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Episode 106. 東へ届いた声



東クレスティアの空は、鈍い灰色だった。


春だというのに風はまだ冷たい。

乾いた土と、血と、焦げた鉄の匂いが混じっている。


アランは馬上から前線を見ていた。


帝国軍は多い。

数だけではない。押し出してくる勢いが異様だった。

恐れているはずの兵まで前へ出る。怯えているはずの者まで、熱に浮かされたように叫ぶ。


伝令塔。


帝都から流れてくる“声”が、まだこの戦場を煽っているのだと、見ているだけで分かった。


「左翼、持ち直しました」


すぐ後ろで、ディルクが告げる。


「ですが中央はまだ押されています」

「ああ」


アランは短く返した。


白金の光が前線を裂く。

断界は、まだ切るべき札ではなかった。

光刃で敵列の先端を崩し、こちらの兵が押し返す隙だけを作る。


それでも、帝国軍は崩れきらない。


その時だった。


戦場の空気が、ふいに揺れた。


風とも号令とも違う。

空そのものが、一度だけ深く息を吸ったような感覚。


そして。


「聞こえますか」


声が届いた。


東クレスティアの戦場に。

帝国兵にも、クレスティア兵にも。

術式を伝って、まっすぐ落ちてくる声。


アランの目が見開かれる。


ミュレットだ。


間違えようがなかった。


「私は、ミュレットです」


帝国兵の中に、明らかな揺れが走る。

槍を構えた手が止まる。

剣を握った腕が、ほんのわずかに下がる。


「真に力の所有を訴えているのは、オルディウス皇帝です」


アランの手元で、白金の魔法陣がかすかに震えた。

遠い。だが、確かに繋がっている。


「勝つために」

「傷ついた兵を何度も癒し」

「また戦場へ送り出す」

「これを占有と言わず、何と言うのでしょうか」


帝国軍の前列が、目に見えて鈍る。


「敵の……声だ」

「なぜ」

「助けられた……」


ざわめきが広がる。


ミュレットの声は止まらない。


「私の力は、帝国のものではありません」

「クレスティアのものでもありません」

「……」

「誰かが独占するためのものでも」

「争いを続けるための旗でもありません」

「……」

「私は、命を救うために使います」

「戦いたくない」

「戦争なんて、終わりにしたい」

「……」

「愛する家族のもとへ、帰りたいと願うなら」

「……」

「剣をおろしなさい!」


最後の一言が、戦場へ落ちた。


帝国兵のひとりが、本当に剣を下げた。

続いて、もうひとり。

全員ではない。まだ叫ぶ者も、前へ出る者もいる。

だが、流れは変わった。


押し込んでいた熱が、確かに鈍る。


「今だ」


アランの声は低かった。

だが、誰よりも鋭く戦場を裂いた。


「押せ」


アランの手元に発生した魔法陣から、白金の光線が一気に走る。

今度は迷いがない。


帝国軍中央の綻びへ、刃を連ねて叩き込む。

槍列が崩れる。

そこへクレスティア軍が雪崩れ込んだ。


「前へ!」

「押し返せ——!」


さらに右翼から、大きな水音が轟いた。


兵たちが振り向く。


グレン・サンダレインだった。


深い青の外套を翻し、馬を進める。

その周囲で、水が地から湧いたように奔る。

乾いた戦場を呑み込み、土をぬかるませ、帝国兵の足を奪う。


「仕方がありませんね」


低く、しかしよく通る声だった。


「ここまで無粋に荒らされた以上、私も前へ出るしかありません」


水がさらに広がる。

帝国軍の一角が、一気に足を取られて乱れた。


「サンダレイン軍、押し込みます!」

「水際へ追い込め!」


その背後では、リリナがエルニア軍とサンダレイン軍へ同時に指示を飛ばしていた。


高台に立ち、声ひとつで場を支配する。


「崩れた列を放置するな!」

「サンダレイン右翼、左へ寄せなさい!」

「エルニア前衛、今よ!」


そして、そのまま兵たちへ向けて声を張る。


「エルニアは、先日のクーデターで火の海になった!」

「だが、それは帝国の介入あってのことだと、いまや明らか!」

「我が国の王宮を焼き、我が国の国宝へ火を放った帝国を、許してはならない!」

「私たちは父上の恩人——筆頭医務官殿を、必ず連れ戻す!」


その声は、戦場を真っ直ぐ貫いた。


エルニア兵の士気が跳ね上がる。

サンダレイン兵も、それに呼応して前へ出る。


グレンが水で戦場を割り、リリナがその両軍をまとめ上げる。

クレスティア軍の押し込みと合わさって、帝国軍は目に見えて乱れはじめた。


アランはその変化を、ひとつも逃さなかった。


「中央を割る」

「退路へ圧をかけろ」

「帝国中軍を孤立させる」


命令が飛ぶ。

クレスティア軍が応える。

戦場の流れが、はっきりとこちらへ傾く。


その時だった。


前線のさらに奥、オルディウスの本陣周辺に、巨大な魔法陣が広がった。


広い。

あまりにも広い。


円陣が幾重にも重なり、その中心から黒い靄が立ちのぼる。

転移魔法陣だった。


しかも、広範囲。


黒い靄の中から、次々に人影が現れる。

輪郭の曖昧な、闇そのものをまとったような転移者たち。


アランの目が鋭く細まる。


見逃さなかった。


帝国は押されている。

だから、奥の手を切った。


ミュレットの声で前線が鈍った今、オルディウスは別の形で流れを取り戻そうとしている。


「ディルク」


低く呼ぶ。


ディルクがすぐ傍へ寄る。


「苦労をかけるな」


ディルクの目がわずかに動く。


「行かれるのですか?」


アランは答えず、静かに馬を降りた。


丘の上へ立つ。

その先には、乱れ始めた戦場。

グレンの水。

リリナの号令。

押し返すクレスティア軍。

そして、黒い靄を吐き出す巨大転移陣。


「前線を託せる者が増えたな」


アランは静かに言った。


「先の戦争では、考えられなかった」


ディルクは目を閉じる。


「ミュレット様が、貴方の前に現れてから……ですね」


アランは否定しなかった。


ディルクは目を開け、深く一礼する。


「ここはお任せください」


アランは剣の柄へ手をかけた。


「決戦だ」


その一言とともに。

足元に、白金の転移魔法陣が浮かび上がった。



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