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Episode 100. 救われた刃



光が消えたあと、ミュレットの身体はそのまま崩れた。


膝から力が抜ける。

踏みとどまる暇もなく、床へ倒れ込む。


石の冷たさが頬に触れた。


もう立てない。

指先も、思うように動かない。

呼吸だけが浅く、遠く、胸の内側を擦っていく。


視界の端で、灯火が揺れていた。

その揺れさえ、いまはひどく遠い。


「……」


声にならない息が漏れる。


オルディウスは、その様子を静かに見下ろしていた。


やがて、満足げに笑う。


「見事だ」


その声は、賞賛に近かった。

それだけに、底冷えのする響きだった。


周囲では、立ち上がった兵たちがざわめいている。


さっきまで倒れていたはずの身体が、息を吹き返している。

仲間の名を呼び、互いを確かめ合う声が重なる。


生きている。


その事実だけで、場の空気が変わる。


オルディウスはその中心に立ち、手を広げた。


「さあ」


その声はよく通った。


「戦いを終わらせよう」


誰もがその言葉に引き寄せられる。


次の瞬間、彼は静かに腕を振った。


進軍の指示だった。


生き返ったように立ち上がった兵たちが、一斉に動き出す。

その足取りに迷いはない。

救われた命は、そのまま刃へ変わる。


広場の端で、それを見ていた男は動かなかった。


レオルドだった。


帝国式の外套をまとい、石畳の影に半ば沈むように立っている。

周囲はざわめいているのに、彼だけが沈黙していた。


ただひとり、視線を外さない。


倒れたままのミュレットを、ずっと見ていた。


——なぜ。


その疑問が、頭から離れない。


助ければ、彼らは東クレスティアへ向かう。

助けなければ、ここで死ぬ。


答えなど、初めから決まっているような問いだ。

そう思っていた。


なのに、ミュレットは本当に選んだ。

しかも、苦しそうな顔ではなく、ただ静かに、迷いなどなく、それでも手を伸ばした。

自らの意思で。


その姿が、ひどく目に焼きついていた。


彼がかつて見てきた戦場には、こんな選び方をする人間はいなかった。


生き残るか、見捨てるか。

利用するか、利用されるか。

奪うか、奪われるか。


そういう世界で、二年間を生き延びてきた。


クレスティア東の国境。

雪と泥。

焼けた柵。

死臭。

夜明け前に凍えて動かなくなった兵。

恋人を失って壊れた男。

家が焼かれ、何も持たずに泣いていた女。

戦場とは、そういうものだった。


だから、力を持つ者がいるなら、さっさと使えと思った。

遅れて現れて、すべてを終わらせる者がいるなら、最初から出てこいと思った。


アラン・クレスティアを憎んだのは、そのせいだ。

救えるなら、なぜ早く来なかったのかと。

自分たちが泥と血の中で失ったものを、あの男は何も知らない顔で終わらせた、と。


だが今、目の前で倒れているミュレットもまた、力を持ちながら、ずっと使わずにいた人間なのだ。


使えなかったのではない。

使わなかった。


利用されることを、争われることを、奪われることを恐れて。


そして今、その恐れていたものの真ん中で、敵兵を救った。


レオルドの胸の奥に、鈍い痛みが広がる。


それは怒りではなかった。

いや、怒りはまだある。

アランへの憎しみも、過去への怨みも、消えたわけではない。


だが、それらの底へ、もっと醜いものが沈んでいると気づいてしまった。


――自分は何を見たかったのか。


力を持つ者が、誰かを救うところを見たかったのではないか。

自分たちが死ぬ前に。

戦友たちが消える前に。

凍えていく子どもたちが息を止める前に。


なのに今、自分はその力を、帝国のものにする側に立っている。


「……っ」


レオルドは息を呑んだ。


その時、広場の中央で女官たちと医官が駆け寄り、ミュレットを抱き起こした。

ぐったりとした身体は軽すぎた。

手首は白く、指先はもうほとんど力が入っていない。


「医務官殿をお運びしろ」

皇帝が言う。

「休ませたあと、また呼ぶ」

「はっ」


また呼ぶ。


その一言に、レオルドのこめかみが冷えた。


終わらない。

終わらせる気がない。


癒した兵たちは、そのまま前線へ送られる。

ミュレットは、息が切れるまで治療を続けさせられる。


救った命は、また戦へ使われる。


それを理解してなお、帝国の兵たちは感謝し、皇帝は満足げに微笑んでいる。


これが、望みだったはずだ。


なのに気分が悪かった。


ミュレットは広場から運び出された。


レオルドはその背を見送り、少し遅れて歩き出す。

自分でも何をしようとしているのか、はっきりとは分かっていなかった。


ただ、このまま広場に残っていれば吐きそうだった。



運び込まれた先は、内城の奥の静かな一室だった。


広場の喧噪が嘘みたいに遠い。

厚い絨毯が音を吸い、灯りは落とされ、薬草の匂いだけが薄く漂う。


簡素な寝台へミュレットは横たえられた。

帝国の医官が脈を診て、女官に短く指示を出す。


「しばらく休ませれば戻る」

「陛下のお呼びがあれば、すぐに動けるようにしておけ」


それだけ言って、医官たちは下がっていった。


扉が閉まる。


静寂。


しばらくして、その静けさを破るように、また別の足音が入ってきた。


レオルドだった。


寝台の傍らまで来ても、すぐには声をかけなかった。

自分でも、何を言えばいいのか分からなかったからだ。


ミュレットの呼吸は浅い。

顔色も悪い。

目元には疲労が濃く残っている。


それでも、完全に意識を失っているわけではなさそうだった。


薄く目が開く。


視線が揺れる。

やがて、レオルドの姿をとらえる。


「……レオ」


かすれた声だった。


その呼び方に、レオルドの眉がかすかに動く。


「その名で呼ぶな」

「……ごめんなさい」


最後までは言わなかった。

言い切る前に、息が乱れたからだ。


レオルドは寝台の脇で腕を組んだまま、しばらく黙っていた。

責めるつもりで来たのか。

問い質すためか。

それともただ確かめたかったのか。

自分でも分からない。


結局、口を開いた時に出たのは、予定していた言葉ではなかった。


「……なぜだ」


低い声だった。


ミュレットはゆっくりと視線を向ける。


「なぜ、力を使った」


問いは鋭い。

だが、怒りというより、理解できないものに向ける声だった。


「お前の国へ進軍する兵士たちだぞ」


ミュレットはしばらく何も言わなかった。


それから、ほんの少しだけ口元がゆるむ。


微笑んでいた。


レオルドの目がわずかに揺れる。


驚いたのは、その表情だった。


苦しんでいない。

後悔もしていない。

むしろ――どこか穏やかだった。


「……嬉しいの」


かすれた声だった。

はっきりとした言葉だった。


「……?」

レオルドは眉を寄せる。


ミュレットは視線を天井へ戻す。


「もう隠さなくていい」


言葉はゆっくりだった。

息をするたびに少しだけ途切れる。


「見ないふり、しなくていい」


まぶたが閉じる。


その裏に、いくつもの光景が浮かんでいるのが、レオルドにも分かるようだった。


彼女もまた、見てきたのだ。

泣くしかなかった者たちを。

寒さに震え、傷に呻き、誰にも助けられずにいた人たちを。


「たとえ」


小さく息を吐く。


「贖罪でも……」


レオルドは黙っていた。


理解しようとしているが、追いつかない顔だった。


ミュレットはかすかに笑う。


「命を助けられるなら」

「……」

「力を、使えるなら」


その声は、もうほとんど囁きに近い。


「こんなに幸せなことは、ない」


レオルドの目が、ほんのわずかに見開かれる。


その価値観が、あまりにも異質だったからだ。


敵だ。

利用されている。

自分の力で、帝国兵をまた戦へ戻している。

それなのに、満たされている。


そんな顔だった。


「……愚かだな」


絞り出すような声だった。


「……生かした者が、誰かの命を奪うとは考えないのか」


ミュレットは否定しなかった。


ただ、静かに目を閉じる。


そのあと、少しだけ間があった。


そして、ぽつりと。


「でも」


ミュレットは、ほんの少しだけ笑った。


「アラン様は、怒りません」


その名前に、レオルドの視線が変わる。


「……」


ミュレットは続けた。


「前だったら」

「……」

「嫌われたらどうしようって、泣いていたかもしれません」


呼吸が浅くなる。


「でも、今は」


言葉が、静かに落ちる。


「大丈夫……」


涙は出ていなかった。

不思議なくらい、穏やかな顔だった。


「アラン様なら、きっと……」


一瞬だけ、誰かの顔を思い浮かべたのだろう。

その表情が、ほんの少しだけやわらいだ。


——これを、ミュレットがしたのか?


少し驚いて。

それから、少しだけ嬉しそうに。


——すごいな。


そんなふうに言うのだと。

本気で、そう信じている顔だった。


レオルドはその横顔を見つめた。


信じている。

疑わない。

所有されることも、囲い込まれることも恐れてきたはずの少女が、ただひとりの男に対してだけは、そんな顔をする。


そのことが、妙に胸へ刺さった。


「……そうか」


それだけが、ようやく出た。


ミュレットはそのまま、ゆっくりと息を吐いた。

胸の奥にだけ、ほんの少しあたたかいものを抱くように。


それだけで、十分だと言うみたいに。


レオルドは何も言えなかった。


部屋の中は静かだった。

外ではまだ、帝国の兵たちがざわめいているのだろう。

救われた命が、また東クレスティアへ送られていくのだろう。


なのにここだけが、切り取られたように静かだった。


その静けさの中で、レオルドは初めて思った。


自分はずっと、救われなかったことを憎んできた。

力を持つ者が遅かったことを。

使わなかったことを。

届かなかったことを。


それなのにミュレットは、使えば奪われることを知っていて、なおいま目の前の命へ手を伸ばしている。


そして自分は、その力を檻へ入れる側に立っている。


喉の奥が重くなる。


息がしづらい。


レオルドは踵を返しかけて、止まった。

振り返りはしないまま、低く言う。


「……まだ終わっていない」


ミュレットは目を閉じたまま、小さく息をするだけだった。


「帝国は、お前が倒れるまで使う」

「……」

「治した兵は、また戦場へ送られる」

「……」

「それでも、まだ嬉しいと言えるのか」


少し長い沈黙のあと。


「……はい」


あまりにも静かな返事だった。


レオルドは唇を噛む。


その一言が、なぜかいちばん堪えた。


怒りも、後悔も、何もかもひっくるめて、自分だけが醜く見える返事だったからだ。


「……馬鹿だな」


今度は、さっきよりもずっと掠れた声だった。


ミュレットは答えない。

ただ、呼吸だけがかすかに上下している。


レオルドは部屋を出た。


扉が閉まる。


廊下へ出た瞬間、顔を上げられなかった。


前を向けば、広場で立ち上がっていた兵たちの姿を思い出す。

目を閉じれば、クレスティア東の国境で倒れていった戦友たちの顔が浮かぶ。

そして、そのどちらの間にも、寝台の上で穏やかに笑っていたミュレットの顔が入り込んでくる。


「……くそ」


誰にも聞こえぬ声で、吐き捨てる。


憎んでいたはずだった。

欲しかったのだと、もう認めてしまった。

そして今、自分がその力を帝国の檻へ押し込める側にいることも。


胸の奥に、鈍い痛みが沈む。


それはもう、怒りだけではなかった。


自責の念だった。



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