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Episode 07. 見つかる花



晩餐会の朝、王城はいつにも増して慌ただしかった。


広い回廊を侍女たちが忙しなく行き交い、騎士たちは持ち場の確認に追われている。

銀器を運ぶ者、花器を抱える者、厨房へ急ぐ者。

いつもは張りつめた静けさを保つ城の中が、今日は朝から人の気配で満ちていた。


そんな中を、ミュレットは庭の最終確認へ向かっていた。

手には控え札と小さな手帳、指先には薄手の手袋。

昨夜、距離を取ろうと決めたはずなのに、胸の奥は妙に落ち着かないままだった。


端に控えていれば済む相手ばかりではない。


アランが残したあの言葉が、朝になっても胸の底に引っかかったまま離れない。


回廊を曲がったところで、柱のそばにひとりの女騎士が立っているのが見えた。

背筋をすっと伸ばし、無駄のない身のこなしで周囲を見ている。

ミュレットに気づくと、その女騎士は片手を上げた。


「やっと来た」

「セレスティア?」


快活で歯切れがよく、細かなことはあまり気にしないくせに、面倒見だけは妙によい。

庭でも医務室への行き帰りでも、気がつけば何かと声をかけてくれる相手だった。


今日はいつもより剣帯をきちんと締め、騎士としての気配が少し強い。


「どうしたの?」

「どうしたも何も、今日からしばらく、ミュレットの近くにいろって」

「……え?」

「ディルク様の指示」


ミュレットは目を瞬いた。


「ディルク様が?」

「そう。直々なんて珍しいわ」


セレスティアはそう言って、少しだけ眉を寄せた。

快活な口調のままではあるが、どこか訝しむような響きがある。


「城内の警備や持ち場の指示はいつもあるけど、わざわざ個人を名指しして“離れすぎるな”なんて、そうそうないのよ」

「私に……?」

「そう、あなたに」


セレスティアは肩をすくめた。


「護衛ってほど仰々しくするな、でも近くにいろ、目立たせるな、無理をさせるな――って」

「無理を……」

「そこまで細かく言われると、さすがに何かあるのかと思うでしょ」


ミュレットは返事に詰まった。


何かある、とは思えない。

思えないのに、昨夜のアランの言葉が脳裏をよぎる。


明日は他国の客も入る。庭も人で埋まるだろう。

無理はするな。

具合が悪ければ、すぐ下がれ。


「私、何かしてしまったかしら」

「それはないんじゃない?」

「でも、こんなふうに騎士がつくなんて」

「晩餐会だもの。変な客がいてもおかしくないし、若い王族も来るし」


さらりと言われて、ミュレットの肩がぴくりと揺れた。


「若い王族……」

「そ。だからディルク様が気にしたのか、それとも別の理由があるのかは知らないけど」


そこでセレスティアは、じっとミュレットの顔を覗き込んだ。


「ま、私は命令通りに動くだけ」

「……そう」

「嫌?」

「嫌というより、落ち着かないわ」

「それは分かる」


そう言ってから、セレスティアはふっと口元を緩めた。


「でもまあ、私でよかったでしょ」

「それは……そうね」

「でしょ」


少しだけ気持ちがほどけて、ミュレットは小さく笑った。


「やっと今日ね、ミュレット」

「そうね。皆さまに気持ちよく過ごしていただけるといいのだけれど」

「大丈夫よ。あなた、ここしばらくずっと庭ばっかり見てたじゃない」

「見なければ落ち着かなくて」

「分かるけど。そこまでやるなら、もう少し自信持ちなさいよ」


ミュレットは困ったように笑った。


「自信なんて、そんな……」

「あの鉄仮面のアラン様が認めたんだもの。十分でしょ」

「……そうかな」

「そうよ。殿下は庭の話になると少しだけ言葉が増えるんだから」


その言葉に、胸の奥がひそかに揺れる。

だがミュレットは、それを押し隠すように視線を落とした。


昨日、庭で交わした言葉がまだ残っている。


名がなくとも、咲いていれば人は見る。

端に控えていれば済む相手ばかりではない。


何を言いたかったのか分からないまま、意味だけが胸に刺さって抜けない。

あれこれ考えかけた、そのときだった。


回廊の向こうから、靴音が響いた。


ただそれだけで、ざわめいていた空気がぴたりと止まる。


侍女たちは反射のように壁際へ寄り、騎士たちは足を止める。

広い廊下にいた者たちが、見えない波に押されるように左右へ分かれ、中央に道が開いた。

誰もが頭を下げる。


アランが通るとき、王城ではいつもこうなる。


命じられたわけではない。

けれど誰もが自然とそうしてしまうのだ。

王太子だからというだけではない。

強すぎる力を持ち、戦場でも王城でも中心に立ち続けるあの人を前にすると、皆、自分から一歩退く。


ミュレットもセレスティアとともに柱のそばへ寄り、見えすぎない位置でそっと頭を下げた。


靴音が近づいてくる。

そのまま目の前を通り過ぎていく――そう思った、次の瞬間だった。


靴音が、止まる。


視界の端に、磨き上げられた黒い靴が見えた。

心臓がひとつ、大きく跳ねる。


「おはよう」


低い声が落ちた。


ミュレットは、ぽかんとした。

今、何が起きたのか分からない。


おそるおそる顔を上げると、そこにはアランがいた。

相変わらず端正で、冷ややかで、感情の読めない顔。

けれど、その視線は確かにミュレットへ向いている。


今、私に?


後ろを見る。

壁だ。

右を見る。

セレスティアが目を見開いている。

左を見ても、もちろん誰もいない。


「ミュレット」


名前を呼ばれて、びくりと肩が揺れた。


「は、はいっ」

「具合は」

「だ、大丈夫です」

「そうか」


短い。

あまりにも短い。


それなのに、周囲の空気は完全に固まっていた。


アランはそれだけで去っていくのかと思われた。

だが一歩踏み出したあと、ほんのわずかに足を止める。


その視線が、庭のほうへ向かうミュレットの手元をかすめた。

花の確認に持っていた控え札と布手袋を見たのだと分かる。


「無理はするな」


低く残して、アランは今度こそ歩き去っていく。

開かれた道の中央を、静かに、絶対の気配をまとったまま。


誰も顔を上げない。

誰もその場では声を出さない。

けれど、空気だけが大きくざわついていた。


アランの姿が見えなくなった途端、回廊のあちこちから押し殺した息が漏れる。


「……今」

「え、今の」

「お声を……?」

「名前で?」

「体調まで……?」


ミュレットは立ち尽くしたまま、熱くなった頬をどうしてよいか分からなかった。

頭の中が真っ白で、今のやりとりをうまく思い返すことすらできない。


セレスティアが、ゆっくりと顔を寄せてくる。


「ミュレット」

「な、なに」

「いまの、何?」

「わ、私が聞きたいわ……」


その返事が合図になったように、近くにいた侍女たちまで集まってきた。


「ミュレット様、今、殿下がお声をかけませんでした?」

「しかもお名前で」

「いつからですの?」

「どういうことですの?」


「してない、何もしてないから……!」


両手を振って否定しても、誰ひとり信じてくれない。

セレスティアは腕を組み、妙に納得した顔で頷いた。


「……なるほどね」

「え?」

「今朝のディルク様の指示、これか」

「これって何よ……」

「やっぱり普通じゃなかったのよ。直々に、あなたの近くを離れるななんて」


その一言に、ミュレットの鼓動がまた変に跳ねた。


「違うわ、きっと晩餐会だから……」

「もちろん表向きはそうでしょうね」

「表向きって」

「さあ?」


わざとらしく肩をすくめるセレスティアの横で、侍女たちはすっかり興奮している。


「これはもう広まりますわ」

「もう広まってます」

「今見ていた人、すごく多かったですもの」

「やめて……」

「無理です」


たぶん、もう遅い。

ミュレットにもそれは分かっていた。


ただでさえ、この城でアランが自分から足を止めることなどほとんどない。

まして、公の回廊で、わざわざ声をかけるなど。


しかも――名前で。


「……どうして」


ぽつりと漏れた独り言に、セレスティアが片眉を上げた。


「それは私も聞きたい」

「違うの、そうじゃなくて……どうして、よりによってあんなところで……」

「そりゃあ見つけたからでしょ」

「見つけた、って」

「見つけたから足を止めたのよ。あのアラン様が」


さらりと言われて、胸がひどく落ち着かなくなる。


見つけたから。


それだけのはずなのに、その言葉は妙に深く刺さった。

昨日の夕方に言われたことまで思い出してしまう。


端に控えていれば済む相手ばかりではない。


その意味が、ほんの少しだけ輪郭を帯びた気がした。

けれど考えきる前に、セレスティアがぱんと手を打った。


「はい、ぼんやりしてる暇ないわよ。庭を見て、そのあとあなたは確保される」

「確保?」

「晩餐会の支度よ」

「案内役なのだから、そこまででは――」

「甘い」


きっぱりと言い切られ、ミュレットは言葉を失う。


「今朝のあれを見た侍女たちが、放っておくと思う?」

「……」

「思わないでしょ?」

「……思わない」


その予感は、見事に当たった。


庭の最終確認を終え、昼を過ぎるころには、ミュレットは侍女たちに捕まり、晩餐会の支度部屋へと引きずり込まれていた。


「案内役とはいえ、今夜は客前に出るのですから」

「それなりのお支度をしていただかないと」

「逃がしませんよ、ミュレット様」


「逃げません……」


半ば呆れながら椅子に座らされ、髪を整えられ、淡い色のドレスをあてられる。

普段の薬草園や医務室では決して着ないような、柔らかく上質な布地が肌をすべる感覚に、ミュレットは終始そわそわしていた。


鏡の前に座らされたまま、侍女たちの手が忙しなく動く。


髪が結い上げられていく。

いつもは下ろしている髪が丁寧にまとめられ、耳元には控えめな飾りが添えられた。

薄く色を足されるだけで、鏡の中の自分が少しずつ別人のようになっていく。


部屋の隅にはセレスティアが立っていた。

壁にもたれるでもなく、だが空気を乱しもしない位置で、静かに周囲を見ている。

護衛と分かるほど露骨ではない。

それでも、今朝の指示を忘れていないことは、その視線の配り方で十分伝わった。


「本当におとなしくしていてくださいね」

「しているつもりなのだけれど」

「足りません」

「足りないの……?」

「足りません」


間髪入れない返答に、部屋の中で小さく笑いが起こる。


セレスティアまで腕を組んで頷いていた。


「だから言ったでしょ。今日は確保されるって」

「……セレスティア、助ける気がないわね」

「あるわよ。だから見張ってるの」

「見張る……」

「そこはほら、ディルク様直々だし」

「まだ気にしているの」

「そりゃ気にするわよ。あの人、ああ見えて無駄がないもの」


やがて最後の飾りまで整え終わると、部屋の中がしんと静まった。


「……できました」


その声に促されて鏡を見る。

そしてミュレットは、思わず息を呑んだ。


派手ではない。

華美でもない。

けれど、伯爵令嬢として育てられてきた娘の美しさは、きちんと手をかければ隠しようがなかった。


淡くやわらかな顔立ち。

結い上げた髪により、普段は目立たない首筋やうなじがすっきりと映える。

落ち着いた色合いのドレスが、かえってその静かな美しさを引き立てていた。


最初に口を開いたのは、やはりセレスティアだった。


「……待って」

「え、なに」

「これ、危ないわ」

「何が?」

「各国の王子が寄ってくる」

「えっ?」

「絶対ある」

「ないから!」


即座に否定したのに、侍女たちは誰ひとり否定してくれなかった。


「ありますね」

「あります」

「むしろ、ないと思っておられるのですか?」

「そんな……」


じり、と嫌な汗が背を伝う。


セレスティアは冗談半分、本気半分の顔で言った。


「本当に、今日はなるべく近くにいるから」

「セレスティア……」

「何よ、その顔。自分がどれだけ危なっかしいか分かってないでしょ」

「危なっかしいって……」

「断るのが苦手で、押されると弱いところとか」

「う……」


否定できなくて、ミュレットは視線を逸らした。


ふいに、昨日のアランの声が胸の奥によみがえる。


端に控えていれば済む相手ばかりではない。


あれは、本当にただの注意だったのだろうか。

それとも――


そこまで考えかけて、ミュレットは小さく首を振った。


だめだ。

余計な意味を探してはいけない。


あの人はただ、王として必要なことを言っただけだ。

そうでなければ困る。

そうでなければ、また期待してしまう。


けれど、鏡の中で少しだけ見慣れない自分を見つめていると、どうしても落ち着かなかった。


今夜、自分は本当に端に控えていられるのだろうか。


その不安のすぐ隣で、別の予感が小さく揺れている。

もう、昨日までと同じではいられないのかもしれないという、言葉にならない気配。


ミュレットは誰にも気づかれぬよう、そっと指先を握りしめた。



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