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Episode 90. 祝福の夜



昼のあいだはやわらかかった陽射しも、日が落ちればまだ少しだけ冷える。

それでも冬のころとは違う。

王城の高窓から見える空気はもう凍りつくような青ではなく、どこか透き通ったやさしさを含んでいた。


その夜、王城の大広間には灯りが満ちていた。


天井近くへ吊るされた灯火が黄金色に揺れ、磨かれた床へその光を落としている。

春の晩餐会。

そして、王太子アランの婚約者が正式に披露される夜。


支度のために用意された部屋で、ミュレットは鏡の前に座っていた。


「少し上を向いてくださいませ」

「は、はい……」


年長の侍女が、最後の仕上げとばかりに髪の流れを整える。

肩までになった髪はやわらかく巻かれ、耳の形がきれいに見えるよう片側だけ少しだけ上げられていた。


その耳もとへ、若い侍女がそっと耳飾りをつける。


鏡の中で、小さな光が揺れた。


薄い金を帯びた石に、春の若葉を思わせる淡い緑がひと粒添えられている。

華やかすぎない。

けれど品よく光を集めて、顔立ちをやわらかく引き立てる。


「……リリナ殿下からのお品でございます」

侍女が微笑む。

「お似合いです」


ミュレットはそっと耳もとへ触れた。


春の茶会の日、

今度おすすめのものを送ってあげる、とリリナはたしかに言っていた。


まさか本当に、この日のために届けてくれるとは思わなかった。


「似合っていますか……?」

思わず小さく問うと、年長の侍女が迷いなく頷く。


「ええ。とても」

「……」

「今夜のミュレット様は、どなたがご覧になっても、殿下の隣に立つ方だとお分かりになります」


その言葉に、胸の奥が少しだけ強張った。


殿下の隣に立つ方。


それは、もう曖昧な未来の言葉ではない。

今夜、この城の大広間で、はっきりと公にされる。


ミュレットは鏡の中の自分を見る。


春の色を含んだ淡いドレス。

肩までの髪。

耳もとで揺れる、リリナからの贈り物。

そして左手の薬指には、アランから贈られた指輪が静かに光っていた。


母后の遺した、特別な輪。

華美ではないのに、そこにあるだけで不思議と目を引く。

灯りの角度が変わるたび、ひそやかな光が指先に宿って見えた。


どれも自分のものでありながら、どこかまだ夢の中のもののようにも見えた。


「……大丈夫でしょうか」

思わずこぼれる。


若い侍女が、少しだけ目を丸くしたあと、やわらかく笑った。


「はい」

「……」

「大丈夫でない方が、こんなふうにきれいに立てるものではございません」


その言い方が、少しだけ可笑しくて、ミュレットは緊張のなかで小さく笑った。


その時、扉の向こうに人の気配がした。


「殿下でございます」


空気が静かに変わる。


ミュレットは思わず背筋を伸ばした。

侍女たちが一礼して扉を開く。


入ってきたアランは、いつもの黒を基調とした正装だった。

飾り立てるための衣ではない。

けれどその立ち姿だけで、人を圧する静かな威がある。


ディルクが後ろに控えていたが、その顔にはどこか、ようやくここまで来たという安堵も見えた。


アランの視線が、まっすぐミュレットへ向く。


その一瞬で、部屋の空気が少しだけ止まったように思えた。


「……どうだ」


低い声だった。


何が、と聞かなくても分かる。

支度のことだ。

今夜、隣に立つ自分のことだ。


ミュレットは答えようとして、うまく言葉が出なかった。


そのかわり、アランがほんの少しだけ目を細める。


「よく似合っている」

「……ありがとうございます」


短い。

けれど、その一言だけで胸が熱くなる。


ふと、視線がアランの手元へ落ちた。


正装の袖口からのぞく左手。

その薬指には、あの夜、自分がはめた銀の輪があった。


華やかな装飾はない。

けれど、静かな銀の輪の内側には、たしかにミュレットの魔力が浸透している。

灯りを受けると、ごく淡く、雪明かりのような白が揺れるようにも見えた。


ミュレットの胸が、また小さく鳴る。


本当に、ある。

この人の指に。

自分が作った輪が。


侍女たちが静かに下がり、部屋に残るのはアランとディルク、そしてミュレットだけになった。


ディルクが咳払いをひとつする。


「殿下、そろそろお時間が」

「ああ」


だがアランは、すぐには動かなかった。

ミュレットの前まで歩み寄ると、ほんの少しだけ身を屈める。


「緊張しているか」

「……少しだけ」

「そうか」


そう言ってから、アランは一瞬だけ大広間へ続く扉のほうを見た。


「……いつも一人であそこに立っていた」

「……」

「王太子として、人の前に出る時はいつもそうだった」


ミュレットは目を瞬く。


アランはめずらしく、自分からそういうことを口にした。


「だが」

落ち着いた声が続く。

「今日からは、ミュレットがそばにいる」


その言葉とともに、アランの口元がほんの少しだけ上がった。


大きく笑うのではない。

ただ、隠しきれない喜びがそこへ滲んだような、静かな笑みだった。


その表情を見た瞬間、ミュレットの胸の中で張りつめていたものが、すっと別の形へ変わる。


怖さが消えたわけではない。

けれど、足元が定まる。


この人は、嬉しいのだ。

自分が隣に立つことを。

自分がそばにいることを。


それなら、怯えて俯いているわけにはいかない。


ミュレットは小さく息を吸い、背筋を伸ばした。


「……はい……おそばで、アラン様をお守りします」


今度は、はっきりと答える。


アランの目が、わずかにやわらいだ。


「行こう」

「はい」


差し出された手を、ミュレットはそっと取った。


指先が触れ合った瞬間、互いの左手の薬指にある輪が、灯りの下で並ぶ。

母后の遺した指輪と、ミュレットが作った指輪。

別々のかたちをしていながら、同じ場所で静かに光っていた。


大広間の扉が開かれる。


ざわめきが満ちていた空間が、先に入った近衛の動きで少しずつ整っていく。

貴族たちの視線が入口へ集まる。

王太子アランが現れる。

その隣に、ひとりの女性が立っていると気づいた瞬間、広間の空気がはっきりと変わった。


ミュレットは歩いた。


一歩ずつ。

逃げずに。

俯かずに。


春の色を含んだドレスの裾が、灯りを受けて静かに揺れる。

耳もとではリリナの贈り物が小さく光った。

左手の薬指には、もう隠さない指輪がある。


そして隣を歩くアランの左手にも、銀の輪がたしかにあった。

それは大仰に目立つものではない。

だが近くで見ればはっきりと分かる。

王太子の手にもまた、婚約の印があるのだと。


ざわめきは大きい。

けれど、不思議と怖くはなかった。


ミュレットは自分に自信がある人間ではない。

足りないものばかりが先に見える。

王太子の隣に立つには相応しくないのではないかと、何度も思ってきた。


だがそれでも、失うことを知っている。

怯えることを知っている。

居場所がない痛みも、声を飲み込む苦しさも知っている。

それでも誰かを守りたいと思ってしまうことも知っている。


王の隣に立つ者に必要なのが、ただ華やかさだけではないのなら――

自分はもう、立てるはずだ。


その歩みが、いつしか自然と凛としていた。


広間の最前へ進み、二人は立ち止まる。


春の晩餐会は、すでに開かれていた。

だが今、場の中心は完全にアランとミュレットへ移っている。


アランが一歩前へ出た。


声は大きくない。

それでも、大広間の隅までまっすぐ届く声だった。


「本日ここに、ミュレットを我が婚約者として正式に示す」


空気が静まる。


「彼女は守られるためだけにこの場へ立つのではなく」

「……」

「自らの意思で、私とともにクレスティアの未来を担う者です」


その言葉に、ミュレットの胸が強く鳴った。


守られるためだけではない。

皆の前で、アランがそう言った。


ずっと自分の中で願ってきたことを、こんなふうに公の場で言葉にしてもらえる日が来るなんて、少し前まで思いもしなかった。


アランはわずかに身を引き、ミュレットへ目を向けた。


求められているのだと、すぐに分かった。


ミュレットは一歩前へ出る。


緊張で喉が少しだけ乾いている。

けれど逃げたくはなかった。


「未熟ではございますが」


最初の一声は、少しだけ掠れた。

それでも、止まらない。


「この国のために」

「……」

「そして、殿下の隣に立つ者として恥じぬよう、努めてまいります」


言い終える。


ほんの一瞬の沈黙のあと、広間の空気がやわらいだ。


大仰ではない。

けれど、受け入れられたのだと分かるざわめきだった。


視線の質が変わっている。

ただ可哀想な境遇の娘を見る目ではなく、

ただ美しい婚約者を見る目でもなく、

ここへ立つだけの覚悟を持つ人間を見る目へと。


そして、その視線のいくつかは、二人の左手にも落ちていた。

ミュレットの指輪だけではない。

アランの薬指にも、きちんと輪がある。

その事実が、この場の意味をいっそう確かなものにしているようだった。


少し離れた場所で、セレスティアが口元を押さえているのが見えた。

泣きそうなのを堪えている顔だった。

ディルクは静かに目を伏せ、深く息をついている。

安堵しているのだろう。


そして、客席側ではリリナが腕を組んだまま、じっとミュレットを見ていた。


視線が合う。


リリナはほんの少しだけ顎を上げる。

その耳もとで、ミュレットの揺れる飾りが灯りを返したのを見て、口元に満足そうな笑みが浮かぶ。


ちゃんと似合ってるじゃない。


声にはならないその顔が、そう言っていた。


グレンもまた、穏やかな表情で杯を上げている。

どこか少しだけ名残惜しそうな、それでもきちんと祝福する顔だった。


晩餐会が進む。


乾杯があり、祝辞があり、音楽が流れる。

アランの隣に立つたび、ミュレットは少しずつ自分の呼吸を取り戻していった。


会場の熱気の中でも、アランは必要以上に言葉を飾らなかった。

けれど誰かを紹介する時、杯を受け取る時、さりげなくミュレットへ視線を戻す。

そのたびに、自分がきちんと隣にあるのだと分かる。


時おり、彼の左手が目に入る。

その薬指には、自分の手でつけた輪がある。


それだけで、胸の奥がふいに満たされた。

今夜この場で婚約が示されているのは、自分だけではない。

アランもまた、同じ印を身につけている。

そう思うだけで、足元がひどくあたたかかった。


その夜の終わりは、思っていたよりずっと穏やかに訪れた。


人々が引き、広間の灯りも少しずつ落ち着きを取り戻す。

ようやく公の役目を終えたころには、ミュレットの足にも肩にも、じんわりと疲れが残っていた。


まずミュレットは、新しくあてがわれた自室へ戻された。


侍女たちが手際よくドレスの留め具を外していく。

背中を締めていた紐がほどかれ、重みのある生地が身体から離れていくたび、ようやく長い夜が終わったのだと実感した。


「お疲れでございましょう」

「……少しだけ、ほっとしています」

「今夜はとてもお美しゅうございました」


耳飾りが外され、卓の上の小皿へそっと置かれる。

左手の薬指の指輪だけは、そのままだ。


その輪を外したくないと思った。

今夜、皆の前で示されたものの名残が、まだ指先にある気がしたからだ。


用意された湯はあたたかく、肌に触れた瞬間、張りつめていたものがじわりとほどけた。

香草をわずかに含んだ湯気が立ちのぼり、身体だけでなく心までほどいていくようだった。


湯浴みを終え、やわらかな夜着へ着替える。

肩の力が抜け、ようやく深く息がつけるようになる。


一方その頃、隣の私室ではアランもまた、侍従の手で正装を解いていた。


肩を覆っていた重い外套が外される。

固く留められていた襟元がほどかれ、礼装の緊張が少しずつ日常へ戻っていく。

公の場では一分の隙も見せなかった王太子も、夜着へ着替えた頃にはようやく人ひとりぶんの静かな熱を取り戻していた。


左手の薬指には、なお銀の輪が残っている。

夜着に変わっても外されなかったその輪を、侍従は何も言わずに見守った。


ミュレットが髪を整え終えた頃、扉が静かに叩かれる。


「……はい」


侍女が開けると、そこに立っていたのはアランだった。

もう公の正装ではない。

夜着の上に軽く羽織っただけの姿が、かえって今夜の終わりを感じさせる。


侍女たちは一礼し、気を利かせるように静かに下がっていった。


部屋に二人きりになる。


アランはミュレットを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。

夜着姿のミュレットは、さっきまで大広間で注目を集めていた婚約者ではなく、ただ彼の前でだけ肩の力を抜いた一人の少女に見える。


アランは近づくと、そっと額へ口づけを落とした。


やわらかく、短い、労うような口づけだった。


「今夜は一緒に眠りたい」


低い声が、そのまま落ちる。


ミュレットは目を瞬く。


「え……」


はいとも、いいえとも言う前に、アランはその手を取っていた。


「アラン様」

「来い」

「ま、待って……」


言葉は途中で途切れる。


半ば当然のように手を引かれて、ミュレットはそのまま中扉を抜け、アランの寝室へ連れていかれた。


「アラン様……っ」

「何だ」

「何だ、では……」

「嫌か」


問う声は静かだった。

けれど、手は少しも放さない。


ミュレットは答えに詰まり、そのまま小さく首を振るしかなかった。


アランの寝室もまた、静かな暖かさに満ちていた。

灯りは絞られ、寝台にはもう整えられた布団がある。

厚すぎない掛け布が春の夜気にちょうどいい。


ふたりで並んで横になる。


寝台が少しだけ沈み、布が擦れる音がする。

それだけのことなのに、妙に胸が騒いだ。


アランが天井を見たまま、低く言う。


「あの時以来だ」


ミュレットは目を瞬く。


思い返せばすぐに分かった。

ふたりの想いが、はじめて通じ合ったあの日。

互いに惹かれていることはもう隠しようがなかったのに、まだ何ひとつ明言されていなかった夜。


あの頃はまだ、ミュレットは自分の秘密を打ち明けていなかった。

アランもまた、どこまで求めていいのか、どこまで触れていいのかを探るようにしていた。


今は違う。


秘密はもうない。

隠し事も、曖昧な距離もない。


ミュレットはそっと身を寄せ、アランの胸元へ潜り込んだ。

その体温は、春の夜でも驚くほどあたたかい。


アランの腕が自然に背へまわる。


その動きに合わせて、二人の左手が布の上でふれあった。

ミュレットの指には母后の指輪。

アランの指にはミュレットが作った指輪。

触れ合うたび、異なる輪の感触がたしかにそこにある。


「……明日も、寝ぼけて口づけをしてくれるのか?」


低い声が、少しだけからかうように落ちた。


冬の蜜月以来、アランは時おりこんなふうに、ミュレットを少しだけ困らせる言い方をするようになっていた。

以前なら考えられなかった変化だ。


ミュレットは頬を熱くする。


「……もう、夢だなんて思いません」

「……」

「婚約者……ですから」


照れている。

それなのに、その微笑みには少しの曇りもなかった。


それを見た瞬間、アランの胸の奥へ、ようやくここまで来たのだという実感が深く沁みた。


彼はミュレットの肩へそっと手を添え、やわらかく押して顔を上げさせる。

枕元で、互いの顔が近づく。


「あいしている」


その言葉は、もう何度目か分からない。

それでも、言うたびに少しも軽くならない。


ミュレットの瞳が、やわらかく揺れる。


次の瞬間、アランはその唇へ口づけた。


静かに触れて、離れ、また触れる。

指先はミュレットの左手へ伸び、薬指に光る指輪をたしかめるように絡む。

そのまま、ゆっくりと指を組み合わせる。


なんども。


一度きりでは足りないとでもいうように。

やっと手に入れたものを、今度こそ確かめ直すように。


ミュレットは目を閉じ、絡められた指にそっと力を返した。


やわらかな口づけのあいだにも、指輪の感触だけは、はっきりとそこにある。

ミュレットの指の輪と、アランの指の輪。

互いの左手にある印が、ふれあうたびに、夢ではないのだと教えてくれる。


唇が離れたあとも、距離は近いままだった。


アランは絡めた指をほどかず、低く言う。


「今夜、皆の前で言えた」

「……」

「やっと、ミュレットを俺だけのものだと示せた」


その言葉に、ミュレットの胸がまた大きく鳴る。


独占欲を隠そうとしない言い方だった。

なのに苦しくはない。

それほどまでに、アランの喜びがまっすぐだったからだ。


ミュレットは少しだけ目を伏せ、それから小さく笑った。


「……そんなふうに言われると、少し恥ずかしいです」

「恥ずかしいのか」

「……はい」

「俺は嬉しい」


あまりにも真顔で返されて、ミュレットはもう何も言えなくなる。


そのかわり、胸元へもう少しだけ顔を埋めた。

アランの腕が、静かにその背を包む。


春の夜はまだ少しだけ冷える。

けれど寝台の中はあたたかく、二人のあいだにはもう言い残したことはなかった。


公の場で示されたものは、もう覆らない。

それでも、この寝室で交わされる言葉のほうが、ミュレットにはずっと深く沁みた。


王太子と、その婚約者。

クレスティアの未来を担う者たち。

そういう名の前に、まず自分たちは、互いを選び合った二人なのだと。


ミュレットはそっと、アランの胸元へ頬を寄せた。


その視界の端で、重ねた左手が見える。

自分の指輪と、アランの指輪。

別々の輪が、同じ夜の中で寄り添っていた。


「……おやすみなさい」

「ああ」

アランの声は低く、やわらかい。

「おやすみ、ミュレット」


春の夜は静かだった。

寝台の上には、祝福の余韻と、たしかなぬくもりだけが残っている。


やっとここまで来た。


その実感を胸に抱いたまま、ふたりは同じ眠りの中へ静かに落ちていった。



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