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Episode 103. 紙の上の檻



クレスティア王城の閉ざされた会議室には、帝国から届いた文書と、東クレスティアの戦況報告が並べられていた。


机を囲むのは、アラン、リリナ、グレンの三人のみ。

外は明るい。だが、この部屋の空気は少しもやわらかくなかった。


「ひどい文書ね」


最初に口を開いたのはリリナだった。


「“人命保護の理念”だの、“世界の安定”だの。言葉だけは立派」


「立派だからこそ厄介です」

グレンが静かに言う。

「露骨な脅しより、よほど人を欺ける」


アランは文書から目を離さないまま、低く言った。


「問題は、帝国がこの文面を本気で使えると思っていることだ」


リリナが腕を組む。


「でも、ひとつだけ確かなことがあるわ。ミュレットは帝国のものじゃない」

「ええ」

グレンも頷いた。

「たとえ拘束されたとしても、力の所有権はミュレット様にあります。本人が使わなければ、それで終わりです」


短い沈黙が落ちた。


アランだけが、何も言わない。


リリナが目を細める。


「何よ」

「……使う」


アランは言い切った。


「ミュレットは使う」

「そんなはず」

「使う」

今度はさらに明確に言う。

「帝国のためではない。目の前に傷ついた人間がいれば、使う」


グレンの表情がわずかに引き締まる。


「なるほど……」

「帝国は、そこまで読んでいるということですか」

「ああ」

アランは短く答えた。

「命じれば従う、ではない。傷ついた者を前に置けば、ミュレットは自分で選ぶ」

「……」

「その形に持ち込めば、帝国は“強制していない”顔ができる」


リリナが低く吐き捨てる。


「下劣ね」


アランは机上の文書を指先で押さえた。


「だから待つだけでは駄目だ。帝国が“使わせる”形を完成させる前に、こちらが勝ち筋を作る」


「東クレスティアへの侵攻」

グレンが文書へ視線を落とす。

「帝都での使節拘束」

「王都世論への揺さぶり」

リリナが続ける。

「全部、ひとつの線ね」


「ああ」

アランは頷いた。

「だから、全て断つ」


グレンが静かに言う。


「港はサンダレインが押さえます。名目は監視のまま、帝国の補給線を締める」

「エルニアは残党の線を洗うわ」

リリナの声が冷える。

「妹が帝国内にいる可能性が高い」

「クレスティアは証拠を積む」

アランは言った。

「帝国が医療使節を事実上拘束している証拠、東クレスティア侵攻との連動、内通の線。すべてだ」


「レオルド・ファーレン」

リリナが名を出す。

「東の亡霊」

「生き残った兵ほど、帝国の秩序に縋りたくなる」

グレンが淡々と言う。

「気持ちは分からなくもありません」

「分かるから厄介だ」

アランは返した。

「同情で処理できる段階ではない」


三人のあいだに、短い沈黙が落ちる。


やがてリリナが深く息を吐いた。


「結局、ただ取り戻すだけじゃ駄目なのよ」

「ええ」

グレンが頷く。

「帝国に“やり得”を許せば、次も同じ手で来ます」

「だから」

アランは静かに言った。

「勝ち方を変える」


その声には、怒りだけではないものがあった。


断界王として切るだけではない。

王として、制度と真実で追い詰める。


最後に剣を振るうとしても、それは衝動であってはならない。

帝国に文句の余地すら与えない形で、叩き潰す。


そういう決意だった。


「東の対応は予定どおり進める」

アランは言った。

「港湾監視、情報線、王都布告、内通調査」

「ええ」

「承知しました」

「帝都については、証拠を積んだ上でこちらから“使節拘束”と認定する」


「その時は?」

グレンが問う。


アランの声音が、ほんのわずかに冷える。


「帝国の都合では終わらせない」


その時だった。


「殿下!」


扉の外から、鋭い声がかかった。


近衛がひとり、許可を待つ間も惜しむように入室した。

顔色は変えていない。

だが、その目には明らかに急ぎの色がある。


「何だ」

「北棟封鎖室に、転送反応!」

「……」

「内密便です……!」


アランの目が変わる。


リリナとグレンも、同時に顔を上げた。


北棟封鎖室。


それは、アランが事前に用意させていた王城内の一室だった。

床一面に、複雑な転移魔法陣が刻まれている。


帝国の監視下にあっても、文書と記録結晶だけなら一度だけ長距離転送できるように。

そのためだけに整えた部屋だ。


ミュレットの護衛に選んだ者の中に、帝都同行の選抜近衛副長がひとりいる。

慎重で、口が堅く、状況判断に優れた男だった。

アランはその男に、何かを掴んだ時だけ使えと内密の指示を託していた。


さらに使節団には、転移魔法に特化した魔導士も同行させていた。

戦闘には不向きだが、研究熱心で、文書や記録結晶程度のものなら長距離転送できるよう何度も練習を重ねてきた者だ。


その“一度きり”が、今使われた。


「持ってこい」

「はっ」


近衛が差し出したのは、黒布に包まれた小箱だった。

封印は、クレスティア側近衛のもの。

乱された形跡はない。


アランは即座に箱を開いた。


中には、短い内密文書。

そして、記録結晶がひとつ。


文書はほんの数行だった。


監視強化。条件崩壊確定。

記録結晶一個のみ送付。

最優先で確認願います。


署名は、帝都へ同行した選抜近衛副長のものだった。


アランはすぐに結晶を手に取った。


「見るぞ」


リリナとグレンが立ち上がる。

アランも机の中央へ記録結晶を置くと、白金の魔力を流し込んだ。


結晶が明滅する。


次の瞬間、空中に記録が立ち上がった。


最初に浮かび上がったのは、回廊の映像だった。


そこにいたのは、レオルド・ファーレン。


リリナの眉が動く。

グレンの目も細まる。


「やはり」

グレンが低く言う。

「彼が、東の亡霊ですか」


映像は揺れる。

次に、別の女の姿が現れた。


華やかな衣。

侍女を従えた、あの顔。


リリナが息を呑む。


「……っ」


エルニア第三王女。


一瞬の沈黙のあと、リリナの声が冷たく落ちた。


「本当に、そこまで落ちたのね……」


その言葉には、怒りと呆れと、それでもわずかに残る血の情が混じっていた。


映像はさらに切り替わる。


今度は広場だった。


炎の赤。

負傷兵。

武装した帝国兵。

沈黙する官僚たち。


その中央に、オルディウス皇帝。


そして、ミュレット。


リリナの指先が机の縁をきつく掴む。

グレンの顔から、完全に笑みが消えた。


記録の中で、皇帝が言う。


「……さあ」


低く、愉快そうに声が落ちる。


「選べ」


ミュレットの呼吸が止まる。


「ここにいる者を治すか」

「それとも――」


わずかに肩をすくめる。


「見殺しにするか」


会議室の空気が、一瞬で凍りついた。


グレンが低く言う。


「これは……」

「ええ」

リリナが吐き捨てるように答える。

「強制よ」

「しかも“選ばせた”形にしている」

グレンの声も冷える。

「最悪です」


記録の中で、ミュレットは胸もとへ触れ、目を閉じ、そして光を放つ。


広場全体を包む、やわらかく、それでいて圧倒的な治癒の光。


兵の傷が塞がる。

倒れていた者が息を吹き返す。

周囲がどよめく。


リリナの目が揺れる。


「あの子……」

「使った」

グレンが静かに言う。

「貴方の言った通りです」


アランは何も言わない。


ただ、結晶の中のミュレットを見ていた。


倒れる。

崩れる。

それでも、もう一度手を伸ばそうとする。

その姿を。


そして、オルディウスの声がまた響く。


「さあ」


皇帝が微笑む。


「選んだのはお前だ」


記録はそこで途切れた。


会議室に沈黙が落ちる。


誰もすぐには口を開かなかった。


最初に動いたのは、リリナだった。


机を強く叩く。


「下劣な……!」

「……」

「ここまでやっておいて“高義”ですって?」

「しかも、私の妹まで抱え込んでる」

「……」

「あの国、他国の敗残も火種も、全部飼ってるのね」


グレンは立ったまま、低く言う。


「十分です」

「……」

「東クレスティアへの侵攻」

「医療使節への事実上の拘束」

「他国の反乱残党の囲い込み」

「そしてこの記録」

「……」

「ここまで揃えば、帝国側の言い分はもう潰せます」


アランはなお、記録結晶へ手を置いたままだった。


白金の光が、指の下でわずかに揺れている。


「ミュレット様は」

グレンが言う。

「帝国の思惑を分かって、それでも使った」

「ええ」

リリナが唇を噛む。

「分かっていたからこそ、あの子は使うしかなかった」

「……」

「そこまで読んで、傷ついた兵を前に並べたのよ。最初から」


アランはゆっくりと顔を上げた。


その目には、もう迷いがなかった。


怒りはある。

焦りもある。

だが、さっきまでとは違う。


それを押し込めた先で、王として勝つ形へ変えた目だった。


「大義だ」


低く、はっきりと言う。


その一言で、部屋の空気が変わった。


「帝国の言い分は、これで終わりだ」


アランは立ち上がる。


「進軍する」

「ええ」

リリナもすぐに立ち上がった。

「今度は、こちらから終わらせる」

グレンも続く。

「我々も動きます……船も、情報線も、兵も出す」

「……」

「貴方ひとりだけに、背負わせる気はありません」


三人が立つ。


机の上には、帝国が“紙切れ”と嘲った文書が並んでいる。

その中央に、記録結晶。

そして、その中には、帝国が隠しきれなかった真実が焼きついている。


アランは机上に結晶を置いた。


ミュレットが、そこにいた。

追い詰められながら、なお目を閉じずに立っていた。


ならば、今度はこちらの番だ。


紙を積んだ。

証拠も揃った。

もう十分だった。


「三国平和盟約に基づき、ミュレットへの拘束と力の濫用を敵対行為と断ずる」


その声に、リリナもグレンも迷いなく頷いた。


「共同対処に入る!」


外はまだ明るい。


だがその明るさの下で、三国同盟はついに、帝国へ向けて刃を抜くことを決めた。



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