ええ」
文官は書状から目を上げた。
「三国同盟側よりの抗議と照会に対し、帝国はすでに見解を明らかにいたしました」
その声音は平板だった。
あまりにも平板で、かえって嫌な予感だけが強まる。
「帝国は、筆頭医務官ミュレット殿の力を、一国が独占してよいものとは考えておりません」
「……」
「また、かの力を王太子アラン・クレスティア殿下が囲い込み、政治的優位のために保持している現状には、重大な懸念を抱いております」
護衛のひとりの肩が、わずかに震えた。
「三国同盟なるものは、我々から見れば一時の利害で結ばれた紙切れにすぎません」
「……」
「帝国は、世界の均衡と安定を守る立場から、必要な行動を取ります」
「……必要な、行動」
ミュレットは、ようやくそれだけ口にした。
文官は頷く。
「ええ」
一拍置いてから、抑揚のない声で続けた。
「すでに、東クレスティア方面では両軍の交戦が始まっております」
その瞬間だった。
クレスティア側の護衛たちの手が、一斉に剣へかかった。
鞘鳴りの前触れのような、張りつめた気配が走る。
記録係も顔色を変え、帝国側の兵がすぐさま半歩前へ出た。
この場で抜けば、終わる。
そう分かった瞬間、ミュレットは咄嗟に声を上げた。
「だめです!」
護衛たちの動きが止まる。
ミュレットは立ち上がった。
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「抜かないでください」
「しかし――」
護衛のひとりが低く言う。
「ここで剣を抜けば、相手の思う通りです」
「……」
「“クレスティアが帝都で先に武力を見せた”と言われる口実になります」
護衛たちは苦い顔のまま、なお剣から手を離さない。
ミュレットは続けた。
「お願いです……!」
「……」
「今は……」
その一言に、ようやく護衛たちは剣から手を外した。
空気はなお重い。
だが、決定的な亀裂だけは避けられた。
帝国の文官は、それを見ても顔色を変えなかった。
むしろ、そのやり取りすら想定の内だというような静けさで言う。
「ご理解いただけたようで、何よりです」
「……」
「帝国は無用な衝突を望みません」
その言葉が、ひどく耳障りだった。
その時、扉の外で慌ただしい足音が止まる。
扉が叩かれ、帝国の兵がひとり飛び込んできた。
「失礼します!」
息を切らせている。
「西方救護棟より急報です」
文官が眉を動かす。
「何事だ」
「負傷者が想定を大きく上回っております!」
「……」
「皇帝陛下のご意向により、筆頭医務官殿のお力を、直ちにお借りしたいと……!」
沈黙が落ちた。
帝国はこれすら利用する。
開戦を自ら始めておきながら、今度は傷ついた兵の存在を継続治療と拘束の理由に使う。
だが同時に、傷を負った者が本当に苦しんでいることも、ミュレットには分かってしまった。
それがいちばん苦しい。
文官はゆっくりとミュレットを見た。
「筆頭医務官殿」
「……」
「救護の場では、多くの命があなたを待っております」
待っている。
たしかにそうなのだろう。
帝国兵であっても。
今まさに東クレスティアで争っている者たちであっても。
傷を負い、熱に浮かされ、血を流しているなら、そこに命がある。
ミュレットは立ち尽くした。
震える手を、もう片方の手で握る。
行けば、帝国の思うつぼかもしれない。
行かなければ、助けられた命を見捨てることになるかもしれない。
そのどちらも、本当だった。
だからこそ、見なかったことにはできない。
ミュレットは顔を上げた。
「……行きます」
護衛のひとりがすぐに口を開く。
「ミュレット様……!」
「分かっています」
ミュレットは静かに言った。
「帝国の意図も、すべて」
「……」
「それでも、もう放っておけません」
その返答に、帝国の文官は少しも驚かなかった。
むしろ予想どおりだと言いたげな、静かな顔だった。
それがまた、ひどかった。
ミュレットはもう、その顔を見ない。
ただ、鎖骨のあたりへ触れる冷たい感触だけを意識する。
見えない。
そこにある。
それだけを支えに、扉の向こうへ歩き出した。
⸻
日が傾く頃には、帝都の空気はさらに張りつめていた。
負傷者は救護棟だけでは収まりきらず、城内の広場へも次々と運び込まれていた。
火が焚かれ、仮設の灯りが並べられ、血を洗う水桶と包帯がいくつも置かれている。
もはやそこは静かな宮廷ではなく、戦の匂いを抱えた場になっていた。
炎の赤が、夜の空を染めている。
血の匂いと、焦げた鉄の匂いが風に混じる。
その中心で、ミュレットは立っていた。
目の前には、並べられた兵士たち。
倒れている。
息が浅い。
ある者は、もうほとんど動かない。
運び込まれてくる。
次々に。
終わりがない。
周囲には、武装した帝国兵。
そのさらに外側に、沈黙する官僚たち。
クレスティアの護衛たちも離れた位置に立っていたが、完全には近づけない配置にされている。
そして、石段の上。
高座の前に、ひとりの男が立っていた。
オルディウス皇帝。
病床にあった時と同じく、顔色は悪い。
血の気の薄い頬。
削げたように細い輪郭。
だが、やつれてなお、その姿には奇妙な威圧があった。
長い指先は白く、衣の袖口から覗く手首は病的なほど細い。
それなのに、その目だけが異様に生きている。
冷たく、冴え、獲物を前にした獣のように愉しげだった。
「……さあ」
低く、愉快そうに声が落ちる。
オルディウスは両手をゆるやかに広げた。
「選べ」
ミュレットの呼吸が止まる。
「ここにいる者を治すか」
「それとも――」
わずかに肩をすくめる。
「見殺しにするか」
風が吹く。
血の匂いが揺れる。
「治せば、彼らはクレスティアへ進軍する」
「治さねば、ここで死ぬ」
静かだった。
あまりにも静かで、逃げ場がなかった。
ミュレットの指先が震える。
視界の端に、倒れている兵の顔が入る。
若い。
まだ、少年のような顔もある。
助けられる。
そう、分かってしまう。
胸の奥で、何かが痛む。
その時。
ふいに、記憶がよぎる。
静かな朝。
差し出された細鎖。
胸もとへ落ちた小さな重み。
そして、自分を見つめていた、あの人の目。
――行ってこい。
胸が締めつけられる。
無意識に、胸もとへ触れる。
服の下、指輪が隠れている場所へ。
かすかな冷たさが、そこにあった。
息を吸う。
必ず、帰ります。
胸の内で、小さく呟く。
それから。
目を閉じる。
あの夜。
言えなかった言葉。
抱え込んでしまった言葉。
今はもう、言える。
胸の奥で、何かが静かに決まる。
ミュレットは、ゆっくりと両手を前に重ねた。
あの日のように。
空気が変わる。
魔力が集まる。
光が生まれる。
優しく。
それでいて、圧倒的に。
広場全体を包むように、広がる。
「……ほう」
オルディウスが喉の奥で笑う。
次の瞬間。
光が落ちた。
兵士たちの傷が、消えていく。
裂けた肉が閉じ、
血が止まり、
呼吸が戻る。
ひとり。
またひとり。
そして、次々に。
倒れていた者たちが、息を吹き返す。
周囲がどよめいた。
官僚が目を見開く。
兵士が立ち上がる。
まるで、生き返ったかのように。
ミュレットはひとりひとりへ手を伸ばすように、さらに光を流していった。
熱に浮かされていた若い兵の額に触れる。
裂けた肩口へ掌をかざす。
血で濡れた包帯の下へ、光を届かせる。
敵か味方かは、もう見ていなかった。
ただ、目の前にある傷だけを見る。
目の前にある命だけを見る。
「素晴らしい力だ」
皇帝の声が、静かに響く。
「なるほど」
「クレスティアは、こんな力を隠していたのか」
その視線が、ミュレットへ向く。
「やはり罪深い存在だ……あの王家は」
ミュレットの膝が崩れる。
力を使い果たしたわけではない。
だが、一度に広く深く癒した反動で、息が乱れる。
視界が揺れる。
それでも、広場のざわめきだけははっきりと聞こえる。
「立て」
腕を掴まれる。
無理やり、引き上げられる。
オルディウスの手だった。
冷たく、細い指。
だが、逃がさない力だけはしっかりしている。
「まだいるぞ」
視線が、別の方向を示す。
運び込まれてくる、次の負傷兵たち。
終わらない。
まだ終わらない。
ミュレットは、息を呑む。
足元が震える。
逃げられない。
「さあ」
皇帝が、微笑む。
「選んだのはお前だ」
その言葉が、静かに落ちた。
広場のざわめきが、遠くなる。
胸の奥に、重いものが沈む。
それでも。
ミュレットは目を閉じなかった。
震える手を、もう一度持ち上げる。
逃げることは、選ばなかった。
だから、ここから先も――
自分で選び続けるしかなかった。
戦が始まった。
その時、ミュレットは帝国兵の傷を癒し続けることになった。
それは慈悲ではなく、帝国に選ばされ続ける時間の始まりでもあった。




