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Episode 06. 戦器の孤独



その男が戦場に立つだけで、空気が変わる。


北の山脈を越えて吹き下ろす風は鋭く、冬の名残を色濃く残していた。

クレスティアの北は高く険しい山々に守られている。冬になれば深い雪が国を閉ざすように積もり、人の営みすら拒むほど厳しい景色をつくる。だが春を迎えれば、その雪は清らかな水となって山肌を下り、国に豊かな恵みをもたらした。


その山裾の戦地で、帝国兵が幾重にも結界を張り巡らせていた。


砕けた岩壁。

凍てついた地面。

立ちこめる術の残滓。


クレスティアの騎士たちは踏みとどまっていたが、前線は膠着していた。

敵の結界は強固で、無理に押し込めばこちらの損耗が増える。

一歩を誤れば、勝利の代償は大きくなる――そんな息の詰まる均衡だった。


その均衡を、ひとりで壊したのがアランだった。


次の瞬間までそこにいたはずの姿が、ふっと消える。


転移。


誰かがそう認識するよりも早く、彼はすでに敵陣の最奥に立っていた。

振るわれた剣が、目には見えぬ一線となって空間ごと結界を裂く。


幾重にも重ねられていた防壁が、何の抵抗もできぬまま断たれた。


結界が裂けた瞬間、前線にいた騎士たちは一瞬だけ動きを忘れた。

敵だけではない。味方ですら、何が起きたのか理解するより先に戦況が変わっていた。


敵が反射的に術式を放つ。

その光がアランへ殺到する寸前、彼の周囲に防御が展開される。

透明な壁に弾かれた術が砕け、飛び散った光が氷のようにきらめいて消えた。


その隙に、彼の掌から放たれた光が敵の術者だけを正確に穿つ。


速い。

正確だ。

そして、無駄がない。


ただ強いだけではない。

何を斬り、何を守り、どこへ踏み込むべきかを、一息のうちに見極めている。


敵が崩れれば、その穴を逃さず味方へ進軍の指示が飛ぶ。

崩れた戦線を守るように防御が張られ、負傷した騎士のそばには転移した医官が送り込まれる。


戦場のすべてが、彼の意志に従って整理されていく。


叫びはなかった。

勝鬨もなかった。

熱に浮かされたような昂ぶりもない。


あるのは、必要なものを必要なだけ断ち、守るべきものを確実に守る、冷徹な完成だけだった。


気づけば戦場は静まり返っている。


最後まで抵抗していた帝国兵が膝をつき、敗走する背を騎士たちが警戒しながら見送る中、アランは血と雪の入り混じる地を一瞥しただけで低く命じた。


「負傷者を分けろ。重傷者から運べ」

「逃げた兵は深追いするな。北壁沿いを固めろ」


それだけだった。


勝利を誇ることもない。

功を語ることもない。

ただ次に必要な手だけを、迷いなく打っていく。


その背を見送りながら、若い騎士は知らず息を詰めた。


――あれは、王だ。


そう思うのと同時に、ひやりとした畏れが背筋を撫でる。


あまりにも強く、

あまりにも揺るがず、

あまりにも隙がなくて、


まるで人ではなく、国を守るために鍛え上げられた戦器のようだった。




その印象は、城へ戻ってからも薄れることはない。


アランが廊下を歩けば、道は自然に開く。

近衛騎士も、文官も、侍女たちも、誰もが即座に頭を垂れる。

彼が足を止めれば、報告は簡潔にまとめられ、問いには的確な答えだけが返る。


謁見の間では、彼の判断に異を唱える者はいない。

国境警備の再配置。

冬を越えた村々への支援。

用水路の補修。

北方の備蓄管理。

流通経路の見直し。


処理の滞っていた案件すら、彼の前では迷いなく整えられていった。


クレスティア王国は、北に連なる山々に抱かれた国だ。


冬には深く雪が降る。

だが春になればその雪は雪解け水となって山を下り、国じゅうを潤す。

山から引かれた水は用水路を巡り、城下の石畳の脇にも澄んだ流れを絶やさない。


その水は畑を潤し、家々の暮らしを支え、市場に並ぶ野菜や果実を育てる。

戦乱の傷跡を残しながらも、城下町には確かな活気があった。

通りは清潔で、商人たちの声には力があり、職人街には手仕事の確かさが息づいている。


それは偶然守られた豊かさではない。


厳しい自然を恵みに変え、

水を巡らせ、

人の営みを乱れなく保ち、

綻びを見過ごさない者がいるからこその繁栄だった。


北の山から流れ出る清らかな水が国の隅々を整えるように、

アランの意志もまた、クレスティアの隅々にまで行き渡っていた。


無駄がなく、揺るぎなく、美しい。


この国そのものが、王の在り方を映しているようだった。


けれど、その整いすぎた美しさは、ときに恐ろしいほど人を寄せつけない。


一日の終わり、広い執務室に最後まで灯りが残っていても、

「お疲れでしょう」と言える者はいない。

食事が冷めるほど机に向かっていても、

「少しお休みください」と気安く諫められる者はいない。


誰もが従う。

誰もが敬う。

誰もが頼る。


それなのに、誰ひとりとして、その肩に気安く触れることはできない。


王としては理想的だった。

だがその隙のなさが、人として寄りかかられる余地まで奪っていた。


アランは、国にとっては理想の王だった。

そしてたぶん、そのぶんだけ、ひどく孤独だった。




その話を、ミュレットは医務室の隅で聞いた。


煎じた薬湯を運んでいたとき、治療を終えた騎士たちが小声で北方の戦いを語っていたのだ。


敵陣の最奥へ一瞬で移ったこと。

何重もの結界を、剣のひと振りで断ち裂いたこと。

味方の盾となりながら、敵の術者だけを正確に討ったこと。

誰より前に立ち、誰より静かだったこと。


「殿下がいなければ、あの戦はもっと長引いていた」

「……近くにいると、息が詰まるほどだったがな」

「わかる。すごいとか、強いとか、そういう言葉だけじゃ足りない」

「あれが断界だよ。空間ごと斬る、殿下の力だ」

「完璧すぎるんだよ、あの方は」


完璧すぎる。


その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が冷たく強ばった。


ミュレットは手の中の器を見つめたまま、しばらく動けなかった。

器の縁を支える指先に、知らないうちに力が入っている。

喉の奥がからからに乾いて、浅い呼吸だけが胸の内側を擦った。


この城でのアランは、厳しく、恐れられている人なのだと思っていた。

けれど違う。

恐れられているだけではない。


あの人は、誰もが届かない場所に立っている。


ふと、昨日のことを思い出す。


自分の寝不足にすぐ気づいたこと。

ふらついた身体を受け止めてくれたこと。

庭は逃げないと、やさしく言ってくれたこと。


あんなふうに言葉を尽くしてくれたのは、きっと――


そこまで考えて、ミュレットは小さく首を振った。


だめだ、と思う。


あの人は、こんなふうに誰かひとりの近くにいていい人ではない。

戦場で国を守り、

城で国を整え、

誰より高い場所に立ち続ける人だ。


好きになってはいけない相手だ。


そう思えば思うほど、胸の奥はひどく痛んだ。

まるで冷たい手で内側からぎゅっと掴まれたように、息がしづらくなる。


遠い。


やさしいからではない。

強いからでもない。

王としてあまりにも完成されていて、自分などが手を伸ばしてはいけないと思わされるから、遠いのだ。


これ以上近づけば、きっと苦しくなる。


だから、距離を取ろう。

声をかけられても、浮き立たないように。

視線が重なっても、期待しないように。

昨日より少しだけ、きちんと線を引こう。


それが正しいはずだった。




夕方、ミュレットはひとりで庭の端を歩いていた。


整えられた花壇から少し離れた、石畳の脇。

最初に足を止めたあの場所に、今日も名のない花がひっそりと揺れている。


しゃがみ込み、その小さな花を見つめる。


誰に褒められるわけでもなく、

誰の目にも留まらぬまま、

それでもそこに咲いている花。


風に揺れる白い花弁を見つめていると、不思議と胸のざわめきが少しだけ静まった。


「……あなたは、強いのね」


思わず零れた声は、ひどく小さい。


そのとき、背後で靴音が止まった。


「また、その花か」


低い声に、ミュレットの肩がわずかに揺れる。


振り返らなくても分かる。

アランだった。


胸の奥がひとつ強く脈打つ。

けれどミュレットはそれを押し隠すように、花から半歩だけ身を引いてゆっくり立ち上がった。


「……はい、殿下」


自分でも分かるほど、声が固い。

以前より少しだけ距離を置いた呼び方も、きっと不自然だった。


アランは何も言わず、ミュレットを見た。

その視線に居心地が悪くなって、ミュレットは花へと目を落とす。


「明日の晩餐会の確認か」


問われて、ミュレットは小さく頷いた。


「はい。庭の様子を最後に見ておこうと思って」

「案内にも出ると聞いた」

「……少しだけです」

「少しだけ」


アランがその言葉をなぞるように繰り返す。


ミュレットは困ったように指先を握った。


「皆さまのお邪魔にならないよう、端のほうで……。私はそのほうが気楽ですから」


言ってから、しまったと思った。

あまりにも本音だった。


けれどアランは笑わない。

ただ、足元の名のない花を見下ろしたまま、低く言った。


「お前はいつもそうだな」

「……え」

「目立たぬものを気にかけ、自分もそこへ紛れようとする」


ミュレットは息を呑んだ。


言い返せない。

まるで胸の内をそのまま言い当てられたようだった。


「私は、別に……」

「違うか」


静かな声だった。

責めるでもなく、ただ事実を確かめるような響き。


ミュレットは答えられない。


違わない。

本当はずっとそうだ。

庭でも、医務室でも、この城でも。

自分はなるべく目立たず、誰の邪魔にもならない場所にいたいと思っている。


そのほうが安全だから。

期待しなくて済むから。

傷つかずに済むから。


沈黙のあと、アランが再び口を開いた。


「明日は他国の客も入る。庭も人で埋まるだろう」

「……はい」

「無理はするな」

「はい」

「具合が悪ければ、すぐ下がれ」

「分かりました」


そこで会話は終わるのだと思った。

だがアランは、なお少しだけそこに立っていた。


風が吹き、花が揺れる。


やがて彼は、その花を見たまま、ひどく静かに言った。


「名がなくとも、咲いていれば人は見る」


ミュレットは目を見開いた。


それが花のことを言っているのだと、すぐに分かった。

分かったはずなのに、なぜか胸の奥がひどく落ち着かなかった。


アランはそこでようやくミュレットへ視線を戻す。

花を見ていたはずの目が、今度はまっすぐこちらを捉える。

その短い沈黙が、言葉よりも深く胸を打った。


「端に控えていれば済む相手ばかりではない」


意味を測りかねて、ミュレットは目を瞬く。


「……え?」


けれどアランはそれ以上説明しなかった。

ただ、花の脇に立つミュレットを一度見てから、低く続ける。


「……軽く見るな」

「……はい」


アラン自身は、それ以上何も言わなかった。

まるで言うべきことは告げたと言わんばかりに、静かに身を翻す。


「戻る」


ただ、それだけを残して歩き去っていく。


整った背中。

迷いのない足取り。

やはり遠い人だと、そう思う。


それなのに、その遠い人の言葉はどうしてこんなにも深く残るのだろう。


名がなくとも、咲いていれば人は見る。

端に控えていれば済む相手ばかりではない。


誰に向けた言葉だったのか、確かめることもできないまま、ミュレットはその場に立ち尽くした。


足元では、名のない花が夕暮れの風に小さく揺れていた。


まるで、明日から何かが変わることを知っているように。



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