Episode 91. 春の願い
春の陽はやわらかかったが、執務室の中に満ちている空気はやわらかくなかった。
机の上には書状が積まれ、開かれた文書には赤と黒の細かな書き込みが重なっている。
婚約発表を終えてなお、城の中は忙しさを増していた。
三国同盟の運用調整。
婚約発表後の各家からの応対。
筆頭医務官としてのミュレットの勤務体制。
春から本格的に動き始めた諸々の政務。
窓の外では中庭の緑が濃くなり、名前のない花も先日より葉を広げている。
それでも執務室の中だけは、季節が一歩遅れているように張りつめていた。
アランは書類へ視線を落としたまま、机の端に新しい湯が注がれる気配を感じていた。
ミュレットだ。
最近は、彼女が茶を差し替える間の空気だけが、この部屋で唯一やわらかい。
だからこそ、その沈黙の長さが妙に気になった。
何か言いたい時の間だ。
アランはペンを走らせながら、何も言わず待った。
「……アラン様」
やはり来たか、と思う。
「何だ」
声だけ返す。
手は止めない。
聞く姿勢はあると分かる程度に。
ミュレットが小さく息を吸う気配がした。
「お願いしたいことがあります」
「……」
「月に数回でいいのです」
そこでようやく、アランは手を止めて顔を上げた。
ミュレットは逃げずにこちらを見ている。
その目は、ためらっているのに、引くつもりはない時の目だった。
嫌な予感がした。
「孤児院と、教会と、病院をまわらせてください」
沈黙が落ちた。
春の風が窓の外の枝を揺らす音まで、妙にはっきり聞こえる。
アランはしばらく何も言わなかった。
言わなかったのは、即座に却下する前に、ほんの一瞬だけ別の言葉を探したからだ。
だが、結局出たのはそれだった。
「だめだ」
簡潔だった。
「危険すぎる」
「……」
「王城の外へ出る以上、何が起こるか分からない」
言いながら、脳裏にはもう炎があった。
赤い。
熱い。
煙で喉が焼ける。
崩れた回廊。
焼け跡の奥で見失いかけた姿。
あの夜の感触は、まだ少しも古びていない。
彼女がいまここに居ることでさえ、偶然の産物だ。
忘れるはずがない。
「護衛は、ちゃんとつけます」
ミュレットがそう言った瞬間、アランはほとんど反射で返していた。
「エルニアで二度も攫われかけたのを忘れたのか」
言葉が落ちたあと、部屋の空気がわずかに強張る。
忘れているはずがない。
それは分かっている。
分かっていても、こういう時の俺は言い方がよくないと、自分でも思う。
だが、止めるなら曖昧にしたくなかった。
ミュレットは視線を落とした。
その顔を見て、少し言い過ぎたかと思う。
だが、引っ込める気にもなれない。
あの時の恐怖を知らないふりなどできない。
「……忘れていません」
小さな声だった。
それから少しの沈黙。
アランは次の反論を待った。
彼女はこういう時、黙って折れるほうではない。
むしろ、言葉を選ぶために黙る。
セレスティアが時々、半ば呆れたように口にする。
――ミュレット様は、たちの悪い頑固者ですから。
本当にそうだ、とアランは思う。
やわらかく見えて、いちばん譲らないところでは絶対に折れない。
しかも、その頑固さがだいたい人のために向くから、なお悪い。
本当に、たちが悪い。
そして案の定、ミュレットは逃げなかった。
「私は……王城へ来る前、教会で過ごしていました」
「……」
「家のない人たちの手伝いをして、孤児院でも子どもたちの世話をして」
「……」
「冬になると、寒さだけではなくて、弱っていた身体がそのまま止まってしまう人もいました」
アランは黙って聞いた。
ミュレットがこういう声を出す時、途中で遮るとろくなことにならない。
何より、その声はもう“お願い”の声ではなかった。
胸の底に沈めていたものへ触れている声だった。
「春になれば、みんな助かるわけではないのです」
「……」
「冬を越えたあとに、力尽きる命もたくさんありました」
静かな声なのに、ひどく重い。
アランは、彼女が何を見てきたかを知っているつもりだった。
だが、こうして本人の口から落ちてくる言葉は、書類や報告よりずっと鋭く入る。
「見ないふりをして、手を出せないふりをして」
「……」
「そのまま、見送ってきた人がたくさんいます」
その言葉に、アランはほんのわずかに目を閉じた。
ミュレットが力を持ちながら、それを使えずにいた時間。
彼女自身がどれほどそれを苦しんでいたか。
聞いて知っていたはずなのに、こうして改めて言われると重さが違う。
「それに……」
ミュレットがぎゅっと指を握る。
「今、わたしの力へ届く願いは、領主や裕福な家からのものがほとんどです」
「……」
「国へ声を上げられる人たちの願いばかりが、先に王家へ届いていて」
「……」
「でも、教会に身を寄せるような人たちや、孤児院の子どもたちや」
「……」
「病院へ来ても、その先へ声を上げる力のない人たちは……?」
そこで、アランの中で別の思考が動き出した。
危険だ。
だが、言っていることは正しい。
王城へ届く願いには偏りがある。
制度が未整備な以上、最初に声を上げられるのは、どうしても力のある者だ。
それはずっと理解していた。
していたが、だからこそ、いずれ手を打たねばならないとも思っていた。
そして今、その必要を、ミュレットが最も彼女らしい形で突きつけてきている。
「長い冬を越えて、いまも苦しいままの人がいると思うから」
「……」
「孤児院にも、教会にも、病院にも」
「……」
「今のわたしが、また何もできないふりをしていたら」
「……」
「たぶん、もう耐えられない」
アランは、そこでようやく彼女をまっすぐ見た。
そうだろうな、と思った。
ミュレットはそういう女だ。
目の前の苦しみに見ないふりができない。
できないくせに、できない自分を責め続ける。
だから、たちが悪い。
「だから、行かねばならないのです……!」
最後の言葉は小さかった。
だが、小さいぶんだけ、もう揺るがないことが分かった。
沈黙。
アランは目を閉じた。
焼け跡。
煙。
伸ばした手の先で、冷えていくかもしれなかった体温。
失いかけた瞬間の、あの腹の底が抜ける感覚。
王城の外へ出せば、また同じことが起こるかもしれない。
それを思うだけで、内心はもう十分すぎるほど苛立っていた。
行かせたくない。
本音はそれだけだ。
王城の外など、全部危険だ。
教会も、孤児院も、病院も、安全だという保証はない。
まして、ミュレットはもうただの娘ではない。
王太子婚約者であり、筆頭医務官であり、力そのものが狙われる存在だ。
だが。
それでも、ここで閉じ込めれば、彼女はまた“見ないふりをした自分”に戻される。
それだけは、阻止しなければならない。
深く、長い息が漏れた。
諦めと、心配と、苛立ちと、敗北感が混ざったような溜め息だった。
「……本当に、たちが悪い」
ミュレットが少しだけ肩をすくめる。
意味はきちんと伝わったらしい。
セレスティアがたびたび口にする“たちの悪い頑固者”を、彼女自身も知っている。
アランは椅子の背へ体を預けた。
「わかった」
「……!」
「条件がある」
ミュレットの顔が、わずかに明るくなる。
その変化に、アランの眉間の皺はむしろ深くなった。
「多くて月二回」
「……はい」
「クレスティア領内に限定」
「はい」
「城下と、その周辺まで」
「……はい」
「必ず事前に経路を定める」
「はい」
「護衛は近衛をつける」
ここまでは当然だ。
だが、それだけでは足りない。
足りるわけがない。
アランは一拍置いて、言った。
「そして」
「……」
「俺も行く」
ミュレットが目を見開く。
「……アラン様も?」
「ああ」
「でも……」
その“でも”が何を意味するかは分かる。
大げさだと思っている。
負担を増やしたくないとも思っているのだろう。
だが、そこは譲れない。
「だめだ」
低く、強い声だった。
そこには、これ以上は譲らないという意思がはっきりとあった。
「俺が行くことに異議があるなら、許可はできない」
そのまま続ける。
「これは、王太子婚約者が勝手に善行に出る話ではない」
「……」
「制度として始める」
「……」
「国の意思として始める」
「……」
「治癒の力が密室の奇跡ではなく、公的な枠の中で人を救うものだと示すなら」
「……」
「最初は、俺が同席する」
言い切ったあとで、ようやく自分の中でも形になる。
そうだ。
個人的な善意の外出ではだめなのだ。
それでは守れない。
力も、彼女も、使われ方も。
制度にする。
王城の意思として出す。
そうでなければ、また奪われる。
ミュレットは黙っていた。
おそらく、考えている。
彼女も分かっているのだろう。
これは許可をもらって終わる話ではない。
始めるなら、背負うことになる。
やがて、彼女は深く頭を下げた。
「……わかりました」
「……」
「お願いします」
その返事を聞いて、アランはようやく内心でひとつ線を引いた。
なら、もう迷う余地はない。
「いいか」
「はい」
「対象は医務局を通して選ぶ」
「……」
「孤児院、教会、病院を優先」
「はい」
「重症であっても、俺たちが行くのは“治せる可能性がある者”に限る」
「……はい」
「奇跡を売るつもりはない」
「はい」
ミュレットはひとつずつ頷いた。
その顔には、納得と覚悟があった。
なら、もう動かすだけだ。
アランは机の端の呼鈴を鳴らした。
その音で、ミュレットが小さく息を呑む。
嫌な予感がしている顔だった。
その勘は正しい。
ほどなくして、若い文官が入ってきた。
春になってから急にやつれたように見える男だ。
書類の束を抱えたまま、アランの顔を見て一瞬だけ青ざめる。
「殿下、お呼びでしょうか」
「人を集めろ」
「……どの件で」
「制度化だ」
「え」
「月二回、城下巡回を始める」
「……は?」
「孤児院、教会、病院を優先。対象選定は医務局と連携」
「……」
「護衛計画も引き直せ」
「……」
「王太子婚約者の外出としてではなく、筆頭医務官による公的巡回の形にする」
「……」
「今日中に叩き台を出せ」
文官は無言になった。
死地へ赴く兵のような顔で一礼する。
「……承知しました」
そのまま、ほとんど逃げるように出ていく。
だが、それで終わるわけがない。
次々と呼び込まれる文官。
医務局への使い。
近衛への通達。
対象基準の洗い出し。
経路の再設計。
教会と病院への連携案。
三国同盟の条文に抵触しない運用文面。
記録方法。
警備の見せ方。
王太子同行時の動線整理。
執務室は、みるみるうちに春の陽射しさえ飲み込む穴のようになっていった。
「護衛は近衛四名では足りないのでは」
「目立ちすぎる」
「では分散配置を」
「病院は?」
「院長に通達を」
「孤児院は公表しない方が」
「いや、制度の周知は必要だ」
「教会側の名義は」
「王城医務局と連名にしますか」
「いや、王太子府も入れろ」
「えっ」
「入れろ」
「は、はい……」
数刻後、執務室から出てきた文官たちは揃って朝よりやせていた。
ひとりなど、扉の外で壁へ手をついている。
「だ、大丈夫ですか……?」
と、ミュレットが思わず声をかける。
文官は力なく微笑んだ。
「殿下が……本気になられまして……」
「……」
「おめでとうございます、ミュレット様……制度が……生まれます……」
「……すみません」
「いえ……国のためですので……」
ふらふらと去っていく背を見て、ミュレットが申し訳なさそうな顔をする。
その横顔を見ながら、アランは内心で思う。
まだ始まってもいない。
本当に大変なのはこれからだ。
だが、形にしてしまえば守れる。
少なくとも、閉じ込めるよりはましだ。
執務室の奥では、まだ次の指示が続く。
「医務長を呼べ」
「はい」
「教会側の受け入れ記録も必要だ」
「承知しました」
「前例がないなら、いま作れ」
声は落ち着いている。
迷いはもうない。
ふと視線を感じて顔を上げると、ミュレットがこちらを見ていた。
その目には、驚きと、申し訳なさと、少しの安堵が入り混じっている。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
アランは書類へ視線を戻したまま答える。
「礼はまだ早い」
「……」
「無事に終わってからにしろ」
「はい」
「それと」
今度はきちんと彼女を見る。
「次からは、もう少し早く言え」
「……」
「言い出すまでの顔で分かる」
ミュレットが、少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
その顔を見て、アランはようやくわずかに肩の力を抜く。
春の陽は窓の外でやわらかい。
中庭の緑は日に日に濃くなっていく。
城下でもきっと、冬を越えた人々が新しい季節の気配を見上げているだろう。
ならば、もう道を作るしかない。
ミュレットの力を、奪われるものではなく。
密室の奇跡でもなく。
守られたまま、人を救う制度へ。
その始まりを、またこの“たちの悪い頑固者”が引きずり出したのだと思うと、やはり内心では少しだけ苦い。
同時に、それでいいとも思っていた。
彼女がそこまで言うのなら、止めるのではなく、守れる形へ変える。
それが自分の役目だ。
そして、これから先も何度でも、彼女は同じように言い出すのだろう。
行かねばならないのです、と。
アランはペンを取り直しながら、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
炎の中で失いかけた。
焼け跡で、もう二度と触れられないかもしれないと思った。
だからこそ、外へ出ると言われるたび、心配しないわけがない。
それでも。
隣に立つと決めたこの娘は、守られるだけでおとなしくしているような人間ではない。
そのこともまた、とうに知っていた。
「前例がないなら、いま作れ」
もう一度、執務室へ声が落ちる。
春の城は忙しい。
文官たちは大変そうだ。
だが、その慌ただしさの中に、もう新しい答えの形が見えていた。
ミュレットの願いは、ただの善意では終わらない。
いまここで、国の道として組み上げられようとしている。
その横で、ミュレットはそっと自分の指輪へ触れていた。
アランはそれを見て、声に出さず思う。
――無事に終わらせる。
――絶対にだ。
それが、願いを許した者の責任だった。




