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Episode 03. 花開く兆し



庭づくりが本格的に始まってから、王城の空気はわずかに変わった。


最初に気づいたのは、庭師たちだった。

荒れていた一角に小さく整った区画が生まれ、それが日ごとに広がっていくと、半信半疑だった視線は少しずつ変わっていった。


「こちらは、根が広がりますから、もう少し間を空けたほうが」

「なるほど……では、この株は移したほうがよろしいですか」

「はい、そのほうが春先に息がしやすいと思います」


最初は遠慮がちだったやりとりも、いまでは自然なものになりつつあった。

ミュレットはまだ人前に立つことに慣れていなかったが、庭のことを話しているときだけは、不思議と恐れが少し薄れる。


昼下がり、訓練帰りの若い騎士が庭の縁で立ち止まり、額の汗を拭いながらぽつりと言った。


「……いいな、ここ」


それは誰かに聞かせるつもりのない独り言のようだった。

けれどミュレットの耳には、はっきり届いた。


別の日には、医務室帰りの侍女が花壇の前で足を止め、疲れ切った顔のまま、小さく笑うのも見た。

ほんのわずかな時間だったが、その表情はたしかにやわらいでいた。


花は無力ではない。

庭はただ飾るためだけのものではない。

そう信じてきたことが、少しずつ景色の中に形を持ち始めていた。


その日もミュレットは、植えたばかりの苗の具合を確かめるためにしゃがみ込んでいた。

やわらかな新芽にそっと目を細め、土の湿り気を指先で確かめる。

少し前まで荒れていたとは思えないほど、庭は静かに息を吹き返しつつあった。


そのとき、庭の向こうから、ゆっくりと誰かが歩いてくる気配がした。


顔を上げると、整い始めた草木のあいだを縫うようにして、アランがこちらへ歩いてくる。

急ぐでもなく、音を立てるでもないのに、その足取りには迷いがない。

陽を受けてもなお冷ややかに見える端正な顔立ち。

そこにいるだけで空気が変わるような気配。

今日も変わらないはずなのに、胸だけは不思議に落ち着かない。


「ミュレット」


不意に名を呼ばれ、ミュレットは目を瞬いた。


低く静かな声だった。

強く響いたわけではないのに、その一声だけが不思議なほどまっすぐ胸に届く。


いま、なんと呼ばれただろう。


ぽかんとしたままアランを見つめる。

え、いま――名前で。


アランはわずかに眉を寄せた。

その視線は鋭いのに、急かすような冷たさはない。

ただ反応を待っているだけだと分かる目だった。


「……ミュレット?」


もう一度呼ばれて、ようやくはっと我に返る。


「は、はい……!」


慌てて立ち上がる。危うく裾を踏みそうになり、余計に顔が熱くなる。

アランはそんな彼女の動揺を指摘するでもなく、自然な仕草で庭へ視線を移した。


植え替えられた花壇、その奥に並ぶ草木、風に揺れる花々。

一つひとつを確かめるように、静かな目が景色を追っていく。

ただ眺めているのではなく、形も意図も見ようとしているのが分かった。


「騎士たちに、見ろと言われた」

「え……」

「心地が良いと」


短い言葉だった。

けれど、その短さのぶんだけ重みがあった。

飾らずに言われるからこそ、胸の奥がふわりと揺れる。


戦を知り、傷を負い、鍛錬と務めに追われる騎士たちが、この庭を見てそう言ったのだ。


「そ、そうでしたか……」


うれしさと照れくささで、視線を落としかけたそのときだった。


アランが花壇のほうへ一歩近づく。

長い指先が触れそうで触れない距離に花を見下ろし、そのあと静かに言った。


「……きれいだ」


その声は低く、ひどく穏やかだった。

たった一言なのに、耳に残る。


ミュレットは息を止めた。


きっと庭のことだ。

そうに違いない。

なのに、どうしてこんなにも頬が熱いのだろう。


「い、いえ……私は、考えたことを形にしただけで……庭師の方や、手伝ってくださった皆さんのおかげです」


しどろもどろに答えると、アランはわずかに首を傾けた。

その仕草は小さいのに、妙に目を引く。


「それでも、始めたのはミュレットだ」


また名前で呼ばれる。

たったそれだけのことなのに、胸が落ち着かない。


アランは花壇の縁に目を落とし、淡く咲く花を一輪見たあと、静かに言った。


「近々、各国の領主や要人を招いて晩餐会を開く」


ミュレットは目を瞬く。


「この庭で、彼らをもてなしたい」


整い始めたとはいえ、まだこの庭は完成していない。

花壇の区画も、草木の並びも、これからさらに手を入れていく必要がある。

それを見越したうえで、アランは言っているのだと分かった。


言葉は少ないのに、その先まで見ている。

そういう人なのだと、改めて思う。


「人手が必要なら許可する」

「……はい」

「それから、王宮図書室に植物や花の図鑑を増やすよう、司書に手配を進めさせている」


ミュレットは思わず、ぽかんと口を開きそうになった。


早い。

あまりにも仕事が早い。


ただ聞き流したのではなかった。

本当に、自分の言葉を受け取って、動いていたのだ。


胸の奥がじわりと熱くなる。


アランはまっすぐミュレットを見た。

その眼差しは鋭いはずなのに、いまは責める色がどこにもない。

見透かされるようでいて、きちんと向き合われていると感じる視線だった。


「引き続き、頼んでも良いか」


命令ではなかった。

問いかけだった。

低く落ち着いた声でそう言われるだけで、断るという考えが最初から浮かばない。


頼まれるなどと思っていなかった。

この城に、いつまでいられるかも分からないのに。

保護されているだけの身で、明日も同じようにここにいられる保証など、どこにもないのに。


それでも。

できるところまでは、やりたいと思った。


この庭を、もっと息づく場所にしたい。

花と草木が風に揺れ、ここを通る人たちの心を少しでもやわらげる景色にしたい。

そして何より、期待を向けてくれたこの人に、応えたいと思ってしまった。


「……はい」


ミュレットは小さく、けれどはっきりとうなずいた。


「できる限り、務めます」


アランはその返答を静かに受け止めた。

次いで、ほんのわずかに目元をやわらげる。


「頼りにしている」


低いその一言に、また胸が騒ぐ。

多くを語らないからこそ、その短い言葉が深く残る。


ここはまだ、完全な居場所だとは言えない。

それでも今この瞬間だけは、自分がこの庭に必要とされているのだと、そう思えた。


整えられた花壇の向こうで、アランが静かに庭を見渡している。

背筋はまっすぐで、立つ姿に少しの乱れもない。

その横顔を見つめながら、ミュレットの胸の奥では、名もない花がまたひとつ、ひそやかに芽吹こうとしていた。



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