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Episode 104. 夜へ向かう手



その夜、レオルドは内城の奥へ向かっていた。


昼のうちに出た命令は、短かった。


筆頭医務官ミュレットを、今夜のうちに内城奥の静養室へ移す。

護衛との接触は最小限。

記録係の出入りは制限。

以後の動線は皇帝私室、救護棟、静養室に限る。


文面は静かだった。

だが、意味ははっきりしていた。


檻を狭める。


それだけだ。


回廊は冷えていた。

壁に吊られた灯りは揺れず、足音だけが石の上で小さく返る。

帝都の夜は静かだ。

静かすぎて、かえって喉の奥がざらつく。


整えられた命令。

整えられた動線。

整えられた拘束。


昼間、広場で立ち上がった兵たちの声が、まだ耳に残っている。


助かった。

生きてる。

これでまた戦える。

戦場へ戻れる。


癒された命が、そのまま刃になって西へ向かう。

それを感謝の言葉で包み、正しさの顔をして送り出すのが、この帝国だった。


レオルドは奥歯を噛みしめた。


そのまま歩き続ける。


ミュレットの静養室の前には、帝国兵が二人立っていた。

顔を上げた兵たちは、レオルドを見ると黙って道を開ける。

まだ彼には、内側の者としての通行権がある。


扉を押し開けた。


室内は暗かった。

灯りは落とされ、寝台の脇の小卓に、小さなランプがひとつあるだけだ。

月の光が窓辺から差し込み、床に細い銀の筋を落としている。


ミュレットは起きていた。


寝台の背へ浅くもたれ、膝の上に両手を置いている。

顔色は悪い。

それでも、目だけははっきりしていた。


扉の音に顔を上げ、少しだけ目を見開く。


「……レオ」


レオルドは寝台のそばまで来たが、椅子には座らなかった。

立ったまま、しばらく口を開かない。


何から言えばいいのか、自分でも分からなかった。

だが、いま言わなければ、もう遅いことだけは分かっていた。


「時間がない」


低く言う。


ミュレットの目がわずかに揺れる。


「何が、ですか」


レオルドは一度だけ息を吐いた。


「帝国の仕組みを話す」

「仕組み……?」

「聞け」

「……はい」


窓の外で、風が鳴った。


レオルドは床へ膝をつくと、ミュレットを見上げる。

その姿勢は従う者のものにも見えたが、顔にあるのは服従ではなく、ようやく決めた者の硬さだった。


やがて、月明かりの落ちる床へ視線を滑らせるようにして、低く言う。


「帝国の心臓は、伝令塔だ」

「伝令塔……」

「それはただの通信設備じゃない」

「……」

「人心を握り、街を縛り、命令を都の隅々まで通すための核だ」


ミュレットは黙って聞いている。


「だが、もっと厄介なものは別にある」

「……」

「あれは、人を操り人形にする術じゃない」

「……」

「逆らう意志を鈍らせる」


ミュレットの睫毛が、かすかに震えた。


レオルドは続ける。


「疑っても、怒っても、違和感を抱いても」

「……」

「最後には、自分で飲み込む」

「……」

「“従うほうが自然だ”」

「“秩序のためだ”」

「“いまは仕方がない”」

「……」

「そう思うように、少しずつ削られる」


静かな声だった。

だが、その静けさの奥に、長くそこにいた者だけが知る嫌悪があった。


「外から来た者は、一ヶ月も帝都に留まれば、逆らう決断が難しくなる」

「……」

「命令に従うよう強制されるんじゃない」

「……」

「逆らうための怒りや疑いを、消していく」

「……」

「だから、お前を閉じ込めている」

「……」

「時間をかければ、檻は要らなくなる」


ミュレットの指先が、掛け布の上でわずかに強ばる。


「自分から、従うようになると?」

「そうだ」

「……」

「疑問を持っても、正しいのは向こうだと、自分で納得し始める」


そこで、レオルドは一度言葉を切った。


喉の奥が重い。


レオルドは、もともと帝国の論理に救いを見ていた。

東であれだけのものを失ったあとなら、なおさらだ。

価値ある力を集め、秩序へ組み込み、必要なら人を使い潰してでも戦を終わらせる。

そういう考え方に、どこかで縋っていた。


だから塔は、彼を無理やり捻じ曲げる必要すらなかった。

だが。


昨夜、ミュレットに問われた。


では、本当に欲しかったものは――?


あの一言が、鈍らされていた何かへ、初めて綻びを入れた。


帝国の秩序に従っていればいい。

力さえあれば争いは終わる。

そう思い込んでいた場所へ、あの問いだけが、まだ消えずに刺さっている。


レオルドは、その先を切り捨てるように言葉を継いだ。


「帝都を覆う結界も、同じ系統の術式で維持されている」

「……」

「オルディウスは、都全体をひとつの支配網にしている」

「……」

「伝令塔を壊さない限り、勝機はない」

「……」

「結界も破れない」

「……」

「たとえ、あのアラン・クレスティアでもだ」


その名が出た瞬間、ミュレットの睫毛が大きく揺れた。


「……では、先の戦争では」

「……」

「アラン様は、どうやって前皇帝を討ったのですか」


レオルドは一瞬だけ黙った。

それから、低く答える。


「今とは違う」

「……違う?」

「伝令塔も、帝都全域を覆う支配網としては未完成だった」

「……」

「結界も、今のように皇帝自身の魔力と都の中枢が一体化するところまでは行っていない」

「……」

「それに、当時の皇帝は、今のオルディウスほど都の奥へ籠ってはいなかった」

「……」

「前線と後方を行き来し、自分の威を兵に見せることを好んでいた」

「……」

「だから届いた」


その一言に、冷たい重みがあった。


「アラン・クレスティアは、戦場で届く距離まで出てきた皇帝を討った」

「……」

「だが今のオルディウスは違う」

「……」

「自分が弱いことを知っている」

「……」

「だから前に立たない」

「……」

「塔と結界と帝都そのものを盾にする」


ミュレットの指先が、掛け布の上でわずかに動く。


「では……」

「……」

「今のままでは、アラン様でも届かない」

「そうだ」


レオルドははっきりと言った。


「外から都を斬るだけでは届かない」

「……」

「結界を揺らし、塔を落とし、帝都の支配を崩さない限り」

「……」

「今の皇帝は、討てない」


部屋の空気が、少しずつ張りつめていく。


「今日、前線に出たと報せが入った」

レオルドは言った。

「……」

「アラン・クレスティアだ」

ミュレットの目が、大きく揺れる。

「……」

「エルニアのリリナも、サンダレインのグレンもだ」

「……」

「三国は何かをつかんだのか、既に決戦を挑んできている」


ミュレットは何か言いかけて、やめた。

代わりに、静かに息を吸う。


「明日の朝、オルディウスは一度前線へ出る」

「……」

「対応のためにな」

「……」

「やるなら、明日の夜だ」


その一言で、部屋の空気が変わった。


ミュレットは、まっすぐレオルドを見上げる。


「……何を」


レオルドは少しだけ視線を落とした。


「伝令塔を落とす」

「……」

「塔の支配網に穴を開ける」

「……」

「お前が癒した帝国兵たちがいる」

「……」

「敵に癒された、という事実は、連中の中に小さな揺らぎを残している」

「……」

「感謝、違和感、迷い」

「……」

「それは小さい」

「……」

「だが、塔の術式へ亀裂を走らせる足掛かりにはなる」


ミュレットは息を止めて聞いていた。


「完全に壊せるかは分からない」

「……」

「だが、穴は開けられる」

「……」

「結界が揺らげば、外の三国軍が入る」

「……」

「そこで終わらせる」


沈黙が落ちる。


月明かりが、寝台の白い布へ細く伸びていた。


やがて、ミュレットがかすれた声で言った。


「……どうして、そんなことを……」


その問いに、レオルドはすぐには答えなかった。


自分でも、その言葉を口にすることになるとは思っていなかったからだ。

だが、もう誤魔化せなかった。


「お前が」


短く言う。


ミュレットが、かすかに目を見開く。


「俺の、欲しかったものを持っているから」


それだけだった。


それ以上は言えなかった。

言えば、たぶん別のものまで崩れる気がした。


レオルドは踵を返す。


扉へ向かう。

開ける。

だが、出る直前に足を止めた。


「明日の夜、来る」

「……」

「お前が来るなら、手を引く」

「……」

「来ないなら、それまでだ」


ミュレットは何も言わなかった。


レオルドはそのまま部屋を出る。

扉が閉まる。


静寂が戻る。


しばらく、ミュレットは動かなかった。


部屋の中には、月の光と、まだ少し残る薬草の匂いだけがある。

窓の外は静かだ。

けれど、その静けさの向こうで、もう決戦は動き始めている。


明日の夜。


その言葉が、胸の中で何度も反響する。


ミュレットはゆっくりと、自分の胸もとへ手をやった。


服の下。

細鎖の先に隠した指輪へ触れる。


小さく、冷たい。

けれど、確かにそこにある。


その感触を確かめた瞬間、胸の奥で何かが決まった。


明日の夜、レオルドが来たら――

その手を取る。


怖い。

無茶だ。

アランなら、きっとそう言う。


無茶をするな。

勝手に抱えるな。

そうやって、きっと怒る。


ミュレットは目を閉じた。


「……また、怒られるかな……」


小さく呟く。


その問いに答える者はいない。


それでも、浮かぶ顔ははっきりしていた。

低くて、厳しくて、でも最後には全部抱えてしまう人の顔。


胸が少しだけ痛んで、少しだけあたたかくなる。


「ごめんなさい」


かすかにそう言って、ミュレットはもう一度、指輪を握りしめた。


きっと怒る。

でも、やるしかない。


目の前の檻を壊すために。

帰るために。

今度こそ自分で、自分の手を選ぶために。


月の光は静かだった。


その静けさの中で、ミュレットは腹を決めた。



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