Episode 08. 晩餐の客人
夕刻、灯りのともった王城は、昼間とは別の顔を見せていた。
高い天井から吊るされた燭台の火が、磨き上げられた床と銀器の表面にやわらかく映り込む。
衣擦れの音、控えめに交わされる挨拶、遠くから流れてくる弦の調べ。
朝の慌ただしさは、そのまま夜の華やぎへと姿を変え、城そのものがひとつの舞台のように息づいていた。
ミュレットは会場の端に立ち、小さく息を整えた。
支度部屋で鏡越しに見た自分は、今もまだどこか見慣れない。
結い上げられた髪も、普段は着ない落ち着いた色のドレスも、他人のもののようで落ち着かなかった。
それでも今夜の役目は、あくまで案内と補助だ。
庭へ出たい客がいれば導き、侍女たちの手が足りないところをさりげなく埋める。
目立たぬように、邪魔にならぬように。
静かに、できることだけを果たせばいい。
そう言い聞かせているのに、会場へ足を踏み入れた時から、いつもより人の視線が肌に触れる気がしていた。
通りすがる侍女が、ちらりとこちらを見る。
給仕の若い騎士が一瞬だけ目を留め、すぐにそらす。
聞こえないふりをしていても、小さな囁きがまったく耳に入らないわけではなかった。
「朝のお方でしょう」
「やはりお綺麗だったのね」
「殿下がわざわざお声を――」
もう、広まっている。
思わず肩が縮こまる。
少し離れた場所で客席と回廊の両方に目を配っていたセレスティアが、それに気づいて片眉を上げた。
その顔には、はっきりと書いてある。
だから言ったのに、と。
ミュレットは見なかったことにして、静かに会場の端を歩いた。
セレスティアは今夜、さりげなくミュレットの近くに控える役目になっていた。
護衛と分かるほど露骨ではないが、離れすぎもしない。
朝、ディルクから直々に指示を受けたと、不審そうに言っていたのを思い出す。
「直々なんて珍しいわ」
「どうしてかしら」
「私が知りたいくらいよ」
そう肩をすくめていたセレスティアは、結局それ以上追及せず、いつも通りの顔でミュレットの隣に立った。
けれど、視線の鋭さだけはいつもより少し強かった。
今は大皿を下げた侍女の手が足りず、空いた食器をまとめて裏手へ回すところだった。
案内役とはいえ、こういう場では少し手が足りないところへ自然に入るほうがミュレットには落ち着く。
そのほうが考えなくて済むし、余計な視線からも少しだけ逃れられる気がした。
銀の盆に小皿をいくつか載せ、会場脇の回廊へ出る。
ひとまず控えの卓へ置いて戻ろうとした、そのときだった。
「失礼」
やわらかな声に、ミュレットは足を止めた。
振り返ると、ひとりの青年が立っていた。
海を思わせる明るい色の装いが、王城の落ち着いた華やぎの中でも不思議によく映える。
華美すぎないのに人目を引き、王族らしい品をまといながら、近寄りがたさより先に人懐こさが目につく。
そんな青年だった。
「この城は回廊がよく似ているね」
困ったように微笑みながら、彼は周囲を見やる。
「少し歩きすぎたらしい。会場へ戻る道を違えたようだ」
近くに侍女がいれば任せたかったが、このあたりには今、誰もいない。
ミュレットは盆を持ち直し、小さく息を整えた。
「会場へ、ですか」
「うん。もし手が離せるなら、教えてもらえると助かる」
「でしたら、ご案内いたします」
「ありがとう」
並んで歩き出してから、その青年はふと足をゆるめた。
「名乗るのが遅れた。サンダレイン第一王子、グレンだ」
ミュレットは目を見開いた。
慌てて一歩下がり、深く頭を下げる。
「し、失礼いたしました。存じ上げず……」
「いや、こちらが勝手に引き止めただけだ。気にしないでほしい」
咎める色はない。
それどころか、相手をいたずらに緊張させまいとする、やわらかな声音だった。
それでも、他国の第一王子であることに変わりはない。
ミュレットは背筋を伸ばし、慎重に歩を進める。
会場へ戻る回廊は、先ほどまでの喧騒から少しだけ離れていた。
壁際には花器が置かれ、足元の灯りがやわらかく石床を照らしている。
「忙しそうだね」
グレン王子が、ミュレットの持つ盆へ目をやった。
「案内役だけではなさそうだ」
「手の足りないところを、お手伝いしているだけです」
「そういう人が、いちばんよく働いているものだよ」
軽い口調なのに、妙に見透かされている気がして、ミュレットは返事に困った。
やがて、会場へつながる広い回廊が見えてくる。
この先なら、さすがに分かるだろう。
ミュレットは足を止めた。
「ここからでしたら、お分かりになるかと思います」
「ああ――」
グレン王子も立ち止まる。
そのまま礼を言って別れるのだと思った。
けれど彼はすぐには歩き出さず、回廊脇に飾られた花器へ視線を向けた。
「きれいだな」
「……はい」
「でも、こうして並ぶと不思議だ。どれも同じように整えられているのに、なぜかひとつだけ目に残る花がある」
ミュレットは目を瞬いた。
グレン王子は花器を見たまま、穏やかに続ける。
「派手だからでも、大きいからでもない。けれど、後になって思い出すのは決まってそういう花だろう?」
その言葉に、ミュレットの脳裏にはすぐ、あの名のない花が浮かんだ。
庭の端にひっそりと咲く、小さな花。
「……あります」
「やっぱり」
グレン王子は少しだけ笑った。
「君は、自分が目立たないと思っているだろう?」
「そんなこと……」
「目立たないようにしているのは分かる。でも、それと目に留まらないことは別だよ」
ミュレットは言葉に詰まった。
昨日、アランに言われたことが胸の奥によみがえる。
端に控えていれば済む相手ばかりではない。
まるで別の誰かの口を借りて、同じところを静かに突かれたようだった。
「私は、そのような者では……」
「自覚がないなら、なおさら厄介だ」
やわらかな声音のまま、グレン王子は言う。
からかっているようでいて、その目は不思議と真面目だった。
「隠そうとしても残るものは残る。選んだものや、手をかけた跡や、ふとしたときの目線とかね」
「……」
「さっきから、君は人より先に花を見ている」
そのひとことに、ミュレットの指先へわずかに力が入った。
盆の上の皿が、小さく触れ合って音を立てる。
「……会場は、あちらです」
ようやくそれだけを口にすると、グレン王子は小さく肩をすくめた。
「そうだった。引き止めてすまない」
「いえ」
「案内してくれてありがとう」
そこで終わるかと思ったが、彼はもう一度だけミュレットを見る。
「君の名を聞いても?」
「……ミュレットです」
「ミュレット」
確かめるようにその名を口にし、グレン王子はやわらかく笑った。
「覚えておくよ」
まっすぐな返答だった。
軽い声音なのに、妙に真っすぐで、ミュレットは返す言葉を失う。
「では、私はこれで」
そう言って会釈すると、グレン王子もそれ以上は引き止めなかった。
「またどこかで」
ひらりと手を上げ、彼は会場のほうへ歩いていく。
呼び止める理由もなく、ミュレットはその背を見送るしかなかった。
姿が見えなくなってから、ようやく胸の奥に詰まっていた息をそっと吐き出す。
他国の王子と、あんなふうに言葉を交わしてしまった。
しかも、自分の名まで覚えると言われた。
「……緊張した」
小さくこぼした独り言は、回廊の静けさにすぐ溶けた。
「へえ」
背後から声がして、ミュレットは飛び上がりそうになる。
振り返ると、柱の陰にもたれていたセレスティアが、じろりとこちらを見ていた。
腕を組み、いかにも面白くなさそうな顔をしている。
「セ、セレスティア……!?」
「見たわよ」
「ち、違うの。道が分からないとおっしゃって」
「でしょうね」
「本当にそれだけで」
「それだけで名前まで聞かれたの?」
痛いところを突かれ、ミュレットは言葉を失った。
セレスティアは深々とため息をつく。
「だから言ったのよ。今日は気をつけなさいって」
「気をつけるって、そういう意味では――」
「そういう意味でもあるの」
きっぱり言われてしまい、ミュレットは視線を泳がせた。
「で、何を話したの」
「少し……花のことを」
「花」
「たくさん並んでいても、なぜか目に残る花がある、って……」
「……なるほど」
セレスティアは一度だけ目を伏せ、それからミュレットを見た。
「責めてるわけじゃないのよ」
「……」
「でも、ミュレットはこういうのに慣れてない。相手が悪い人じゃないほど、どこで線を引くか分からなくなるでしょ」
「それは……」
「でしょ」
ミュレットは小さく黙り込む。
セレスティアは少しだけ声を和らげた。
「いい、ミュレット。感じのいい相手に悪気がないことと、こっちが気をつけなくていいことは別」
「……うん」
「今夜は特に、相手が誰でも一人で抱え込まない。困ったら私を見る」
「そこまで大げさじゃ……」
「大げさでいいの。そうしろって言われてるし、私もそのほうがいいと思ってる」
ディルクの指示を思い出したのか、最後の一言は少しだけ低かった。
「でも、案内役だもの」
「案内くらい私でも侍女でもできるでしょ」
「……」
「返事は?」
「……気をつける」
「よろしい」
そう言って、セレスティアはミュレットの持っていた盆をひょいと取り上げた。
「これは私が戻す。あなたは一度、深呼吸してから戻ってきなさい」
「え、でも」
「顔がまだ赤い」
「赤くなんて」
「赤い」
言い返せないまま、ミュレットは唇を閉じた。
セレスティアはそんな彼女をひとつ睨んでから、少しだけ口元をゆるめる。
「大丈夫。あなたが悪いわけじゃない」
「……」
「でも、放っておくと自分で全部抱え込むでしょ」
「……少しは」
「少しじゃないわね」
その言い方が妙にまっすぐで、ミュレットはわずかに苦笑した。
「ちゃんと戻るから」
「ええ。待ってる」
セレスティアはそう言って踵を返す。
その背中を見送りながら、ミュレットは胸元に手を当てた。
まだ、鼓動が少し早い。
グレン王子の言葉のせいなのか。
それとも、その言葉が昨日のアランの声を思い出させたせいなのか。
自分でも分からないまま、ミュレットはそっと息をつく。
会場のほうからは、晩餐会の華やかなざわめきが絶え間なく流れてくる。
整えられた庭も、灯りの向こうで静かに客人たちを迎えているのだろう。
名のない花が、今夜もどこかでひっそりと揺れている。
けれどミュレットは、まだ知らない。
この夜の小さなやりとりが、
一週間後、思いもよらぬかたちで
静かな日々を揺らすことになるのを。




