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Episode 05. 紙片に記された名



アランの傍らに立つ男は、誰より静かに主君を見ている。


近衛騎士にして副官。

戦場でも王城でも、常に一歩後ろからアランを支え続けてきた男――それがディルクだった。


主君ほど人を圧する威圧感はない。

けれど、整った所作と無駄のない立ち居振る舞いには、長く実戦を生き抜いてきた者だけが持つ硬質な信頼があった。

判断は速く、現実的で、必要とあれば進言もする。

忠義に厚く、周囲をよく見て動くその男は、アランの政治と力、その両方を理解して言葉を返せる数少ない存在でもある。


年はアランよりひとまわり上。

幼いころから主君を知り、戦の前も後も、その背を見続けてきた。

だからこそ、他の誰にも分からないほど小さな変化にも気づく。


だからこそ分かる。


ミュレットと出会う前のアランが、どんな人だったのかも。


主君は昔から、私情で足を止める人ではなかった。

必要なことだけを見て、必要なことだけを決める。

戦場では誰より前に立ち、城へ戻れば誰より静かに国を整える。

報告に無駄を嫌い、曖昧な話には耳を貸さず、名を挙げて誰か個人の様子を問うことなど、まずなかった。


人の上に立つ者としては理想的だ。

だが、その理想のかたちは時にあまりにも隙がない。


だから、ほんのわずかな違いでも目につく。


文官の報告を聞きながら、手元の書簡ではなく窓の外へ目をやる回数が増えたこと。

庭師からの進捗に、本来ならそこまで必要のない細部まで問いを差し挟むこと。

図書室へ運ばせた植物誌の位置を、手に取りやすい高さへ変えさせたこと。


他の者には分からない。

見落として当然の、取るに足らない差だ。


だがディルクには分かった。


それらの視線の先に、いつも同じ娘がいることを。




晩餐会を数日後に控えた午後、ディルクは最終調整のために提出された出欠状を整理していた。


王族。

諸侯。

重臣。

随行員。

そして、当日城内で案内役として立つ者たちの名。


一枚ずつ確認していた手が、ふと止まる。


来客案内の補佐役、その欄に見覚えのある名があった。


ミュレット


隣に記された「出席」の文字は、流れるように整っていて、控えめながら品のある美しい字だった。

いかにも彼女らしい、丁寧な筆跡だった。


ディルクはしばらくその紙を見つめた。


晩餐会には他国の客も入る。

領主や重臣だけでなく、若い王族やその近習もいるだろう。

庭の案内役として名が出ること自体は不自然ではない。

むしろ、整えられた庭を最も理解しているのはミュレットだ。


それでも、胸の奥に引っかかるものがあった。


書状を持ったまま、ディルクは女官長のもとへ向かった。




女官長は控え室で侍女たちへの指示を終えたところだった。

厳格だが、礼法と采配にかけては信頼の厚い人物である。

ディルクを見ると、すぐに一礼した。


「ディルク様。何か不備でもございましたか」

「確認したいことがあります」


そう言って、書状を差し出す。


女官長は目を落とし、すぐに事情を察したようだった。


「ミュレット様の配置について、でございますね」

「誰の判断です」

「私です」


迷いのない答えだった。


「理由を伺っても?」

「陥落したとはいえ、伯爵家のご令嬢です。教養、礼儀、所作、どれを取っても申し分ありません。控えめで、来客の前へ出しても不安のない方です」


それは間違っていない。

ミュレットの立ち居振る舞いは柔らかく、品がある。

必要以上に前へ出ることはなく、それでいて卑屈にも見えない。

あの静かな美しさは、確かに客の目を引くだろう。


だが女官長は、そのまま続けた。


「この城へは保護を名目に置いているようなものです。彼女も、それがクレスティア再建のために利用されていると気づいているでしょう」


その言い方に、ディルクの目がわずかに細くなる。


女官長は構わず言葉を継いだ。


「隣国の王子などに気に入られれば、クレスティアとその国を繋いでもくれますでしょうし、そこでミュレット様が幸せに暮らせるなら、彼女にとっても、国にとっても、それは良いことです」


穏やかな口調だった。

だが中身は冷たい。


国のためになり、

本人にとっても悪い行き先ではないのなら、

それでいいではないか――そういう理屈だ。


戦や政略の場にいる以上、ディルクもそうした打算を知らぬわけではない。

婚姻も縁も、情だけでは決まらないことも理解している。


それでも、あまり良い気はしなかった。


庭を整え、倒れそうになるまで城のために動き、誰より静かにこの国へ手を尽くしている娘を、あまりにも軽く並べ替えすぎている。


「なにか問題が?」


問われて、ディルクは一拍だけ黙った。


「…………いえ」

そうして静かに続ける。

「一度、この書状は預からせてもらう」


女官長は首を傾げた。


「最終判断は殿下に?」

「そうなります」

「承知しました」


書状を受け取り、ディルクは一礼して控え室を出た。




執務室へ向かう廊下は静かだった。


磨き上げられた石床に、靴音だけが響く。

窓の外には、晩餐会を前に整えられた庭が見えた。


花壇はすでに形を成し、風に揺れる草木の向こうで、庭師たちが最後の確認をしている。

今日はミュレットの姿は見えなかった。


休んでいるなら、それでいいとディルクは思う。


あの日、寝不足でふらついた彼女をアランが支え、木陰に座らせて以降、ミュレットは以前より少しだけ周囲に頼るようになった。

それでもまだ、無理をしていないとは言い切れない。


手の中の紙が妙に重かった。


これは仕事の話だ。

だが、仕事としてだけ処理していい話ではない。


執務室の前には近衛が控えていた。

ディルクが入ると、アランは机に向かったまま顔も上げずに言った。


「入れ」

「失礼いたします」


まずは予定していた報告から入る。


南回廊の警備配置。

来客の到着順。

厨房と医務室の連携。

晩餐会当日の巡回人数。

国境沿いの見回りとの兼ね合い。


アランはいつも通り、必要な箇所にだけ短く言葉を差し込む。


「開始直後の巡回は半刻ごとにしろ」

「承知しました」

「医務室は控えをひと部屋増やせ」

「はい」

「北門からの搬入は時間をずらせ」

「そのように」


報告は滞りなく終わった。


ディルクはそこで言葉を切る。

手にしたままの一枚の紙が、妙に目立った。


「まだなにか?」


ようやくアランが机から顔を上げる。


ディルクはわずかに目を伏せた。


「いえ、仕事の話ではないのですが………」


珍しくはっきりしない物言いになった。

アランはそういう曖昧さを好まない。

案の定、興味を失ったように視線を手元の書類へ戻した。


「ではいい」


低い声が落ちる。


普段なら、ここで引く。

引くべきだ。


だがディルクは、声を落として言った。


「ミュレット様のことで」


その瞬間だった。


アランの手が止まる。


筆先が紙の上で静止し、次いでごく静かな動作で机に置かれた。

それからようやく、顔が上がる。


「……何だ」


声は低い。

だが先ほどまでとは違った。

追い払う響きは消え、明らかに話を聞くための声になっている。


ディルクは、やはりそうかと心の内でだけ思う。


「晩餐会の出欠状です」

そう言って、書状を差し出した。

「案内補佐として、ミュレット様のお名前がございます」


アランの視線が紙へ落ちる。


そこに記された文字を見たとき、大きく表情が変わったわけではない。

だがディルクには分かった。

読み流さなかった。


「誰が決めた」

「女官長です」

「本人は」

「……ご自身で提出されたそうです」

「自分で書いたのか」

「はい」

「本人が選んだのか」

「はい」


そこでディルクは、ほんのわずかに目を瞬いた。


珍しい、と素直に思った。


問いの意味はほとんど同じだ。

普段のアランなら、確認は一度で足りる。

必要なら要点だけを問う。

それなのに今は、確かめるように、念を押すように、同じ場所をもう一度なぞっている。


それだけ、この事実が引っかかったのだろう。


アラン自身は気づいていないのか、あるいは気づかぬふりをしているのか。

ただ書状の上の文字を見つめたまま、しばらく黙った。


やがて、低く言う。


「………………配置を変えることは」

「この配置の適任がミュレット様だと見られております。それに今から変更となると……」


ディルクは言葉を選びながら続けた。


「連携の組み直し、役割の組み直しが生じます。案内役の動線も、補佐の配置も、侍女たちとの受け渡しも、すべて調整し直しです」

「……」

「不可能ではありません。ですが、今この段階で動かせば、かえって目立ちます」


長い沈黙が落ちた。


アランは何も言わず、机上の紙を見つめていた。

その沈黙は、ただ考えているというより、考えた上でなお割り切れないものを押し込めているように見えた。


やがて、ひとことだけ落ちる。


「わかった」


それきりかと思った次の瞬間、アランは続けた。


「騎士をひとりつける」

「は?」


思わず、ディルクの口から素っ頓狂な声が漏れた。


しまった、と遅れて思う。

だがさすがに抑えきれなかった。


それぞれの持ち場には、すでに騎士の配置も決まっている。

そこへさらにひとりつけるとなれば、結局は別の組み替えが必要になる。

先ほど自分で説明した「配置を変える」ことと、本質的には同じ問題が発生する。


それを、アランが分からぬはずがない。


だからこそ、驚いた。


アランはディルクの反応を咎めもせず、低く言った。


「目立たぬ形でいい」

「………め、目立つのでは」


これはディルクなりの、苦し紛れの抵抗だった。

騎士団の配置にも責任を負う身として、あまりに露骨な私情で人員を動かされるのは困る。


だがアランは、表情を変えずに返す。


「………ぴったり後ろにいなくていい」


ディルクは数拍、黙った。


この人がはじめて「私情」で部下を動かそうとしている。

そう思った瞬間、驚きと、わずかな困惑が同時に胸をよぎる。


王として必要だから、ではない。

晩餐会のためだけでもない。

彼女が自分で選んだ以上、それを覆すことはできない。

だが、それでも守りたい。


その不器用な結論が、今のひとことに全部出ていた。


ディルクはひとつ息を吐き、静かに言った。


「ひとり、適任がおります」

「誰だ」

「城内警備を任されている女騎士です。セレスティアといいます」


アランの視線がわずかに動く。

名に聞き覚えがあるのだろう。


「無駄口が少なく、場を見る目のある者です。庭の整備が始まってからも何度か近くに立っておりましたが、ミュレット様へ不要な詮索を向けたことは一度もありません」

「……」

「腕も確かです。近衛ほど前へは出ませんが、状況判断が早く、必要なときには迷わず動けます」


ディルクはさらに続ける。


「ミュレット様に対して、騎士としての評価も信頼もあります」

「信頼?」

「ええ。保護対象として軽く見ることなく、ひとりの相手として礼をもって接しています」

「……」

「それに、ミュレット様もセレスティアには比較的警戒を見せません。心を許しているとまでは申しませんが、少なくとも数少ない“身構えずに言葉を交わせる相手”です」


これが大きかった。


護衛をつけること自体、ミュレットには負担になる。

監視されていると感じれば、かえって身を固くするだろう。

だがセレスティアなら、その心配が少ない。


「忠誠もあります」

とディルクは言った。

「国への忠義はもちろんですが、ミュレット様を守るべき相手として見ています。場の打算で値踏みするような者ではありません」

「信頼できるか」

「はい」


アランは少しだけ考えたあと、短く頷いた。


「セレスティアをつけろ」

「承知しました」

「だが、護衛とは分からぬようにしろ」

「さりげなく近くに置きます」

「それから」


アランの声が、少しだけ低くなる。


「無理をさせるな」

「……はい」

「人が多すぎる場に長く置くな」

「承知しました」

「具合が悪ければ、すぐ下がらせろ」

「かしこまりました」


その言葉を聞きながら、ディルクは思う。


寝不足で倒れかけたあの日のことを、アランは忘れていない。

忘れていないどころか、こういう判断の場で真っ先に思い出すくらいには、深く残っている。


それでも本人が選んだと知れば、無理に取り上げはしない。

ただ、手の届く範囲で守る手を打つ。


いかにもこの人らしい、不器用な配慮だった。


「女官長には」

と、アランが言う。

「配置はそのままだと伝えろ」

「はい」

「ただし、ミュレットの近くにはセレスティアを置く」

「承知しました」

「理由を問われたら」

「案内役補佐の補助として、で通します」

「そうしろ」


ディルクは深く一礼した。


用件は終わったはずだった。

だが退出しようとした背に、ふたたび声が落ちる。


「ディルク」

「はい」


振り返ると、アランはすでに次の書類へ視線を落としていた。

いつもの姿だ。

表情にも乱れはない。


だが、そのまま続いた言葉は、やはり仕事の範囲を少しだけはみ出していた。


「来客名簿を、もう一度持ってこい」

「……かしこまりました」


短い指示だった。

理由は言わない。

誰の名を確かめたいのかも口にしない。


それでもディルクには分かった。

今この場で、改めて確認したくなったのだろう。


「失礼いたします」


今度こそ扉を閉め、廊下へ出る。


手元には、ミュレットの名が美しく記された一枚の紙がある。

本人が選んだのなら、退けない。

けれど、誰かの手に勝手に渡すこともさせない。

だから騎士をつける。


以前のアランであれば、とディルクは思う。

配置を変えるなり、変えぬなり、もっと無駄なく、もっと冷静に片づけただろう。

そもそも、こうして自分が一枚の紙を持ち込み、個人の名を出して話を切り出すこと自体、なかったはずだ。


そこまで考えて、ディルクはふっと笑みをこぼした。


らしくないのは、自分も同じかもしれない。


窓の外では、晩餐会を前に整えられた庭が風に揺れている。

花のあいだを抜ける光はやわらかく、その先にいるはずの娘の姿を思い出させた。


ディルクは書状を持ち直し、名簿を取りに向けて静かに歩き出した。



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