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Episode 105. 西へ届く声



翌日の夜、帝都はひどく静かだった。


静かすぎた。


朝から前線への出兵が続き、皇帝オルディウスもまた自ら軍へ姿を見せたと聞いている。

城の中は空になったわけではない。

兵も、文官も、魔導士も、まだ十分に残っている。

それでも、都のどこかから重石がひとつ外れたような、奇妙な静けさがあった。


静養室の窓辺で、ミュレットはずっと起きていた。


灯りは落とされ、月の光だけが床へ細く差し込んでいる。

胸もとへ手をやる。

服の下、細鎖の先に隠した指輪へそっと触れる。


冷たい。

それでも、確かにそこにある。


あの人が組み直した力。

「俺にできることは、一つも残さない」と言って預けられたもの。


ミュレットは小さく息を吸った。


今夜、レオルドが来たら、その手を取る。


そう決めていた。


やがて、扉の外で気配が止まる。


短い、控えめな二度のノック。


「……入ってください」


扉が開く。


入ってきたのは、やはりレオルドだった。


昼よりさらに顔色が悪い。

だが、その目だけは迷いなく冷えている。


「歩けるか」

「はい」

「できないなら、いま言え」

「大丈夫です」


レオルドは一瞬だけ何か言いたげな顔をした。

しかし何も言わず、ただ短く頷く。


「行くぞ」


ミュレットは立ち上がった。


身体は重い。

脚もまだ完全には戻っていない。

それでも、歩ける。

歩かなければならない。


扉の外には見張りの帝国兵が二人いた。

レオルドは歩みを止めず、低く告げる。


「筆頭医務官殿を上層静養導線へ移す……! 陛下のご意向だ」

「はっ!」


兵たちは疑いもしなかった。

あるいは、疑うという動きそのものを先に失っているのかもしれない。


道が開く。


ミュレットはレオルドの一歩後ろを歩いた。


石造りの回廊は冷えていた。

夜の城は、昼よりずっと無機質だ。

灯りは最低限。

窓の外は暗い。

人の気配は薄く、聞こえるのは靴音と、遠くで響く見張りの声だけ。


「どこへ……?」

小さく問うと、レオルドは前を向いたまま答えた。


「伝令塔だ」

「……」

「本部は三階にある」

「三階」

「ああ」

短く返す。


「都を見下ろす位置で、人心と命令を束ねる」

「……」

「見える場所にあること自体が、支配の一部だ」


内城を抜け、渡り廊下を越え、その先にそびえる塔が見えた。


細く高い。

夜空へ突き刺さるように、静かに立っている。

外から見れば美しいだけの塔だ。

だが、その内部に都を縛る術式が通っていると知った今、その輪郭さえ不気味に見えた。


塔の入口には帝国兵がいた。

だがレオルドの顔を見ると、やはり道を開ける。


ふたりは中へ入った。


内部は意外なほど狭かった。

螺旋階段が上へ伸び、壁面には細い銀線と記録結晶が規則的に埋め込まれている。

それらがかすかに赤い光を返していた。


「急げ……!」

レオルドが言う。


階段を上がる。

一段ごとに、空気が重くなる。

魔力が濃くなっているのだと分かった。


一階。

二階。

そして三階。


最後の踊り場を越えた先に、重い扉があった。

表面には複雑な帝国文字と魔法陣。

見ただけで、肌が粟立つ。


レオルドが扉へ手を当て、低く何かを唱える。

紋様が鈍く明滅し、錠が外れるような音がした。


扉が開く。


そこは、塔の内部というより心臓そのものだった。


円形の広間。

高い天井。

壁面を走る幾重もの銀線。

床一面へ広がる魔法陣。

そして、その中心に据えられた巨大な魔力の結晶。


赤かった。


深く、脈打つような赤。

人の血を薄く透かしたような、不吉な赤。

背丈をはるかに超える結晶柱が、ゆっくりと明滅している。

それが都の命令も、結界も、人心の鈍りも、すべて束ねているのだと、見ただけで分かった。


ミュレットは息を呑んだ。


「……これが」

「ああ」

レオルドが言う。

「帝国の心臓だ」


ミュレットは、結晶から目を離せなかった。


美しい。

だが、美しすぎて不気味だった。

あの赤い光が、都全体へ張り巡らされているのだと思うと、胸の内側が冷える。


「ここへ穴を開ける」

レオルドが言った。

「全部は壊せない」

「……」

「だが、支配網の一部をずらせば、都の結界は揺らぐ」

「……」

「外の三国同盟が突破してくる」


ミュレットは頷いた。


「わたしは、何をすれば」

「結晶へ触れろ」

「……」

「お前が癒した帝国兵たちの中には、揺らぎが残っている」

「……」

「感謝、違和感、迷い」

「……」

「それは小さい。だが、塔の術式にひびを入れる足掛かりにはなる」


ミュレットはゆっくりと赤い結晶を見上げた。


「わたしが、触れれば」

「結晶は、お前の力を通して都と前線へ繋がる」

「……」

「ただし、時間はない」

「……」

「術式が反発すれば、こっちが先に呑まれる」


ミュレットは胸もとの指輪へそっと触れた。

それから、意を決して一歩前へ出る。


その時だった。


「――まあ」


女の声がした。


広間の入口側で、乾いた靴音が止まる。


振り向く。


そこに立っていたのは、華やかな衣をまとった女だった。

エルニア第三王女。

その後ろには帝国兵と、塔の術式を扱う魔導士が並んでいる。


ミュレットの背筋が冷えた。


レオルドの顔がはっきりと歪む。


「……貴様」

「裏切り者を泳がせれば、巣くらいは割れますもの」

第三王女は優雅に微笑む。

「……」

「ファーレン卿、ずいぶん感傷的になられたのですね」


レオルドは一歩前へ出る。


「下がれ」

「命令ですの?」

「違う」

「なら、聞きませんわ」


その瞬間、帝国兵たちが一斉に動いた。


レオルドが剣を抜く。

金属音が広間に弾ける。


「ミュレット、下がれ!」


だが、すでに遅い。


塔の魔導士が結晶へ術式を流し込む。

赤い光が一気に脈打った。


広間の空気がねじれ、ミュレットの頭へ鈍い圧が落ちる。


思考が重い。


やめろ。

逆らうな。

ここで従えばいい。

静かにしていれば苦しくない。


そんな声が、自分の内側から湧いてくる。


「……っ」


膝が揺れる。


帝都全体へ伸びている支配の糸が、ここではむき出しなのだ。

塔の三階、本部。

心臓から、術式そのものがこちらへ噛みついてくる。


レオルドが帝国兵を斬り払う。

だが、多い。

第三王女の護衛だけではない。

最初からここで待っていた数だ。


「捕らえなさい!」

第三王女が静かに言う。

「筆頭医務官殿は傷つけてはだめ」

「……」

「裏切り者は、半死半生でよいわ!」


帝国兵がミュレットへ手を伸ばす。


避けなければ。

そう思うのに、身体が遅い。

塔の圧が、思考と手足のあいだへ鉛を流し込んでくるようだった。


その時。


外壁の向こうで、鈍い衝撃音が響いた。


第三王女が眉を寄せる。


「……何?」


次の瞬間。


「撃て———!!!」


男の声が、塔の外から轟いた。


聞き覚えのある、抑えた怒声。

選抜近衛副長の声だった。


続いて、轟音。


塔の外壁が、横から爆ぜた。


石が砕け、粉塵が舞い、広間の一角が一気に吹き飛ぶ。

月光が、破壊された壁の向こうからどっと雪崩れ込んだ。


帝国兵たちが悲鳴を上げる。


第三王女が身を引く。

だが遅い。

崩れた石材と瓦礫が、帝国兵たちと彼女の側へ容赦なく降り注ぐ。


「きゃあっ!」

「うわあああ!」

「ひ、姫殿下――!」


粉塵の中から、ぞろぞろと人影が入ってくる。


クレスティアの護衛たちだった。


壁を壊して入ってきたのだ。

常識も遠慮もなく。

まるで最初から扉を使う気などなかったように。


あまりにも乱暴で、あまりにも一直線で、ミュレットは一瞬だけ、アランの声を思い出した。

遠回りはしない。一点突破。

まさに、あの人の兵だった。


先頭に立つ近衛副長が、粉塵の中から無表情のまま広間を見回す。


「護衛対象を確認!」

低く言う。

「制圧続行!」


その後ろから、帝都同行の護衛たちが次々となだれ込んでくる。

手際はよかった。

乱暴で、無茶苦茶で、それなのに訓練された動きだった。


第三王女は瓦礫の下へ半ば埋もれ、怒鳴り声を上げている。

帝国兵たちも崩れた石の下で身動きが取れない者が多い。


レオルドは、その光景を見て呆然とした。


「……無茶苦茶だ……」


だが、その無茶苦茶さが、いまは異様に頼もしくもあった。


選抜近衛副長が一度だけミュレットを見る。


「ご無事ですか」

「は、はい……」

「結構」

平板に言う。

「殿下より、護衛は必ず間に合うよう命じられております」


ミュレットは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


どうしてここに、と問うより先に、副長は次の指示を飛ばす。


「外周警戒!」

「魔導士は結晶前へ!」

「瓦礫の下は放っておけ!」


その声に、護衛たちが即座に動く。


ミュレットは粉塵の向こうに見える月を、ほんの一瞬だけ見た。

胸もとの指輪は冷たいままだった。

でも、そんなことはどうでもよかった。


来てくれた。

あの人が来られない場所で、それでも自分のためにと残した手が、ちゃんと届いた。


「いまです!」


帝都同行の転移魔導士が叫ぶ。

「壁破壊で術式が乱れてます! 結晶へ入れます!」


レオルドが振り返る。


「ミュレット!」

「……はい」


ミュレットは頷いた。


怖い。

脚はまだ震えている。

頭も重い。

それでも、もう迷わない。


巨大な赤い結晶の前へ立つ。


それは近くで見るとさらに異様だった。

都の命令。

兵の行軍。

人の思考。

皇帝の結界。

そのすべてが、この赤い心臓へ通っている。


ミュレットはゆっくりと両手を持ち上げた。


震える指先を、結晶へ触れさせる。


冷たいと思った。

次の瞬間には、熱かった。


膨大な情報が流れ込んでくる。

都のざわめき。

兵の足音。

遠い前線の怒号。

命令の反響。

抑え込まれた違和感。

言葉にされない恐怖。

帝国全土へ走る、ひとつの巨大な脈動。


ミュレットは息を呑んだ。


「つながった!」

魔導士が叫ぶ。

「いまなら都中へ届きます!」

「……」

「前線へも!」


レオルドが、低く言う。


「やれ!」

「……」

「いましかない!」


ミュレットは目を閉じた。


怖い。

それでも、逃げない。


胸もとの指輪へ、心の中でひとことだけ告げる。


——アラン様。


それから、目を開いた。


赤い結晶の中へ、自分の声を流し込む。


ミュレットは、赤い結晶へ触れたまま、ゆっくりと息を吸った。


流れ込んでくる。

帝都のざわめき。

兵の足音。

遠い前線の怒号。

命令の反響。

抑え込まれた違和感。

言葉にならない迷い。


そのすべてへ届くように、ミュレットは声を流し込む。


「私は、ミュレットです」


術官が目を見開く。

衛兵が、一瞬だけ剣を止める。


「真に力の所有を訴えているのは、オルディウス皇帝です」


光が脈打つ。


「勝つために」

「傷ついた兵を何度も癒し」

「また戦場へ送り出す」

「……」

「これを占有と言わず、何と言うのでしょうか」


巨大な結晶柱が、白く満ちていく。


「私の力は、帝国のものではありません」

「クレスティアのものでもありません」

「誰かが独占するためのものでも」

「争いを続けるための旗でもありません」


レオルドが、思わずミュレットを見た。


その顔に迷いはなかった。

疲れている。

消耗もしている。

それでも、その声だけは少しも揺れていない。


「私は、命を救うために使います」

「戦いたくない」

「戦争なんて、終わりにしたい」


帝都へ。

東へ。

その声が流れていく。


ミュレットは、さらに強く光を流した。


「愛する家族のもとへ、帰りたいと願うなら」

「剣をおろしなさい!」


最後の一言が、塔全体に響いた。


結晶柱が白く震える。

帝国の術式線が、ひとつ、またひとつと色を失っていく。


赤い結晶が、ついに大きく割れる音を立てた。


広間が揺れる。

都全体へ張り巡らされていた支配の脈動が、目に見えない形で乱れるのが分かる。


レオルドが結晶を見上げたまま、低く呟く。


「……砕けた……予想以上だ」


塔の夜は、そこで決定的に変わった。



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