Episode 04. 庭は逃げない
晩餐会の日取りが近づくにつれ、王城の空気は少しずつ慌ただしさを増していった。
庭師たちは土を運び、騎士たちは警備の導線を確かめ、侍女たちは晩餐会に向けた支度に追われる。
その忙しさの中でもミュレットは、医務室の手伝いを欠かさず続けながら、庭の手入れにも毎日足を運んでいた。
朝は医務室。
昼は庭。
夜は図書室。
植物や花、薬草について知れば知るほど、必要な知識は尽きなかった。
王宮図書閣に新たに運び込まれた図鑑や記録書は、ミュレットにとって宝箱のようだった。
どの草木がこの土地に合うのか。
どの花なら季節の移ろいに寄り添えるのか。
晩餐会に訪れる客人たちを迎える庭として、どこに何を置けばもっとも美しく、かつ心をやわらげる景色になるのか。
読み始めると、時間を忘れた。
静まり返った夜の図書室。
ソファに座って本を広げ、気づけば何冊も脇に積み上げている。
少しくらい寝不足でも構わない。
任せてもらったのだから、きちんと形にしたい。
ここで役に立てる自分でいたい。
そう思うほど、足を止めることができなかった。
ある夜、ページをめくる指先が遅くなり、ミュレットはうつらうつらとまぶたを落としかけた。
はっとして姿勢を正し、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせる。
頬にはうっすらと疲れの色が滲み、背中の半ばまで流れるやわらかな髪も、きちんと整えていたはずなのに少しだけ乱れて肩先へ滑り落ちていた。
その少し離れた書架の陰に、静かに立ち止まる気配があったことを、彼女は知らない。
アランは、灯りの下で本を抱えたまま浅い眠りに落ちかけるミュレットをしばらく見つめていた。
低く名を呼べばすぐに目を覚ますだろうに、それはしなかった。
代わりに、何冊も積まれた本と、眠気を押してまで頁を追う横顔を見て、何も言わずに去っていった。
その背に残ったのは呆れではなく、どこか放っておけないものを見るような静かな気配だった。
翌日の午後、庭はいつにも増して忙しかった。
晩餐会で客人を迎えるための最終調整が進み、低い花々はきれいに揃えられ、枝ぶりの美しい草木は風の通りまで計算して整えられている。
目立たぬよう端にまとめられた薬草の区画も、景色を損なわぬようすっきりと形になっていた。
「その苗は、土をもう少しやわらかくしてから植えてください」
「承知しました、ミュレット様」
庭師が頭を下げる。
最初のころの半信半疑な眼差しは、もうほとんど消えていた。
今では彼らも、ミュレットの言葉に耳を傾け、庭の仕上がりをともに考えてくれる。
うれしかった。
だからもっと良くしたかった。
しゃがみ込んで苗の具合を確かめ、土の湿り気を指先で測り、次の区画へ視線を移す。
花の並び、草木の高さ、歩く人の目に入る角度まで思い浮かべて、少しでも良い形へ近づけようとする。
立ち上がろうとした、そのときだった。
ふっと視界が白く揺れた。
「あ……」
足元が消えたような感覚に、身体がぐらりと傾く。
次の瞬間、しっかりとした腕がミュレットを支えた。
胸と腕で包み込むように引き寄せられ、倒れかけた身体がぴたりと止まる。
思わず息を呑んで見上げると、すぐ間近にアランの顔があった。
陽を受けてもなお冷たさを帯びる端正な顔立ち。
鋭い目元はこの城の誰もを黙らせるのに、その視線はいま、驚くほど近くで、ただミュレットの様子だけを確かめていた。
「アラン、様……」
声が震える。
支えられた腕の強さが、思った以上に頼もしかった。
逃げるように離れたいのに、もう少しだけこのままでいたいような、ひどく困る気持ちが胸の奥でせめぎ合う。
そのとき、端で作業していた庭師たちが、はっとしたように動きを止めた。
庭沿いの回廊を行き交っていた侍女たちも、一斉に道の端へ下がる。
アランが通る場所では、城の者たちは皆、自然と道を開け、立ち止まり、頭を下げる。
命令として決められたものではないのに、いつしか王城に根づいた風習だった。
回廊でも庭でも、アランの姿が現れた瞬間、ざわめきは吸い込まれたように消える。
やはり、この城でアランはただの王太子ではない。
誰もが見上げ、畏れ、敬い、どこか神のように遠く置いている人だ。
そんな存在が今、自分の身体を支えている。
その事実に、ミュレットの心はひどく騒いだ。
「立てるか」
低い声が近すぎて、うまく息ができない。
耳のすぐそばで落ちるその響きは、短いのに胸の奥へ深く沈んだ。
「は、い……だいじょうぶ、です」
「大丈夫には見えない」
きっぱりと言われ、ミュレットは言葉に詰まる。
アランは彼女を支えたまま、近くの庭師へ短く指示を出した。
「座れる場所へ」
「は、はいっ」
そのまま木陰のほうへ促され、ミュレットは半ば抱き寄せられるようにして数歩進む。
アランの手は揺らぎなく、逃がさないようでいて苦しくはない。
触れているのは支えるためだけだと分かっているのに、その温度が肩口や腕にひどく意識されてしまう。
やがて庭木の根元近くに設えられた低い石縁へ腰を下ろさせられると、ようやく小さく息をついた。
だが、休んでいる場合ではないと思い直し、すぐに立ち上がろうとする。
「まだ、あちらを見ておかないと……」
「座っていろ」
低い声が、逃がさないように落ちた。
強い言葉なのに怒鳴る響きはなく、だからこそ逆らえない。
ミュレットはしゅんと肩を落とす。
アランはそんな彼女を見下ろし、わずかに眉を寄せた。
厳しい顔立ちのままなのに、その僅かな皺だけで、彼がいまどれほど本気で案じているのかが伝わってしまう。
「本を増やした俺の責任もある」
「え……」
「だが、物事には優先順位がある」
そう言うと、アランはミュレットの前にしゃがみこんだ。
至近距離で視線が合う。
ミュレットは思わず息を止めた。
王太子が、こんなふうに。
自分の前にしゃがみ、目を合わせている。
そんなことがあっていいのだろうか。
大丈夫なのだろうか。
庭師たちも、遠巻きに控える侍女たちも、きっと見ているのに。
胸の奥が落ち着かず、指先がきゅっとこわばる。
それでも視線を逸らしきれなかった。
アランの目は鋭いのに、不思議と目を背けるだけでは済ませてくれない。
見つめられるほど、自分の内側の揺れまで知られてしまいそうで、ミュレットはますます鼓動を早めた。
アランはそんな彼女の動揺に構うことなく、低く言った。
「ひとりで抱え込むな」
厳しいようでいて、その声音は冷たくなかった。
責めているのではなく、言い聞かせているのだと分かる。
普段は必要なことしか口にしない人が、言葉を選びながら告げてくれている。
それが分かるからこそ、胸の奥がかえって熱くなった。
「でも……」
思わず漏れた声に、アランが視線を落とす。
その目は鋭いはずなのに、いまはただミュレットの言葉を待っていた。
ミュレットは膝の上で手を握りしめた。
任せてもらったのだ。
期待していると言われたのだ。
だから形にしなければと思っていた。
アランは少しだけ黙ったあと、静かに答えた。
「俺は……自分にできないことは、他の者に任せている」
「……」
「この庭のように」
ミュレットは顔を上げる。
「この庭は、ミュレットひとりでここまで来たわけではない。庭師がいて、力仕事を担う者がいて、考え、選び、整えた。全部をひとりで抱えなかったから、ここまで形になった」
言われて、息を詰める。
その通りだった。
自分ひとりでは、荒れた庭をここまで整えることはできなかった。
誰かに頼り、教わり、借りた力があるからこそ、今の景色がある。
なのに自分のこととなると、なぜか全部を抱えようとしていた。
アランはゆっくり立ち上がり、ミュレットの前に立つ。
背筋はまっすぐで、そこに立つだけで周囲の空気まで整って見えた。
けれど、いまその人が向けているのは威圧ではなく、まっすぐな庇護だった。
「休めないなら、このやり方は変える」
「……」
「ミュレットを削ってまで作る庭なら、俺は認めない」
真剣な声だった。
短い言葉の一つひとつが、まっすぐ胸に落ちる。
この人は本気でそう言っているのだと、疑いようもなく分かった。
「そ、そんな……」
それは嫌だった。
反射のようにそう思う。
ようやく見つけかけた場所なのに。
花に触れ、土に向き合い、自分の手で少しずつ景色を変えていける場所なのに。
「嫌、です」
思わず立ち上がりかけて、またふらりとする。
すぐにアランの手が肩を押さえ、無言のまま座るよう促された。
触れ方は強引ではないのに、有無を言わせない確かさがある。
その手のひらが肩越しに伝える熱に、ミュレットはまた息を乱した。
「なら、もう少し自分が楽になる方法を選べ」
「……はい」
「ここが、ミュレットにとって苦しいだけの場所になるなら意味がない」
風が吹き、花々が小さく揺れた。
その合間を縫うように落ちてくる声は、低く静かで、どこまでも真っ直ぐだった。
「次からは、先に周りを使え」
「ですが……」
「それも、お前の役目だ」
「私は、ただここに置いていただいているような身ですし……」
アランはそこで言葉を切った。
わずかに眉を寄せ、言いにくそうに視線を落とす。
普段なら迷いなく言葉を置く人が、ほんの一瞬だけ逡巡した。
それがかえって、この先の言葉の重さを伝えてきた。
「……俺が、来なかったらどうする」
ミュレットは息をのんだ。
「え……」
「今みたいに倒れかけても、誰も気づかなかったらどうする」
「……」
「もう皆、この場所の価値を知っている。だが、無理をしたまま続けることは認めない」
その言葉は、あまりにも静かで、けれど深く胸に落ちた。
「認めない」という強い響きの奥にあるのが支配ではなく心配だと、ミュレットにも分かってしまう。
しかもその心配は、たった今だけでなく、アランがここへ来られなかった場合まで考えたものだった。
そこまで思われていたことが、うれしくて、苦しかった。
ミュレットはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。
「……はい」
その返事に、アランはようやくわずかに表情を緩めた。
ほんの僅かな変化だったが、厳しい顔立ちがゆるむだけで、周囲の空気まで静かにほどける気がした。
「今日はもう休め」
「でも、まだ……」
「今日は、だ」
言い切る声音に逆らえず、ミュレットはしゅんと肩を落とす。
その様子を見て、アランの目元がほんの少しやわらいだ。
「庭は逃げない」
その一言が、思いのほかやさしく胸に落ちた。
短く、静かで、なのに不思議なくらいあたたかい。
必要以上に慰めることはしないのに、言葉の置き方だけで安心させてしまうのが、いかにもアランらしかった。
逃げない。
急がなくても、なくならない。
きちんと明日も、ここにある。
そんな当たり前のことに、ミュレットは今さら気づかされた気がした。
「……はい」
今度は少しだけ、素直に答えられた。
この城でアランは、誰もが畏れる絶対の存在だ。
道は自然に開かれ、ざわめきは鎮まり、誰もが一歩引いて彼を見上げる。
それなのにその人が、自分の寝不足に気づき、自分のふらつきを受け止め、自分が少しでも楽でいられるよう言葉を尽くしてくれた。
アランは普段、本当に口数が少ない。
必要なことだけを短く告げる人だ。
そんな人が今日、自分のためにあんなにも言葉を重ねてくれた。
叱るためではなく、守るように、諭すように。
思い返すたび、遅れて喜びが胸の奥から湧いてくる。
抱きとめられたときの腕の強さも、近くで落ちた低い声も、しゃがみ込んで目を合わせてくれたことも、ひとつひとつが妙にはっきり残っていた。
けれど同時に、それがあまりにうれしくて、怖かった。
うれしい。
でも、こわい。
こんなふうに気にかけられてしまったら、ますますこの場所を手放したくなくなるのではないかと。
整い始めた庭は、今日も静かにそこにある。
まだ居場所だと言い切ることはできない。
それでも、この場所での時間が、すぐには消えないものであってほしいと――ミュレットは胸の奥で、ひそやかに願ってしまっていた。




