Episode 92. 巡回
朝、王城の玄関前には、すでに人が揃っていた。
近衛騎士が数名。
王城医務局の医官と補助官。
記録官。
そして、黒い外套を羽織ったアラン。
ミュレットは侍女に外套の留め具を整えてもらいながら、無意識に指先を握っていた。
「緊張していますか?」
年長の侍女が小さく問う。
「……少しだけ」
「そういうお顔ではありませんよ」
「え?」
「もっと、覚悟を決めたお顔をされています」
そう言われて、ミュレットは少しだけ目を見開いた。
玄関前に立つアランが、こちらを見た。
その視線はいつも通り静かだった。
だが、今日だけはどこか違う。
守るためだけではなく、始めるために立っている人の目だった。
「行くぞ」
低い声が落ちる。
「はい」
今日は最初の巡回だ。
王城医務局と王太子府の名で正式に整えられた、最初の一日。
気まぐれでも、密かな訪問でもない。
治癒の力を、守られた制度の中で人へ届けるための、最初の歩みだった。
馬車の中には、先に医官たちが乗り込んでいた。
記録官が文書を確認し、補助官が今日の順路を読み上げる。
「本日は、病院、孤児院、教会付属療養室の順でございます」
「対象者は事前診察済み。重症度と適応を再確認の上、筆頭医務官の判断に委ねます」
「……はい」
ミュレットは頷いた。
アランは向かいの席に座っている。
窓の外へ目をやりながらも、どこかでこちらの様子を見ているのが分かる。
馬車が動き出す。
城下へ下りる道の脇では、雪の名残がまだ日陰に薄く残っていた。
けれど屋根の軒先から滴る水や、湿った土の匂いが、春がもう来ていることを知らせている。
王城を出る。
城下へ入る。
春の街はまだ完全には軽やかでない。
冬を越えたあとの疲れが、どことなく石畳にも、行き交う人々の顔にも残っている。
病院へ着くと、院長と上位医官が待っていた。
出迎えの礼は簡素だった。
大げさな儀礼よりも、今日は対象者の状態が優先される。
「ご足労をいただき、ありがとうございます」
「状況は」
アランが問う。
院長がすぐに説明へ入る。
「本日の第一対象者は三十二歳の男性です。雪解けで滑った坂道にて転倒し、右脚脛骨を骨折。医官による固定と保存治療を行いましたが、位置が悪く、このままでは歩行へ長く支障が残るおそれがあります」
「命に別状はない」
「はい」
「だが、治癒による回復効果が最も見込める」
「その通りです」
淡々としたやり取りだった。
それが、今日の意味をはっきりさせる。
願いがあるから治すのではない。
哀れだからでも、身分があるからでもない。
医官が診て、必要性と効果を判断し、そのうえでミュレットのもとへ上がってきた患者だ。
病室へ入ると、若い男が緊張した顔で寝台に横たわっていた。
脚はしっかり固定されている。
ただ、痛みに耐える色が顔から消えていない。
「王太子殿下……」
「無理に起きるな」
アランが短く制し、視線をミュレットへ向ける。
ミュレットは寝台のそばへ歩み寄った。
「痛みますか」
「……はい。でも、我慢はできます」
「我慢しなくていいです」
ミュレットは静かに言う。
「少し、診せてくださいね」
医官が固定具の一部を外し、状態が見えるようにする。
腫れはまだ引いていない。
骨の位置は戻されているが、負担の大きさはすぐに分かった。
ミュレットはそっと脚へ手を添えた。
それから、折れた箇所の少し上へ手を当てる。
呼吸を整える。
焦らない。
必要な分だけ。
過不足なく。
やわらかな光が手のひらから広がった。
病室の空気が、ふっと静まる。
白にも、金にも見える治癒の光が、固定された脚を包むように流れていく。
男が小さく息を呑んだ。
「……あ」
「痛みますか?」
「いえ……逆です」
「……」
「熱が、引いていくみたいで……」
ミュレットは集中を切らさないまま、さらに少しだけ力を重ねた。
骨のずれが落ち着く。
傷んだ周囲の組織が、無理なく修復されていく。
治るべきものを、治る方向へ押し戻すように。
やがて光が収まる。
医官がすぐに患部を確かめ、目を見開いた。
「……腫れが」
もう一人の医官が息を呑む。
「固定を少し緩めても問題ないかもしれません」
院長が短く指示を飛ばす。
「確認を」
男はまだ何が起きたのか分からないような顔をしていた。
だが、恐る恐る脚へ力を入れた瞬間、その表情が変わる。
「痛く、ない……」
「無理はなさらず」
医官が言うが、その声にははっきりと驚きが混じっていた。
男の目に涙が滲む。
「仕事に、戻れるでしょうか」
それは誰に向けた問いというより、願いそのものだった。
ミュレットは小さく頷く。
「無理は禁物です」
「……」
「でも、ちゃんと治していけば、大丈夫です」
「……はい」
「医官の方のお話を、よく聞いてくださいね」
「……はい……!」
その返事は、泣き笑いみたいに震えていた。
病院を出たあと、次に向かったのは孤児院だった。
教会の近くに建つその建物は、古いがよく手入れされていた。
窓辺には春を迎えた布が掛けられ、狭い庭では子どもたちが小さな声で遊んでいる。
王太子の馬車と近衛の姿に、最初は皆が固くなった。
だが中から出てきた子どもたちの目が、ミュレットを見ると少しだけ変わる。
怖がるだけの目ではない。
様子をうかがいながらも、近づいてきていいだろうかと迷う子どもの目だ。
ミュレットはその視線に覚えがあった。
こんな場所の空気を、自分は知っている。
声の大きい子。
じっと見ているだけの子。
お客様用の顔をして立っているけれど、ほんとうは熱があって辛い子。
院母が深く頭を下げた。
「本日は、ありがとうございます」
「具合の悪い子は」
アランが問う。
「三名おります。皆、冬の終わりから咳が長引いており……そのうちひとりは、もともと身体が強くない子でして」
通された部屋は、陽当たりを優先した小さな静養室だった。
寝台に横になっていたのは、七つか八つほどの男の子だった。
頬が少しこけている。
息は浅く、咳の名残がまだ胸のあたりに残っているのが見て取れた。
ミュレットが近づくと、男の子は目だけを動かして、じっとこちらを見た。
「こんにちは」
ミュレットはしゃがみこんで、目線を合わせる。
「苦しい?」
ゆっくり問いかける。
男の子はこくりと、小さく頷く。
「……うん」
「そうですね」
「ねると、せきがでるの」
「うん」
「でも、もう少し楽になるようにしますね」
不安そうだった。
だからミュレットは、まずその手をそっと握った。
子どもの扱いには慣れている。
力を使う前に、怖くないと伝えること。
身体より先に、心の強ばりをほどくこと。
「こわくないですか」
「……ちょっとだけ、こわい」
「大丈夫。すぐ終わります」
「いたくない?」
「いたくないですよ」
「ほんとう?」
「ほんとうです」
そのやり取りを見ていた院母が、そっと目元を押さえた。
ミュレットはもう一方の手を、男の子の胸へ軽く当てる。
光は、病院で使った時よりもっとやわらかかった。
骨を治す時のような強い集中ではない。
弱った身体を包み、呼吸を楽にし、長く続いた負担を静かにほどいていくための光。
男の子の肩から、少しずつ力が抜けていく。
浅かった呼吸が、少しだけ深くなる。
こわばっていた眉間がほどけ、指先の緊張もゆるんだ。
「……あったかい」
小さな声が漏れる。
「うん」
ミュレットは微笑む。
「もう少しだけ」
光が消えた頃には、男の子の顔色は少しやわらいでいた。
「どう?」
「……いたくないよ」
「そうですか」
「うん……」
「よかった」
その返事は、寝る直前の子どもみたいにふわふわしていた。
ミュレットが手を離そうとすると、小さな指がきゅっと握り返してくる。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
その言葉が胸に沁みた。
同じ部屋の隅で待っていた二人の子どもにも、ミュレットは順に声をかけた。
咳の残る女の子。
古い凍傷の痕が春になっても痛む小さな子。
どの子にも、まず話しかけ、目を合わせ、怖がらせないようにしてから治癒の力を使う。
その様子を、アランは少し離れた場所で見ていた。
子どもたちは、最初こそ近衛や王太子の気配に固くなっていた。
だがミュレットがひとりずつ屈み、声をかけ、手を握るたび、部屋の空気は少しずつ変わっていく。
彼女は、こういう場所に自然に馴染む。
王城の人間としてではなく、もともとそこにいる側の人間のように。
アランは何も言わなかった。
ただ、ミュレットの背に差す春の光を見つめていた。
最後に向かったのは、教会付属の療養室だった。
そこは病院より静かで、孤児院より重かった。
窓は開けられているが、風より先に薬草と弱い香の匂いが漂ってくる。
長く床に臥す者たちの部屋だ。
付き添いの医官が、ひとりの寝台の前で足を止めた。
「この方はいかがでしょうか」
初老の女性だった。
頬は痩せ、息は細く、胸の上下も浅い。
明らかに、病院で骨折した男や、孤児院の子どもたちとは違う。
医官は静かに説明した。
「内臓の病でございます。冬のあいだ持ちこたえましたが、病そのものは進んでおります」
「……」
「痛みと息苦しさが強く、夜も眠れぬことが多いと」
「治癒の適応は」
アランが問う。
医官は、わずかに迷ってから答えた。
「……完治は、難しいかと」
ミュレットは寝台のそばへ進み、女性の顔を見た。
呼吸の重さ。
胸の奥へ染みついた痛み。
身体全体に広がる消耗。
分かる。
自分の力は、大病を楽にすることはできても、すでに深く根を張った病そのものを消し去ることはできない。
ミュレットは、静かに首を横に振った。
医官はその意味をすぐに理解し、目を伏せる。
だが、ミュレットはそのまま立ち去らなかった。
寝台の脇へ椅子を寄せる。
そして、初老の女性のそばへゆっくり腰を下ろした。
「……聞こえますか」
女性の瞼が、わずかに動く。
ミュレットは、その手をそっと包んだ。
冷えきってはいない。
だが、長い苦しみに耐えてきた人の手だった。
「少し楽になりますからね」
そう言って、胸へやわらかく手を当てる。
光は小さかった。
骨を治す時のような強い光でも、子どもたちを包むあたたかさとも少し違う。
ただ、苦しみを和らげ、身体の緊張を静かにほどくためだけの光だった。
女性の息が、少しずつ変わる。
浅く途切れがちだった呼吸が、やわらかくなる。
苦痛に耐えていた眉間の皺がほどけ、強ばっていた唇も静かに緩んでいく。
「……ああ」
小さな声とも吐息ともつかないものが漏れた。
ミュレットはその手を握ったまま、光を細く流し続けた。
やがて女性は、安心したように瞼を閉じる。
そのまま、ずっと眠れていなかった人がようやく眠りに落ちるように、ゆっくりと静かな寝息を立てはじめた。
付き添いの修道女が、口元を覆う。
医官も、記録官も、しばらく何も言えなかった。
治ったわけではない。
救われたと言い切れる形でもない。
それでも、確かに苦しみは和らいでいる。
そのことの重みが、部屋にいる全員へ静かに落ちていた。
療養室を出たあと、ミュレットはしばらく何も言わなかった。
外へ出ると、春の風が少しだけ頬を撫でる。
教会の鐘が、遠くでやわらかく鳴っていた。
帰りの馬車へ乗り込んでからも、ミュレットは窓の外を見ていた。
城下の屋根。
雪解け水の残る石畳。
乾ききらない路地。
そして、その中で春の暮らしを始めようとしている人々。
向かいに座るアランが、静かに口を開く。
「疲れたか」
「……いえ、大丈夫です」
「無理はするな」
「はい」
短いやり取りのあと、ミュレットはふと視線を落とした。
それから、何かを決めるように言う。
「……アラン様と同じくらい、信頼できて、実力のある騎士を探したいです」
アランの目が止まった。
「そんな男がいてたまるか」
あまりにも即答で、ミュレットは思わず瞬きをした。
「でも、必要です」
今度はミュレットが、いつもアランが言う時のような口調で言う。
「今後、もっと巡回の範囲が広げられるなら」
「……」
「毎回アラン様に全部ついてきていただくわけにはいきません」
「……」
「信頼できて、実力もあって、きちんと判断のできる方が必要です」
もっともだった。
実際、そんな騎士がいれば、護衛体制はさらに安定する。
ミュレットの行動範囲も、いずれ広げられるかもしれない。
理屈では、そうだ。
理屈では。
だが、もし本当にそんな男が現れたら。
ミュレットの隣へ立ち、近くで守り、信頼を寄せられ、行動をともにする騎士が現れたら。
巡回の制度は整う。
警護の質も上がる。
運用面では、間違いなく正しい。
その代わり、自分の心情はひどいことになるだろうと、アランは一瞬で理解した。
「……見つけてからにしろ、そんな話は」
低い声でそう言うのがやっとだった。
ミュレットは少しだけ目を丸くしたあと、なぜか小さく笑った。
たぶん、その返しがどこかアランらしかったのだろう。
アランは窓の外へ視線を戻す。
春の光はまだやわらかい。
だがその奥で、制度も、仕事も、そして厄介な感情も、少しずつ確かな形を持ち始めていた。
馬車は王城へ向かって進んでいく。
「……来てよかったです」
ミュレットはぽつりと呟いた。
アランはすぐには答えなかった。
少ししてから、低く言う。
「だから言っただろう」
「……?」
「俺も行くと」
ミュレットは目を瞬く。
それから少しだけ笑った。
「はい」
「これで終わりではない」
「……」
「ここから整える」
その言葉に、ミュレットは静かに頷く。
病院で、骨折した男の脚は確かに救われた。
孤児院では、子どもたちの苦しさが軽くなった。
療養室では、治せなくても、痛みを和らげて眠らせることができた。
届かなかった人へ、届きはじめた。
それだけは、もう確かだった。
春の城下には、水の音がしていた。
雪解け水は石畳の脇を細く流れ、冬の終わりと春の始まりをつないでいる。
その流れの先へ向かうように、ミュレットは顔を上げた。
これが最初の一日だ。
まだ始まったばかり。
制度はこれから磨かれ、整えられていく。
それでも今日、確かにひとつの命が軽くなり、ひとつの苦しみが和らいだ。
その事実があるのなら、進まなければならない。
守られた枠の中で。
奪われず、閉じ込められず、人へ届く力として。
春の光は、やわらかく街へ落ちていた。
そしてその光の中で、ミュレットの治癒の力もまた、ようやく正しい形を持って歩きはじめていた。




