Episode 93. 届きはじめた光
王城の窓から見下ろす中庭では、やわらかな緑が日に日に濃くなっていく。
その朝、ミュレットは医務局から届いた小さな包みを、侍女から受け取った。
「孤児院からだそうです」
「孤児院……?」
包みは粗い麻布にくるまれていた。
豪奢さとは無縁の、けれど丁寧に結ばれた紐だった。
解いてみると、中から出てきたのは、少し歪んだ花冠と、何枚かの紙だった。
紙には、拙い線で絵が描かれている。
春の花。
大きな鳥。
そして、ひときわ大きく描かれたふたりの人影。
ひとりは、やたらと髪がふわふわしていて、花に囲まれている。
もうひとりは、黒くて、長くて、目つきが妙に鋭い。
「……」
ミュレットは、しばらくそれを見つめてから、小さく笑った。
「これは……?」
「お礼の品かと」
侍女も、口元へ笑みを浮かべている。
「先日の巡回でお会いした子どもたちからだそうです」
一番上の紙を持ち上げる。
そこには、たどたどしい字でこう書いてあった。
みゅれっとさまへ
ありがとう
くろいひともありがとう
「くろいひと……」
思わず呟いたところで、ちょうど部屋へ入ってきたアランが足を止めた。
「何だ」
「孤児院から、お礼が届きました」
「そうか」
アランはごく自然に近づいてくる。
そしてミュレットの手元を覗き込み、絵を見た。
数秒の沈黙。
「……どこが俺だ」
低い声で、真顔のまま言う。
ミュレットは吹き出しそうになるのを堪えながら、紙を少し持ち上げた。
「ちゃんと描けていますよ」
「どこがだ」
「黒いですし」
「そこだけだ」
「あと、背が高いです」
「そうか……?」
「ええと……特徴は出ています」
ちょうどその時、ディルクが報告書を抱えて入ってきた。
絵を見た瞬間、ぴたりと動きが止まる。
「……」
「何だ」
アランの声に、ディルクはごく真面目に答えた。
「非常に……特徴を捉えております」
「お前までそう言うのか」
「近寄りがたい威圧感と、目つきなど……観察力がありますね」
ミュレットはとうとう小さく笑ってしまった。
アランは不服そうに眉を寄せる。
それでも、その絵を取り上げて捨てることはしなかった。
「机へ置いておけ」
「よろしいのですか?」
「届いたものは確認する」
「はい」
返事をしながら、ミュレットは胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じていた。
骨折を治した男からも、朝のうちに報せが届いていた。
まだ完全ではないが、補助杖を使えば歩けるようになり、近いうちに仕事へ戻れそうだという。
教会からは、療養室で看た初老の女性について、夜ごと苦しみで眠れなかったのに、あの日以来、穏やかな眠りにつけるようになったという礼状が届いていた。
どれも小さな反響だった。
でも、だからこそ本物だった。
治癒の力が、密室の奇跡としてではなく、人の暮らしへ届いたのだと分かる。
だがその一方で、王城医務局へ上がってくる願いの数は、目に見えて増えていた。
その日の午後、ミュレットは医務長と上位医務官、そして記録官を交えた小さな打ち合わせに同席していた。
机の上には、礼状と同じくらいの数の願いの書付がある。
教会経由のもの。
病院経由のもの。
そして、領主や富裕層ではない、城へ直接訴える手段のなかった者たちから、ようやく上がってきたもの。
医務長が、眼鏡越しに書面を見下ろしながら言った。
「巡回の件が静かに広まりつつあります」
「……はい」
「喜ばしいことではあります」
「……」
「ただし、今後はさらに選定と事前診察を厳密にせねばなりません」
「そうですね」
ミュレットは頷く。
上位医務官が、別の書面を差し出した。
「そして、本日はもうひとつございます」
「……?」
「エルニア王家と、サンダレイン王家より、正式な患者受け入れ依頼が来ております」
ミュレットは目を瞬いた。
三国同盟の条文。
本人の意思、王家管理下、医官による診断、そして強制なき治療。
あの文面が、ついに本当に動き出したのだと、その一言で分かる。
医務長が続けた。
「エルニアからは、長く熱病を患い、回復後も内臓の負担が抜けきらない少女」
「……」
「サンダレインからは、海難事故により左脚へ深い損傷を負った若い船員」
「どちらも、事前診察済みです」
上位医務官が静かに補足する。
「筆頭医務官の治癒が有効と判断されました」
ミュレットは、無意識に指輪へ触れた。
自分の名を持つ条文が、紙の上の言葉ではなく、人を運び、人を救うための道として動いている。
少しだけ息が詰まるような思いがした。
「……会わせてください」
「承知しております」
医務長は頷いた。
「本日中に順にお通しします」
最初に案内されたのは、エルニアから来た少女だった。
用意された待合室のベッドに、細い身体をこわばらせるようにして座っている。
十四か十五ほどだろう。
顔色は悪くない。
だが、立っているだけで呼吸が浅くなるのが分かる。
長い病のあと、命は繋いだものの、内側がまだ追いついていないのだ。
付き添いとして来ていたエルニアの女官が、丁寧に頭を下げる。
「お時間を賜り、ありがとうございます」
少女は緊張した顔のまま、それでも自分で答えた。
「……お願いします」
声は細い。
けれど、はっきりしていた。
ミュレットはその前へ進み、そっと目線を合わせる。
「つらいところは、どこですか?」
「息が……」
少女は胸のあたりへ手を当てる。
「少し歩くだけで、苦しくなります」
「……わかりました」
「なおる、でしょうか」
その問いには、切実さと、諦めが半分ずつ混じっていた。
ミュレットはすぐには答えなかった。
答えられないことを、曖昧に約束するつもりはない。
「楽になるようにします」
静かに言う。
「でも、その後は医官の方々と一緒に、少しずつ戻していくことになります」
少女は数秒黙ってから、小さく頷いた。
ミュレットは胸へ手を当てた。
光は、静かに広がった。
子どもに使う時とも、骨を治す時とも少し違う。
奥にこびりついた疲弊をやわらげ、息の通る道を少しずつ広げていくような、深く静かな光だった。
少女の肩が、少しだけ落ちる。
吸う息が、さっきより深くなる。
「……あ」
「苦しくないですか」
「さっきより……」
少女は胸元へ手を当てたまま、信じられないものを見る顔をした。
「……ひろい、です」
「……」
「ここが」
その表現が幼くて、でも正確で、ミュレットは思わずやわらかく微笑む。
「よかった」
「ありがとうございます……」
「まだ無理はしないでくださいね」
「はい」
そのあと、サンダレインから来た若い船員も診た。
こちらは脚だった。
病院で骨折した男を治した時より古く、もっと根深い損傷だったが、治癒によって歩行の見込みははっきり戻った。
付き添いの役人は、安堵で膝から崩れそうな顔をしていた。
記録官が、淡々と記していく。
治療時刻。
診断結果。
本人の意思確認。
術後の所見。
奇跡のような光景なのに、その場は静かで、厳粛だった。
勝手に使われる力ではない。
奪われるものでもない。
本人の意思と、医療と、王家の管理の中で、きちんと守られて使われる力だった。
それが、ミュレットには何よりも不思議だった。
こんなふうに使える日が、本当に来るのだと。
怯えながらではなく、誰かを傷つけるのではと脅えながらでもなく、
守られたまま、正しい形で、人へ届けられるのだと。
その夜、ミュレットはアランの私室で出された蜂蜜湯を両手で包みながら、しばらく黙っていた。
暖炉の火はまだ小さく燃えている。
春とはいえ、夜は少し冷える。
そのぬくもりの中で、今日一日のことが静かに胸へ戻ってくる。
アランが、向かいではなく隣へ腰を下ろした。
「どうだった」
「快方に向かう方々ばかりで」
短い返事のあと、また沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は重くはなかった。
ミュレットは蜂蜜湯をひと口飲んで、小さく言った。
「ありがとう、と言っていただくたび」
「……」
「あの日、この力を使ってよかったと思います」
アランは火を見たまま、しばらく何も言わなかった。
思い返しているのだと、ミュレットには分かった。
深手を負ったディルク。
倒れた兵たち。
そして、その前に立った自分。
あの時のことを、アランは今も忘れていないのだろう。
やがて、低い声が落ちる。
「そのために整えた」
「……」
「巡回も、同盟の条文も」
「はい」
ミュレットは膝の上で指を重ねた。
「ひとりでは無理でした」
「そうだな」
「こういう形で使えるなんて、思っていませんでした」
アランは火から目を離さずに言う。
「だが、まだ課題は山盛りだ」
「……」
「護衛、巡回経路、エルニアとサンダレイン」
「はい」
「他の国々も噂を聞きつけ、いずれは便乗する」
その言葉は重かった。
だが、脅かすためのものではない。
これから来る現実を、先に見せるための声だった。
「……それに」
そこでアランはようやくミュレットのほうを見た。
「あまり人気者になられても困る」
「へっ?」
素っ頓狂な声が出た。
隣からアランが真っ直ぐ見つめてくる。
そのまま、ミュレットの頬へ人差し指をそっと添えた。
「その力がなければ」
「……」
「俺だけのミュレットになっていたのか」
その言葉が、胸のいちばん奥へ静かに落ちる。
「ち、力がなかったら、出会っていなかったかも……しれません」
「そうだろうか」
「そ、そうです……きっと」
「俺は、見つける自信があるが」
ミュレットは何も言えなくなって、ただ少しだけ身体を寄せた。
アランはそれを拒まず、そのまま肩を貸す。
大きな手が、頭を撫でるでもなく、ただ背にそっと触れた。
それだけで十分だった。
やがて、卓の上の書付へミュレットの目が向く。
礼状。
報告。
そして、その横に積まれはじめた、あたらしい願い。
「……増えていますね」
「ああ」
「……」
「まだ増える」
アランの声は落ち着いていた。
その先にあるものも、よく知っている声だった。
うちの子も。
父も。
妻も。
この病は。
この痛みは。
順番はいつか。
本当に選ばれるのか。
届きはじめたからこそ、今度は届かない願いが際立っていく。
ミュレットは、その束を見つめる。
希望は広がった。
けれど、希望が広がるほど、線引きの痛みも大きくなる。
それでも、目を逸らすことはもうできなかった。
「……アラン様の政務も、増えてしまいましたね」
「そうだな」
「大変ですね」
「……ミュレットが言うな」
ミュレットは思わず小さく笑った。
「アラン様」
「ん?」
「お城の、中庭の奥に、日当たりの悪い場所があって」
「ああ……」
「あの場所を、いつか花畑にしたいです」
アランが、わずかに目を細める。
ミュレットは続けた。
「それで、中央に、アラン様の父君と、母君のお墓を」
アランは少し驚いた顔をした。
「……確かに、静かに眠れそうだ」
その返事は低く、けれどやわらかかった。
ミュレットは小さく頷く。
届きはじめた光は、たしかにあった。
けれどその光は、これから先、どこまで届き、どこで届かなくなるのか。
その答えを、次は見なければならないのだと、ミュレットはその夜、静かに知っていた。




