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Episode 107. 銀の輪



伝令塔の三階は、まだ赤く脈打っていた。


ミュレットの声が帝都と東へ流れたあと、巨大な魔力結晶の表面には白いひびが幾筋も走っている。

壁面を走る帝国の術式線も、ところどころ色を失い、明滅を繰り返していた。


都の支配網は、もう完全ではない。


だが、壊れきってもいない。


「急げ……!」


レオルドが低く言う。


「オルディウスが来るぞ!」

「……!」

「いまならまだ出られる!」

「……はい」


ミュレットは頷いた。


胸の奥は速く打っている。

息も浅い。

けれど、やるべきことは終わった。

ならば次は、生きてここを出ることだ。


選抜近衛副長が広間の外へ視線を走らせる。


「撤収経路、外の階段を使います」

「西外壁側は崩落で通路寸断」

「帝国兵の反応は」

「上層で集結中です」

「よろしい」


平板な声だった。

だが、その短い言葉のひとつひとつに迷いがない。


「ミュレット様を中央に」

「魔導士は副長の後ろにつけ!」

「レオルド卿は」

「前へ出ろ。帝国側の導線を知っているなら、その価値を示していただく……!」


レオルドは一瞬だけ眉をひそめたが、何も言わず剣を握り直した。


「行くぞ!」


副長が先頭へ出る。


だが、広間を出た瞬間、階段の踊り場に帝国兵がずらりと現れた。


数が多い。

剣を抜き、槍を構え、こちらを取り囲むようにじわじわと上がってくる。


それでも、彼らの顔には奇妙な揺らぎがあった。


命令に従っている。

だが、ほんの少しだけ迷っている。


ミュレットを見てしまったからだ。

声を聞いてしまったからだ。

自分たちを癒した、その手を。


「筆頭医務官殿……!」

ひとりが、ためらうように言った。

「それ以上は……」

「……」


ミュレットは、その顔を見た。


若い兵だった。

さっきまで広場に倒れていた者のひとりかもしれない。

額にまだ包帯が残っている。


剣を向けている。

それなのに、目だけが揺れていた。


その時、ミュレットは無意識に胸もとへ触れた。


細鎖の下。

服の内側。

指輪のある場所。


エルニアで、あの人が炎の向こうから現れた夜を思い出す。


間に合わないかもしれないと思った。

もう誰も届かないかもしれないと思った。

それでも、あの人は来た。

火と光の向こうから、まっすぐに。


胸の奥が、痛いほど熱くなる。


ミュレットは息を吸った。


そして、声を張った。


「走ってください!」


全員が、一瞬だけ固まる。


次の瞬間。


ミュレットの足元に、巨大な魔法陣が広がった。


青白い。

複雑で、何重にも重なった円と線と文字。

伝令塔の三階全体を飲み込むほどの術式が、一気に点灯する。


帝国兵の顔色が変わる。


「な――」

「術式反応!」

「上だ! 空が――」


選抜近衛副長は、一目で察した。


何を起こすつもりなのか、細部までは分からない。

だが、ここに立ち止まれば終わることだけは分かった。


レオルドの背を、思いきりばしんと叩く。


「全員! 走れ——!!」


その怒声が塔中に響く。


副長が先頭で駆け出す。

その後ろを護衛たちが雪崩れ込み、レオルドも咄嗟に走る。

魔導士がひいひい息を切らしながら続いた。


最後尾に残るのはミュレット。


その頭上へ、最初の雷が落ちた。


轟音。


青白い天雷が、塔の外壁を貫き、石を砕き、火花を散らす。

落雷はひとつではない。

二つ、三つ、四つ。

空から矢のように続けざまに降り注ぐ。


青い火が上がる。


塔が震える。


「うわあああっ!」

帝国兵たちが悲鳴を上げる。

「逃げろ!」

「上だ、上階が崩れる!」


ミュレットも走った。

脚は重い。

息は苦しい。

それでも止まれない。


後ろからさらに雷が落ちる。

走る自分たちの後を追うように。

帝国兵が追いつこうとすれば、その間へ落ちるように。


まるで道を作るように。


レオルドが叫ぶ。


「無茶苦茶だぞ!!」

「ミュレット様はきっとお考えあってのことだ!」


副長が振り返りもせず怒鳴り返す。


「そうだとしても俺たちまで死ぬぞ!」


魔導士がひいひい走りながら叫ぶ。


「殿下の婚約者様ですから——!!」


誰ひとり納得していないのに、誰も止まらない。


階段を駆け下りる。

回廊を抜ける。

追いかけてくる帝国兵。

外では帝都中へ雷が落ちているのか、あちこちで青い火が上がっていた。


落ちていく瓦礫。

綻ぶ結界。

都そのものが軋み始めている。


塔の外へ出た時には、夜空が青白く裂けていた。


伝令塔の上層は崩れ、外壁の一部が崩落している。

石の雨のように瓦礫が落ち、帝都の街路に煙が立っていた。


「こっちです!」

副長が叫ぶ。

「西導線を切る!」

「走れ! 止まるな!」


護衛たちがミュレットの左右を固めて駆ける。

レオルドは息を乱しながらも離れずついてくる。


その時だった。


前方の空間が、黒く裂けた。


転移門。


闇そのものを切り取ったような門が、夜の街路にいくつも開く。


その中央から、オルディウスが現れた。


細い身体。

病的な白い顔。

それなのに、目だけが冴えきっている。


その左右に、幹部たちが五人。

いずれも帝国の中枢にいる魔導と軍の者たちだと、一目で分かる顔だった。


その中のひとりを見た瞬間、ミュレットの呼吸が止まる。


焼け跡で、自分を攫おうとした男だった。


煤にまみれた夜。

崩れた石壁。

焼けた空気の中で伸びてきた、あの手。


男もまた、ミュレットに気づいたらしく、口元を歪めた。


「また会ったな」


その一言だけで、背筋が冷える。


オルディウスが一歩前へ出る。


周囲にはなお、雷が落ち続けている。

青白い火が夜の街を染めている。


「誤算は貴様か、ミュレット」


その声は低く、よく通った。


足が止まる。


護衛たちが一斉に前へ出る。

剣に手をかける。

副長も、部下たちも、レオルドも、誰ひとり逃げる気配を見せない。


だが顔色はごまかせなかった。


オルディウス。

そして幹部が五人。


塔の綻びがあろうと、この場で正面から当たればどうなるか。

誰もが計算している。

そして、楽観できる数ではない。


副長のこめかみを汗が伝う。


「……勝つな、抜けるぞ」


誰にともなく漏れたその声は、ほんの一瞬だけ風に紛れた。


オルディウスはミュレットを見ていた。


病を患う者の弱さなど、その目には欠片もなかった。

伏せっていた時の衰えも、掠れた呼吸も、今となってはただの仮面だったのだと分かる。


「しかし、見事だ……」


静かな声だった。


「帝都の支配網に亀裂を入れ、兵を癒やし、民へ声を届かせた。余の想定より、はるかに価値がある」


価値。


その一語に、ミュレットの指先が冷えた。


「……人を、価値で測らないでください」


オルディウスの口元が、わずかに動く。


「では何で測る?」

「……」

「力を持つ者が、力なき者を救う。それが貴様らの掲げた理念ではなかったか?」


ミュレットは黙っていた。


「余は病を患っている」


オルディウスはそこで、わざとらしいほど静かに胸を押さえた。


背を丸め、肩を落とし、息を細く吐く。

今にも膝を折りそうなほど弱々しい姿だった。


それを見れば、誰もが一瞬は思ってしまう。

この男は、本当に救いを求める病人なのだと。


それでも、ミュレットは目を逸らさなかった。


胸を押さえる指先は震えていない。

伏せた顔の奥で、瞳だけが冷たくこちらを測っている。


「帝都もまた、支配なくしては崩れる。民も、兵も、貴族も、誰も自ら秩序を保てぬ」

「違います」


今度は、すぐに言えた。


自分でも驚くほど、声は静かだった。


「人は、支配されなければ生きられないのではありません」

「……」

「支配され続けたから、立ち上がる力を奪われたのです」


オルディウスの目が細くなる。


「人は皆、悩む」


低い声だった。


「明日を恐れ、失うことに怯え、苦しみの中で生きる。民も、兵も、貴族も同じだ。誰もが不安を抱き、誰もが誰かに導かれることを望んでいる」


その声音には、怒りも熱もなかった。

むしろ長いあいだ、この理屈だけを磨き続けてきた者の静かな確信があった。


「だから、余が支配している」


オルディウスは続けた。


「悩まぬように。苦しまぬように。明日を恐れぬように。失うものなど、最初から持たせぬように」

「……」

「人が自ら選べば、争いが起こる。愛すれば奪われ、望めば失い、自由などというものを与えれば、民は必ず互いを傷つける」

「……」

「ならば、余がすべてを定めるほうが慈悲ではないか?」


その声は、静かだった。


「貴様も、本当はそう思っているのではないのか? ミュレット」


名を呼ばれ、ミュレットの指先がわずかに強ばる。


「誰も悩まず、誰も苦しまず、誰も失わない。すべてが正しく配され、余計な望みを抱かずに済む世であればよいと」

「……」

「貴様の力があれば、それができる」

「……」

「傷ついた者を癒やし、死にかけた者を戻し、恐れる民に希望を与える。余のもとにあれば、その力は世界を安定させる」

「……」

「本当は、家も、家族も、失わなければよかったと願っているのではないか?」


ミュレットは黙っていた。


その言葉は、優しく聞こえた。

人を苦しみから遠ざけるための言葉に聞こえた。


それでも、その奥にあるものは違う。


悩まぬようにと言いながら、考える力を奪う。

苦しまぬようにと言いながら、選ぶ権利を奪う。

失わぬようにと言いながら、最初から何も持たせない。


それは、救いではない。


ミュレットは、静かに息を吸った。


「……いいえ」


声は小さかった。

けれど、少しも揺れていなかった。


「人は、悩みます」

「……」

「苦しみます。不安にもなります。大切なものを失うこともあります」

「……」

「でも、それを恐れるからといって、誰かにすべてを決められていいわけではありません」


オルディウスの目が、わずかに冷える。


ミュレットは続けた。


「明日に怯えるのは、明日を生きたいからです」

「……」

「失うことを恐れるのは、大切なものを持っているからです」

「……」

「苦しむのは、心があるからです」


胸もとの指輪が、服の内側で冷たく触れている。


その冷たさが、今は不思議と恐ろしくなかった。


「あなたの言う世は、誰も苦しまない世界ではありません」

「……」

「誰も、自分の心を持つことを許されない世界です」


一瞬、夜の街路が沈黙した。


「私は、そんなものを救いとは呼びません」


オルディウスの表情から、笑みが消えた。


「では、貴様は余を拒むのか」


「はい」


ミュレットは答えた。


「あなたの病を診るために、私はここへ来ました」

「……」

「でも、あなたが人を縛るために生き続け、そのために私を縛るのなら」

「……」

「私は、あなたに従いません」


幹部たちの魔力が、一斉に膨れ上がる。


副長が剣を抜く。

護衛たちがミュレットの前へ出ようとする。


だが、ミュレットはゆっくりと皆の前へ出た。


胸もとへ手をやる。

細鎖を外す。

服の下から、銀の輪を取り出す。


その光景に、オルディウスの目がわずかに動いた。


「……それは」


ミュレットは答えなかった。


指輪を掌に乗せる。

その小さな輪の中に、亡き王妃の守りがある。

アランが組み直してくれた術式がある。

帰る場所がある。


そして、呼べば来ると信じられる人がいる。


オルディウスが低く命じた。


「奪え」


幹部たちが動く。


その瞬間、ミュレットの耳に声がした。


低く、鋭く、よく知っている声。


——躊躇うな。


本当に聞こえたのか。

胸の奥で響いただけなのか。

それは分からない。


けれど、ミュレットは微笑みそうになるのをこらえた。


「……はい」


小さく呟く。


そして、指輪をぴんと弾いた。


銀の輪が夜気を裂き、オルディウスとミュレット、そのちょうど中間へ落ちる。


次の瞬間。


最大出力の落雷が落ちた。


空そのものが裂けたような、白金の閃光。


青白い雷とは違う。

もっと鋭く、もっと強く、断ち切るための光。


轟音が街を揺らす。


オルディウスの幹部たちが一斉に術を展開する。

だが、遅い。


白金の雷は、指輪を標にしてまっすぐ叩き落ちた。


衝撃波が街路を吹き飛ばす。


ミュレットの身体が後ろへ弾かれる。

だが、その瞬間には護衛たちが動いていた。


「受けろ——!」

副長が叫ぶ。


部下たちが一斉に手を伸ばし、吹き飛んだミュレットを全員で受け止める。

肩。腕。背。

衝撃に歯を食いしばりながら、それでも誰も取り落とさない。


粉塵の向こうで、白金の魔法陣が広がった。


美しく、冷たく、圧倒的な魔法陣。


その中心に、ひとりの男が現れる。


黒い衣。

白金の光を背負い、夜の中へ立つ。


アランだった。


誰よりも静かに、誰よりも鋭く、その場へ降り立つ。


オルディウスの目が、初めてはっきりと変わる。


護衛たちの息が止まる。

レオルドもまた、言葉を失う。


まばゆい光の中で、アランは一度もミュレットを見なかった。


崩れた街路でもない。

護衛たちでもない。

焼け跡でミュレットへ手を伸ばした男でもない。


ただまっすぐに、オルディウスだけを見ていた。


仕留めるべき相手として。


「長きにわたり、あの力を秘匿した王家の末裔だ!」


オルディウスが声を張り上げる。


「やれ!」


その一声で、戦闘が開幕した。


帝国術官が一斉に魔法陣を展開する。

幹部たちが剣を抜き、近衛たちへ殺到する。

黒紫の術式が幾重にも重なり、アランとミュレットのあいだへ楔のように打ち込まれる。


オルディウスは読んでいた。


アランの後ろには、ミュレットがいる。

断界は使えまい、と。


帝国側の魔法ごと裂く強い斬撃の余波は、必ずミュレットへ届く。

守りに回るしかない。

庇い、間合いを取り、こちらの包囲に付き合うしかない。


そう読んでいた。


だが、アランは違った。


光の中で、彼は防御を捨てた。


次の瞬間、白金の斬撃が、まっすぐオルディウスへ走る。


空間そのものを裂く一撃だった。


「馬鹿な……! あの女まで死ぬぞ!」


オルディウスの叫びが響く。


だが、その断界とほとんど同時に、床上へ落ちた指輪が強く白く発光した。


指輪を核に、ミュレットの前へ白く光る魔法陣が幾重にも立ち上がる。


幾何学紋様が空中で折り重なり、眩い光の壁となって展開する。

母が遺し、アランが組み直した守りの術式。

断界の余波を、帝国の術式ごと真正面から受け止め、弾き返す。


オルディウスの目が見開かれる。


「そんな……」


最初から、そこまで織り込み済みだった。


——いいか、アラン。

守るだけでは、勝てない。

相手の読む手に付き合うな。

勝つための手を出せ。


父王の教えを、そのまま体現するように、斬撃は止まらない。


黒紫の護りが、一息で裂けた。


周囲にいた幹部たちが、余波でまとめて吹き飛ぶ。

ある者は胸を裂かれ、ある者は肩口から血を噴き、ある者は石畳へ叩きつけられて動かなくなる。


焼け跡でミュレットを攫おうとした男も、そのひとりだった。

断界の余波に弾かれ、血を吐きながら石壁へ叩きつけられる。

呻き声を上げたまま、もう立ち上がれない。


レオルドも、近衛たちも、その一瞬だけ動きを失った。


速すぎた。


もう一歩。


アランはためらわず間合いを潰す。


足元で白金の魔法陣が閃く。

次の瞬間には、もうオルディウスの目前にいた。


一閃。


最後の護りが裂ける。


そして、ためらいなく剣を突き込んだ。


刃が、オルディウスの胸を貫く。


あまりにも速かった。


皇帝の口から、ひゅ、と浅い息が漏れる。


膝が折れる。

黒紫の術式が、一斉に霧散する。


周囲の幹部たちも、レオルドも、近衛たちも、その一瞬だけ動きを失った。


アランは低く言った。


「終わりだ」


剣を引き抜く。


オルディウスの身体が崩れ落ちる。


それでも、まだかろうじて息があった。


皇帝は震える手を、ミュレットへ伸ばした。


「た、たすけ……て……」


その声に、ミュレットの足が反射的に前へ出ようとする。


だが、その肩をアランの声が強く止めた。


「行くな」


低い声だった。


ミュレットが息を呑む。


アランは、オルディウスから目を離さないまま、静かに言う。


「そいつを救えば、また誰かが死ぬ」


ミュレットの指先が震える。


オルディウスの手は、なおも空を掻こうとした。

だが、もう力は残っていない。


アランはもう一度だけ、低く言った。


「罰は俺が受ける」


その言葉のあと、皇帝の指先から完全に力が抜けた。


手が落ちる。

息が止まる。


オルディウス皇帝は、そこで絶命した。


その瞬間だった。


帝都全体を覆っていた結界網が、音もなくひび割れる。


遠く、いくつもの塔で光が揺れる。

城壁を走っていた術式線が消え、空を覆っていた薄い膜が崩れ落ちるように消散していく。


帝都の夜気が、一気に変わった。


支配の核が断たれたのだと、誰にでも分かった。


ミュレットは、白く光る魔法陣の内側で、ようやく小さく息を吐いた。


母の遺した守り。

父の遺した教え。

その両方で、アランは勝った。


そして今、戦を止めるための最後の扉が、確かに開いた。


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