Episode 108. 誰のものでもない
オルディウスが崩れ落ちたあとも、夜はすぐには静まらなかった。
帝都を覆っていた結界網はなお崩れつつあり、遠くでは砕けた塔の光が明滅している。
術式線が空のあちこちで細く裂け、遅れて落ちる瓦礫が石畳を打った。
勝敗は決した。だが、場はまだ戦の熱を残していた。
その熱の中で、なお動こうとする者たちがいた。
オルディウスの幹部たちだった。
断界の余波に吹き飛ばされ、血を流し、石畳へ叩きつけられながら、それでもなお立ち上がろうとする。
逃走の術式を組み直そうとする者。短剣へ手を伸ばす者。這うようにして転移門の残滓へ近づこうとする者。
アランは振り向きもせず、低く言った。
「生きている幹部は確保しろ」
その一言で、ミュレットの護衛たちが一斉に動く。
選抜近衛副長が真っ先に飛び出した。
部下たちも続く。剣で脅し、腕を捻り上げ、魔導具を蹴り飛ばし、容赦なく石畳へ押さえつけていく。
焼け跡でミュレットを攫おうとした男が、歯を食いしばって起き上がろうとした。
だが副長の部下が膝を背へ落とし、そのまま顔面を石畳へ押しつける。
「動くな!」
男は呻いたが、もう立てない。
他の幹部たちも次々と取り押さえられていく。
夜に響くのは、もはや戦の音ではなく、勝敗が決したあとの制圧の音だった。
それを見届けてから、アランはようやく近衛たちへ目を向けた。
「よくやった」
短い言葉だった。
それだけで、近衛たちの肩がわずかに震える。
アランは続けた。
「それから」
一拍置く。
「感謝する」
選抜近衛副長が、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
そのあと、いつもの平板な顔を保とうとして、失敗する。目の端が明らかに赤い。
部下たちも同じだった。
誰も泣くまいとしているのに、半分くらいはもう涙目になっている。
副長はそれでも姿勢を崩さず、一礼した。
「殿下のご命令とあらば……」
その声だけが少し掠れていた。
アランは何も言わず、ただ短く頷く。
その横で、ミュレットが小さく揺れた。
白く光る魔法陣の内側に立ったまま、呼吸が浅い。
顔色は悪く、足元も覚束ない。近くで支えていた魔導士が慌てて肩を貸す。
「ミュレット様」
「……だい、じょうぶです」
「大丈夫には見えません……!」
そのやりとりを聞き、アランがすぐに動いた。
迷いなく近づき、ミュレットの肩へ手を置く。
魔導士へ向けて、低く言う。
「代わる」
魔導士は弾かれたように一歩引いた。
アランがそのまま支えを引き受ける。片腕で肩を抱え、体重を受ける。
「歩けるか」
ミュレットは一瞬だけ目を伏せた。
ほんとうは、歩ける状態ではない。だが、それでも答える。
「……はい」
アランはその返事を聞いても表情を変えなかった。
「もう少しだ」
ただそれだけ言って、今にも崩れそうな身体を確かな力で支えたまま、帝国兵の残党へ向き直る。
その時だった。
「殿下!」
ひとりの魔導士が、崩れた伝令塔の瓦礫のそばで声を上げた。
地面へ膝をつき、何かを拾い上げている。
それは、塔の魔力結晶が砕けて散った破片のひとつだった。拳よりやや大きく、表面は赤い。だが内部にはまだ光が脈打っている。
「まだ生きています」
魔導士が息を切らせる。
「中枢結晶の破片です」
「……」
「試します」
そう言って、魔導士はその破片へ自分の魔力を流し込んだ。
赤かった破片が、淡く明滅する。
次の瞬間には、内部に細い光の筋が通り、ぱっと白く変わった。
「接続が残っています!」
魔導士が顔を上げる。
「一度だけなら、帝都全域……いえ、戦場へも繋げられます」
その言葉に、場の空気が変わった。
アランはミュレットを支えたまま、その破片を見た。ほんの一瞬だけ考え、それから言う。
「寄越せ」
魔導士が両手で捧げるように差し出す。
アランは受け取ると、破片を手の中で確かめた。まだ温度がある。塔の残滓が、脈のように微かに打っていた。
「繋げられるな」
「はい」
「なら、やれ」
「はっ」
魔導士が短く術式を組む。
破片の光が強くなる。上空へ見えない線が伸びていくのが、肌で分かった。
帝都へ。
前線へ。
まだ戦っている者たちへ。
アランは破片を高く掲げた。
その声は、夜の街路だけでなく、もっと遠くへ届く声だった。
「オルディウス皇帝は、アラン・クレスティアが討ち取った」
静まり返った空気に、その宣言だけがまっすぐ落ちる。
帝都の兵たちが顔を上げる。
取り押さえられた幹部たちが息を呑む。
遠くの街路でも、どこかで誰かが立ち止まった気配がした。
アランは続けた。
「我々は停戦を求める」
今度は、さらに明確に。
「剣を収めろ」
「重傷者は救う」
「ミュレットの力は、そのために使われる」
「癒しを望むなら、クレスティアへ来い」
そこで一度だけ、声の底が変わる。
「だが」
その一語だけで、空気が再び引き締まった。
「その力を奪い、縛り、独占しようとするなら――俺が断つ」
その言葉は脅しではなかった。
事実の宣言だった。
帝都の夜へ。
戦場へ。
誰ひとり聞き違えようのない形で、断界王の意思が告げられる。
アランはそのまま、手にした結晶片を少しだけ傾けた。
まるで、その先にいる誰かへ声を届けるように。ミュレットへ贈るように。
支えられたままのミュレットが、小さく息を呑む。
その時、剣の落ちる音がした。
乾いた音。
誰より先に、レオルドが剣を捨てていた。
石畳の上へ、ためらいなく落とす。
皆の目が向く。
レオルドは前を向いたまま、低く言う。
「……俺は、この人に命を救われた」
その声は大きくなかった。
けれど、妙にはっきり響いた。
「それを知っていて、なお剣を取るなら」
「……」
「好きにすればいい」
その言葉のあと、帝国兵のひとりが震える手で剣を落とした。
またひとり。
またひとり。
金属音が、あちこちで続く。
「筆頭医務官殿に……」
「助けられた」
「俺もだ」
「俺も……」
ざわめきが広がる。
それはもう、オルディウスの命令に従う兵のざわめきではなかった。
自分たちが何をされたのか、誰に命を繋がれたのかを思い出した者たちの声だった。
近衛たちは剣を構えたまま、だがもう無理に前へ出なかった。
副長だけが、目を細めてその変化を見ている。
帝都の夜に、ようやく別の静けさが生まれ始めていた。
結界は崩れた。
支配の核も落ちた。
そして今、剣までが地へ戻り始めている。
ミュレットは、アランに支えられたまま、その光景を見た。
胸の奥が熱い。
苦しくもある。
しかしそれ以上に、長く張り詰めていたものが少しだけほどけるのを感じた。
アランはなお、結晶片を手にしたまま前を見据えていた。
王として。
断界王として。
そして、ミュレットの力を誰にも奪わせないと宣言した男として。
今夜、帝都は確かに変わった。
⸻
そのあと、接収された内城の一室へ移される頃には、ようやく人の声が戻っていた。
長椅子に腰掛けたミュレットは、毛布を肩へ掛けられたまま、まだ少しぼんやりしていた。
顔色は悪い。疲労も濃い。それでも、もう意識ははっきりしている。
その前で、リリナが腕を組んだまま立っていた。
最初の数秒は、まだ王女らしく持ちこたえていたのだ。
「……本当に」
低く言う。
「本当に、信じられないわ」
ミュレットは少しだけ身を縮める。
「ご、ごめんなさ――」
「そこよ!」
リリナが勢いよく指を突きつけた。
「そうやってすぐ謝る!」
「……」
「謝れば済むと! お説教も終わると思ってるでしょう!?」
「……」
「済まないのよ!!」
その声で、部屋にいた者たちが一斉に黙る。
グレンは壁際に寄りかかったまま、口元を手で隠していた。
明らかに、笑いを堪えている。
リリナはそんなことに構わず、ついに両手で顔を覆った。
「心配したんだから~~~っ!!」
わん、とでも音がつきそうな勢いで泣き出す。
「帝国で捕まって! 倒れるまで利用されて!!」
「……」
「伝令塔なんかにまで行って!」
「……」
「死ぬ寸前よ!?」
「……」
「エルニアでの事といい、どこまで人の寿命を縮める気なのよ、あなたはぁ~~っ!!」
ミュレットは目を丸くしたまま、ただ瞬いていた。
泣きたいのはこちらのはずなのに、と一瞬思う。
なのに、目の前の王女は本気で泣いている。怒っているのに、怒鳴っているのに、その全部が心配の裏返しなのが丸分かりだった。
「リ、リリナ……」
「うるさい! いま話しかけないで!」
「……」
「話しかけられたら余計泣くでしょう!?」
それはもう泣いている。
グレンがとうとう吹き出した。
「ふふ……いやあ」
肩を震わせながら、妙に楽しそうに言う。
「二度と見られませんよ、こんなリリナ王女」
「グレン!」
「いえ、でも本当に」
グレンは穏やかに目を細める。
「心配していたんです」
「……」
「私も」
「……」
「アラン殿下も、見た目以上に」
その一言で、ミュレットの胸が小さく痛んだ。
リリナは涙を拭いながら、まだ睨むように言う。
「とにかく!」
「……」
「今夜は休みなさい!」
「はい……」
「ちゃんと休むのよ!」
「はい……」
「勝手に起きてどこか行ったら、その足に鎖つけるから!」
「は、はい」
そこまで言ってから、リリナはようやく少し落ち着いたらしい。
ぐず、とひとつ鼻を鳴らし、それでもまだ赤い目でミュレットを見る。
「でも」
「……」
「無事でよかった」
小さなその一言に、ミュレットはようやく、ほんの少しだけ笑った。
「……はい」
グレンが静かに言う。
「では、ここから先は」
その視線が、部屋の奥へ向く。
「殿下にお任せしたほうがよさそうですね」
リリナも鼻をすすりながら頷いた。
「そうね、あの顔で黙ってる時が、いちばん怖いのよ」
「そうでしょうね」
「本当に怖いのはこれからよ、ミュレット」
「……」
「頑張りなさい」
「えっ」
「そこは祈るところじゃないんですか、普通」
「祈っても無駄よ」
そう言い残して、リリナはくるりと背を向ける。
グレンは肩をすくめ、ミュレットへ軽く一礼した。
「では、ごゆっくり」
その声音には、明らかに面白がっている響きが混じっていた。
二人が出ていく。
扉が閉まる。
部屋の中には、静けさだけが残った。
⸻
寝台へ移され、灯りが少し落とされたあと。
ミュレットは横になったまま、天蓋の影をぼんやり見ていた。
身体は重い。
なのに、不思議と眠気は来ない。
やがて扉が静かに開く。
足音はすぐに分かった。
アランだった。
いつものように、無駄な音を立てない。
寝台のそばまで来ると、しばらく何も言わない。
ミュレットはそっと顔を向けた。
「……アラン様」
低い視線が落ちてくる。
その目の下には、うっすらと疲労の影があった。けれど、それ以上に濃いものがある。
怒っている。
たぶん、かなり。
ミュレットは反射的に少しだけ毛布を引き寄せた。
アランはその仕草を見ても何も言わず、寝台の端に腰掛けた。
それから、静かに手を開く。
そこにあったのは、指輪だった。
いや、もう“指輪”とは言えないかもしれない。
銀の輪は、中央からひび割れ、片側が大きく欠けている。
術式の細い線も焼け切れたように途切れ、もとの静かな輝きは失われていた。
ミュレットが息を呑む。
「……あ」
アランは、その壊れた輪を静かに見下ろしたまま言った。
「役目を終えた」
声は低い。
怒っている時の声だ。けれど、そこには別の響きも混じっていた。
ミュレットは、そっと手を伸ばしかけて、途中で止める。
「欠片を使って、新しいものは用意する」
アランが続ける。
「もう、あれほどまでの守りは作れないが」
その言葉に、ミュレットは目を伏せた。
あの夜、自分はたしかに守られた。
アランの母が遺したものに。
アランが組み直した術に。
そのすべてに。
だからこそ、その壊れた姿を見るのがつらい。
「……ごめんなさい」
小さく言うと、アランの目が少しだけ細くなる。
「それは何に対してだ」
ミュレットは答えに詰まった。
指輪を壊してしまったことか。
倒れるまで力を使ったことか。
勝手に動いたことか。
たぶん、全部だった。
その沈黙を見て、アランはひどく静かに息を吐く。
「ミュレット……」
その呼び方だけで、胸がきゅっと縮む。
「……あの」
「何だ」
「記録は、全部……見てしまいました?」
一瞬の間のあと、アランは答えた。
「全て確認した」
つまり、帝国で何があったのか。
どんな言葉が交わされ、どんな選択を迫られ、ミュレットの身に何が起きたのか。
アランは端から端まで、全部知ったのだ。
「だから、その……」
ミュレットは言葉に詰まる。
アランは壊れた指輪を見つめたまま、低く問うた。
「なぜ、倒れるまで力を使い続けた」
「……」
「なぜ、レオルドを信じた」
「……」
「あの男が帝国を裏切らなかった場合は?」
「……」
「近衛副長が間に合わなかったら?」
矢継ぎ早というほどではない。
とにかく、ひとつひとつが重かった。
アランは気に入らないことや、許せないこと、受け入れられないことがあると、こうしてミュレットにだけ言葉が増える。
ミュレットは何も答えられなかった。
「…………そんな、仮定の話をされましても」
ようやく絞り出した声は、思ったよりも弱かった。
毛布を口もとまで引き上げる。
その瞬間、アランの目の色が変わった。
静かな怒りが、はっきりと熱を持つ。
アランは一息吐いたあと、壊れた指輪を小卓へ置いた。
金属が触れる小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「俺がどんな思いで、見送ったと思っている」
次の瞬間、アランの手がミュレットの顔の横へつかれる。
咄嗟に、ミュレットは目をぎゅっと閉じた。
近い。
逃げ場がない。
「また、こんなことがあっては」
アランの声が掠れる。
「心臓が幾つあっても足りない」
その必死さに、ミュレットは閉じていた目をそっと開けた。
初めて見るほど、アランの表情が崩れていた。
眉間には深く皺が寄り、瞳は大きく揺れている。
怒りだけではない。
怖かったのだと、見た瞬間に分かった。
アランはそのまま、ミュレットの左手を取った。
指先が絡まる。
力が強い。
それでも、離す気がないだけで、痛くはなかった。
「……ご、ごめんなさい」
もう一度、謝ることしかできなかった。
それは、ただ困らせたことへの謝罪ではなかった。
アランが何を言いたいのかは、分かっている。
命まで懸けるな。
ひとりで行くな。
二度とするな。
分かっているのに、それでも――ここで「はい」とは言えなかった。
もし次に同じことが起きたら。
またアランが危うい場所に立たされたら。
自分はきっと、同じように無茶をする。
それが分かってしまうから、約束できない。
アランはそのまま体をミュレットの上へ倒してくる。
ずしり、と重みが落ちる。
息が詰まる。
けれど、それ以上に、必死に縋りつかれているのだと分かってしまう重さだった。
片方の手が、ミュレットの背中へ回る。
逃がさないように、深く抱き込まれる。
熱い息が首もとへ触れた。
くすぐったくて、思わず身を捩る。
すると、その瞬間に抱きしめる力が強くなった。
「……っ、アラン様」
「動くな」
「でも、くすぐっ……」
「動くな」
低い声で言われて、本当に動けなくなる。
「……私」
暫くすると、ミュレットは震える声で言う。
「アラン様のためなら、どんな無茶なこともしてしまいます」
アランの肩が、わずかに強張った。
「命までかけるなと言っている……」
低い。
押し殺しているのに、痛いくらい感情がこもっていた。
ミュレットは唇を噛む。
「……ごめんなさい」
謝っているのに、それは従うという意味ではなかった。
できないと知りながら、それでも傷つける返事しか返せないことへの、かすれた詫びだった。
アランはすぐには何も言わなかった。
ただ、絡めた指だけは離さない。
背中に回された腕の力も、少しも緩まない。
そのまま、長い沈黙が落ちた。
ようやく、波のように眠気が押し寄せてくる。
身体はずっと重かった。
それなのに張りつめていて眠れなかった。
だが今は、その重さごと寝台へ沈んでいく感じがした。
苦しい。
身動ぎもできない。
でも、そんなことを言えば、また怒られる気がした。
だからミュレットは何も言えなかった。
ただ、絡まれた指をそっと握り返す。
アランの肩が、ほんの少しだけ揺れる。
「俺が言いたいことは、ほとんどリリナが言ったのだろう?」
低い声だった。
その下に押し込めたも感情は、まだ少しも静まっていない様子だった。
ミュレットは一瞬だけ瞬いて、それから思わず言い返してしまった。
まだあるのか、と言いたげな顔で。
「たくさん、先ほど……仰いましたのに……」
眠気に曖昧になった声で、ミュレットは小さく口答えした。
アランの気配が、わずかに止まる。
それから、呆れたような、それでも甘さを隠しきれない低い声が落ちた。
「……悪い口は、塞ぐしかないな」
次の瞬間、無理やり口づけが落ちてきた。
短く、しかし強い。
叱るように。
黙らせるように。
「……っ」
ミュレットは最後に小さく息を呑む。
唇が離れる。
すぐ目が合った。
近すぎる距離で見下ろすアランの目は、まだ怒っている。
それだけではなかった。
ミュレットが何か言おうと、かすかに唇を開きかけた、その瞬間。
もう一度、口づけが落ちてくる。
今度はさっきより少しだけ長く、深く。
口答えも、言い訳も、謝罪も、いまはもう聞かないと告げるように。
やがて離れると、アランは短く息を吐いた。
それからようやくミュレットの上から身を起こし、そのまま寝台の隣へ横たわる。
疲れを押し隠しきれない動きだった。
ひとつ、深いため息が落ちる。
そのまま目を閉じる。
壊れた指輪は、小卓の上にある。
薬指には戻らない。
その代わりに、いまはこの人の手がある。
それで十分だと思いながら、ミュレットはようやく、静かな眠りへ落ちていった。




