Episode 101. 東の亡霊
その夜、レオルドは眠れなかった。
帝都の夜は静かだった。
兵の移動は続いているはずなのに、その気配さえ厚い壁の向こうで削がれている。
高い塔の灯りも、規則正しく並ぶ見張りの影も、乱れひとつない。
整いすぎている。
そう思うたび、喉の奥がざらついた。
石造りの回廊を歩く。
足音は吸われるように消えていく。
止まっても誰も問いかけない。
帝国の内城は、必要な者だけを通し、不要な感情は最初から存在しないものとして扱う場所だった。
レオルドは窓辺へ寄った。
夜の向こうには、東がある。
東クレスティア。
あの国境。
あの雪。
あの泥。
そして、二年間。
凍りついた塹壕。
黒く濡れた土。
息を吐くたび肺の奥が焼けるように痛み、それでも持ち場を離れられなかった夜。
腕を失った兵が、誰にも聞こえない声で母を呼んでいたこと。
恋人を失った男が、翌朝には別人のような目をしていたこと。
家を失い、何も持たずに泣いていた女。
凍傷で静かに息絶えた子ども。
戦場とは、そういうものだった。
だから、力を持つ者がいるなら、さっさと使えと思った。
助けられる者がいるなら、もっと早く現れろと思った。
その怨みは、長く胸の底に残っていた。
けれど、今日、広場で見たものは何だった。
ミュレットは使った。
使えば奪われると知っていたはずの力を。
敵兵に。
それが東クレスティアへの進軍に繋がると分かったうえで。
それでも、手を伸ばした。
その姿が、頭から離れない。
そこまで考えた時、ふいに足が動いた。
⸻
その日、それきりでは終わらなかった。
ミュレットは一度だけ別室へ下げられた。
湯を飲まされ、脈を診られ、少しだけ横にならされる。
だが、休息と呼ぶには短すぎた。
「陛下がお呼びです」
その一言で、また扉が開く。
再び広場へ。
再び救護棟へ。
再び、運び込まれてくる負傷兵たちの前へ。
火の匂い。
血の匂い。
焼けた鉄の匂い。
夜の帝都は静かなはずなのに、その一角だけはずっと戦場の続きを引きずっていた。
ミュレットは手を伸ばした。
ひとり、またひとりと傷を癒していく。
裂けた肉を閉じ、
砕けた骨をつなぎ、
熱に浮かされた額へ光を落とす。
終わらない。
救っても、救っても、次が運び込まれてくる。
運ばれてくる兵の列が尽きない限り、手を止めることはできなかった。
止める者も、いなかった。
だからミュレットは、負傷者がいなくなるまで力を使い続けた。
光を落とすたび、帝国兵たちの顔色が戻る。
息が戻る。
声が戻る。
そして、そのたびに感謝の声が上がった。
「助かった……」
「生きてる」
「筆頭医務官殿のおかげだ」
「もう一度立てる」
「陛下のために戦える」
その声が、レオルドの耳へひとつずつ刺さった。
助かった。
生きてる。
戻れる。
また戦える。
どれも本心だ。
救われた者の、嘘のない声だ。
だからこそ気分が悪かった。
救われた命は、そのまままた刃になる。
何度でもだ。
レオルドは広場の端で、それを聞き続けた。
聞くしかなかった。
ミュレットは何度目かの治癒を終えたあと、ついにその場で膝をついた。
女官に支えられ、別室へ運ばれていく。
だが、ほんの少し休まされれば、また呼ばれた。
それを、夜が深まるまで繰り返した。
ようやく負傷兵の列が途切れた時には、空は白み始めていた。
広場の火は弱くなっている。
だが、治された兵たちはもう再編の列へ戻されていた。
武具を受け取り、整列し、戦場への移動命令を待つ。
その顔は疲れていても、生き延びた者の顔だった。
レオルドは、その列を見た。
救われた刃。
彼らの足は、また同じ方向へ向いた。
ミュレットの部屋は静かだった。
灯りは落とされ、窓の外には月が残っている。
薄い銀の光が床の一角だけを冷たく照らしていた。
ミュレットは寝台に横たわっていた。
起きてはいる。
だが、体を起こす力は戻っていないらしい。
顔色は白く、目元には疲労が濃く残っている。
扉の音に、ゆっくり顔を向ける。
「あ……」
レオルドの姿を認めて、少しだけ目を見開いた。
「レオ」
かすれた声だった。
その呼び方に、レオルドは眉を寄せた。
レオルドは寝台の傍まで来たが、腰は下ろさなかった。
しばらく黙ったあと、低く言う。
「本当に、後悔はしていないのか」
ミュレットは瞬いた。
それから少しだけ目を細める。
「心配してくれてるの?」
「……質問に答えろ」
返した声は思ったより掠れていた。
ミュレットは小さく息をつき、窓の外へ視線を戻す。
その横顔は、やつれているのに不思議と静かだった。
レオルドは続けた。
「……あなたは昔から、周りの人たちを大事にしていたから……」
そこで一度、言葉が詰まる。
「でも、皆死んだ」
「……」
「戦争で」
部屋の空気が、わずかに冷える。
「どれだけ大事にしても、死なせては意味がない」
「……」
「力がなければ、争いは終わらない」
ミュレットは静かに頷いた。
「そう……」
肯定でも否定でもない、ただ受け止めるような声だった。
それが、かえって胸に堪えた。
レオルドは、何か答えが返ってくるのではないかと期待していた自分に、その時ようやく気づいた。
戦を終わらせる力とは何か。
守るとは何か。
奪うことと救うことのあいだに、何か正しい答えがあるのではないか。
昔から、ミュレットはどこか遠くを見る目をしていた。
幼い頃からそうだった。
婚約者になると聞かされた時でさえ、驚きも拒絶も見せず、ただ穏やかに微笑んで、
「よろしくお願いいたします」
と頭を下げた。
その時も、どこか遠くを見ていた。
ところが、今のミュレットは違う。
同じように静かなのに、別人みたいだった。
心の底から笑うことを知ってしまった人の顔だった。
「失ったものは、たくさんある」
ミュレットがぽつりと言った。
「家も」
「……」
「家族も」
「……」
「戻らない日々も」
「……」
「たくさん、ある」
月の光が、その横顔を細く縁取っている。
それから、ミュレットはレオルドを見た。
「では、本当に欲しかったものは……?」
レオルドの表情が、目に見えて引き攣った。
その問いは、責めるためのものではなかった。
ただ静かに、差し出されたものだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
本当に欲しかったもの。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
力がなければ争いは終わらない。
奪われる前に奪え。
使えるものは使え。
価値あるものは囲い込め。
いつの間にか、それが正しいのだと思わされていた。
いや、思い込むことでしか、自分が失ったものに意味を与えられなかった。
けれど、ミュレットの問いは、その理屈をまっすぐ越えてきた。
欲しかったのは、力そのものだったのか。
支配する側へ回ることだったのか。
それとも——。
喉の奥が熱い。
唇を開けば、情けない声が出る気がした。
「……」
何も言えない。
その沈黙の中で、長く自分を縛っていたものに、初めて決定的な綻びが入った。
オルディウスの命令が、帝国の論理が、自分の願いそのものだったわけではない。
ただ、失いたくなかったものを取り戻すための言葉だと信じたかっただけだ。
けれど今、その外側から問われてしまった。
本当に欲しかったものは何かと。
その綻びは小さかった。だが、一度入った以上、もう元の形には戻らない。
その瞬間、皇帝の理屈は、もう以前と同じ顔では立っていられなかった。
レオルドは何も言わないまま、踵を返した。
ミュレットは引き止めなかった。
ただまた、窓の外へ視線を戻していた。
扉を開け、部屋を出る。
閉まる直前、あの静かな横顔だけが最後に目へ焼きついた。
⸻
廊下の先の窓辺で、レオルドは足を止めた。
月が出ている。
帝都の石壁も、整然と並ぶ屋根も、その光の下ではひどく静かだった。
けれど胸の内だけは、少しも静まらない。
本当に欲しかったもの。
目を閉じる。
浮かんだのは、戦場ではなかった。
東の領地。
集まってくる領民たち。
父上。
母上。
兄弟たち。
そして、自分。
誰も死なず、誰も怯えず、皆が笑って暮らしている。
ただ、それだけの光景だった。
豪奢なものではない。
大きな夢でもない。
勝利でも、支配でも、帝国への忠誠でもなかった。
ただ、そんな毎日。
あの戦いで失くしたもの。
それが、本当に欲しかったものだった。
欲しかったのは、戦を終わらせる力そのものではなかった。
何を失いたくなかったのか。
何を取り戻したかったのか。
それを考えないまま求めた力は、結局、自分をここまで連れてきただけだった。
オルディウスの言葉に従っていたのではない。
もっと先に、自分が自分の喪失へ縛られていた。
皇帝は、その傷へ都合のいい理屈を与えただけだ。
だが今、その理屈はもう剥がれ始めている。
ミュレットの問いが開けた綻びから、冷たい夜気が入り込むみたいに、初めて別の考えが胸へ流れ込んでくる。
取り戻したかったのは、支配ではない。
欲しかったのは、恐れられる力ではない。
守りたかったのは、あのありふれた日々だった。
レオルドは窓枠へ額を押しつけるようにして、深く息を吐いた。
胸の奥に沈んでいる痛みの名を、もう誤魔化せなかった。
それは怒りではない。
怨みだけでもない。
取り返せなかったものへの喪失と、
それを求めるうちに、自分がどこまで来てしまったのかという痛みだった。
そして同時に――
もう、オルディウスの理屈の中へ戻れないのだという、静かな確信でもあった。
月は静かだった。
だが、その夜、レオルドの中では、もう何かが音を立てて崩れ始めていた。




