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Episode 102. 拾われた火種



翌日の午後、ミュレットは内城の回廊をゆっくり歩いていた。


昨夜ほどではない。

けれど、身体はまだ重い。

広場で一度に大勢を癒した反動は、思っていたより深く残っていた。


呼吸は整っている。

足も動く。

それでも、力を抜けばすぐに膝が折れそうな、妙な空虚さが身体の内側にあった。


帝国の女官がひとり、少し前を歩いている。

その後ろを、距離を置いてクレスティア側の護衛がつく。

近づきすぎることは許されない。

だが完全に切り離されてもいない。


その半端さが、かえって気持ち悪かった。


「本日は、庭園の奥まででしたらお歩きいただけます」


案内役の女官が振り返って言う。


「長くお部屋におられるのも、お疲れでしょうから」

「……ありがとうございます」


礼を返す。


やはり言葉は柔らかい。

配慮も、あるように見える。


だが、自由に歩かせるのではなく、歩いてよい範囲を決めて与える。

その在り方そのものが、この国のやり方なのだろう。


窓の外は明るい。

昨日の広場とは違い、ここには血の匂いも焦げた鉄の匂いもない。

整えられた石畳と、刈り込まれた低木、季節を先取りするように植えられた花々が続いている。


美しい。

なのにどこか、息苦しいほど整っていた。


庭園へ続く回廊を折れた時だった。


向こうから、数人の侍女を従えて歩いてくる女の姿が見えた。


足が止まる。


鮮やかな色の衣。

飾りの多い髪。

顎を少しだけ上げた歩き方。

こちらを見た瞬間の、あの嫌に整った笑み。


ミュレットは思わず目を見開いた。


「……っ」


女もまた、足を止めた。


そして、その口元がゆるやかに歪む。


「まあ」


その声音は、あの時と何ひとつ変わらなかった。


「お姉様は、とんだ娘を拾ったものね」


エルニアの第三王女だった。


ミュレットの喉が、一瞬で乾く。


燃えた王宮。

初雪の夜。

刃の夜。

逃げ惑う気配と、崩れていく足場。

炎の奥にあった王族たちの顔が、一気によみがえった。


目の前の女は、たしかにあの場にいた。

敗れた側のひとりとして。

王宮の混乱の中で、行方が定かでなくなっていたはずの人間だった。


それが今、帝国の内城を、まるで自分の居場所のような顔で歩いている。


「どうして、ここに……」


ようやく出た声は、思ったより掠れていた。


第三王女は肩をすくめる。


「どうして、なんて」

「……」

「国に戻れば斬首、ここにいれば生き残れる」

「……」

「ただそれだけよ」


あまりにもあっけらかんとしていて、ミュレットは返す言葉を失う。


第三王女は、少しも恥じていなかった。

いや、恥じるという発想そのものがない顔だった。


「生きるために、強い国に寄る」

「……」

「何かおかしい?」


その問いに、ミュレットはすぐには答えられなかった。


おかしい。

もちろん、おかしい。


だがそれ以上に、いま目の前にある事実の重さが大きすぎた。


帝国は、ただミュレットの力を欲しているだけではない。

エルニアの火種まで抱え込んでいる。

敗れた第三王女を切り捨てるのではなく、手元に置いている。


必要な時に使うために。


その事実が、冷たく背筋を這い上がる。


第三王女はミュレットを眺め、ふっと鼻で笑った。


「でも、可哀想ね」

「……」

「あなた、自分が何のためにここに置かれてるか、ちゃんと分かってる?」

「……分かっています」

「本当に?」


わずかに首を傾げる。


「治療使節」

「高義」

「人命」

「世界の安定」


並べられる言葉は、どれも帝国が好んで使うものだった。

その口ぶりには、はっきりとした嘲りがあった。


「きれいな言葉って便利よね」

「……」

「何を囲い込んでも、まるで正しいことみたいに見えるんだもの」


ミュレットは黙っていた。


第三王女は一歩だけ近づく。


「あなたがここでどれだけ人を治しても」

「……」

「帝国は、あなたを“立派な人”として見てるわけじゃない」

「……」

「便利な力として見てるだけ」


その言葉は、ある意味では正しかった。


だからこそ、返しようがない。


第三王女はその沈黙を見て、満足したように目を細めた。


「でも安心なさい」

「……?」

「この国は、使えるものはすぐには壊さないわ」

「……」

「ちゃんと、大事にしてくれる」


その“大事”が何を意味するのか、ミュレットにはもう分かっていた。


鳥籠の中で、餌と水を与えながら歌わせるのと同じことだ。


「わたくしはね」

第三王女は続ける。

「負けた側の人間が、どう生き延びるかを知っているの」

「……」

「誇りや筋を抱えて死ぬより、ずっと役に立つ知恵よ」


その言葉の端々に、敗者の痛みがないわけではなかった。

だが、それさえももう乾ききっているように聞こえた。


痛みを抱えたまま生きるのではなく、痛みごと何かへ売り渡してしまった人の声だと、ミュレットは思った。


「……あなたは」


気づけば、そう呼んでいた。


第三王女の目がわずかに細まる。


「何?」

「それで、よかったのですか」

「……」

「エルニアを、ああいう形で」

「今さら何を言うの」

第三王女はぴしゃりと言った。

「あの国は、もうわたくしのものにはならなかった」

「……」

「なら、別の場所で生きるだけでしょう」


それだけだった。


王位も、国も、家族も、すべてをその一言で切って捨てるみたいな言い方だった。


その軽さの奥に、別の冷たさがある。

帝国の空気に長く触れた者の冷え方だ。


「あなたも、そのうち分かるわ」

第三王女は言う。

「守られることと、囲われることの違いなんて」

「……」

「この国では、大して意味がないの」


ミュレットは小さく息を吸った。


その言葉に、胸の奥で何かが静かに反発する。


違う。


意味がないのではない。

意味があるからこそ、帝国はそれをわざと曖昧にしているのだ。


守る、という言葉で囲う。

大事にする、という顔で所有する。

価値を認める、という形で人を人でなくしていく。


第三王女はもう、それに慣れてしまったのだろう。

あるいは、慣れたふりをしていなければ生き残れなかったのかもしれない。


「……では、失礼するわ」


第三王女はそれだけ言うと、もうミュレットにはほとんど興味を失ったように身を翻した。


「あなたを見ていると」

最後に、振り返りもせず言う。

「お姉様が、どれほど厄介なものを拾ったのか、よく分かる」


侍女たちを従え、そのまま去っていく。


足音は軽い。

なのに、残された気配だけが重かった。


回廊に静けさが戻る。


女官も護衛も、何も言わなかった。

言えないのだろう。

エルニア第三王女がここにいること自体、あまりにも大きな意味を持つからだ。


ミュレットはその場に立ち尽くした。


エルニアの第三王女。

帝国内城。

当然のように歩く姿。

「ここにいれば生き残れる」という言葉。


それだけで、もう十分だった。


帝国は、他国の敗れた者を切り捨てない。


救うためではない。

必要な時に使うために、抱え込むのだ。


国へ戻れない者。

負けた者。

居場所を失った者。

そういう火種を消すのではなく、胸の内で飼い慣らし、

いつでも燃やせる形で持ち続ける国。


その在り方が、ひどく冷たく思えた。


ミュレットはゆっくりと歩き出した。

女官が慌てて後ろにつく。

護衛たちも少し遅れて続く。


回廊の先には、整えられた灯りが続いている。

美しく、静かで、少しも乱れがない。


けれど、その静けさの下で、いくつもの傷が息を潜めているのだと、もう分かっていた。


レオルド。

第三王女。

そして、いまここに囲われている自分。


帝国は、人を守るふりをして、

その傷ごと抱え込み、使う国なのだ。


服の下にある細鎖の冷たさへ、意識を向ける。


見えない。

そこにある。


帰る場所があるからこそ、分かる。


ここは、居場所ではない。


ミュレットは小さく息を吸った。


囲われるだけでは終わらない。

選ばされるだけでも終わらない。


この国が何をしているのかを、きちんと見て、覚えておかなければならない。


その思いだけを胸の奥で静かに固めながら、ミュレットは前を向いた。



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