Episode 02. 期待と勇気
翌朝、ミュレットはいつもより早く目を覚ました。
薄い光の差す部屋で身支度を整えながら、昨日見た荒れた庭のことを思い出す。
伸び放題の草、乱れた枝、季節に置き去りにされた花壇。
一晩経っても、その景色は頭から離れなかった。
医務室の手伝いを終えると、ミュレットは人目を避けるように庭へ向かった。
朝の庭はまだ静かで、冷えた空気の中に、わずかに土の匂いが混じっている。
昨日立ち止まった一角の前で、ミュレットはそっと息をついた。
荒れてはいるけれど、土そのものが死んでいるわけではない。
きちんと手を入れれば、この場所はまだ息を吹き返せるはずだ。
しゃがみ込み、視線を巡らせる。
低い花々が淡く並び、その奥に枝ぶりのきれいな草木が揃う。
寒い季節でも色を失いにくい葉を添えれば、寂しさは減るはずだ。
薬草の区画は目立ちすぎないようにまとめて、使いやすい導線を作る。
頭の中で形ができていく。
その鮮やかさに、ミュレットははっとした。
考えるだけでは、何も変わらない。
けれど、思いつきのまま口にして許される相手でもない。
アラン・クレスティア。
王国の中枢を支える人。
曖昧な願いごとだけで時間を割かせるわけにはいかない。
それなら、少しでも形にして見せるしかない。
ミュレットは荒れた花壇の中でも、まだ土が崩れきっていない小さな区画を選んだ。
ほんの少し手を入れるだけでも、違いはきっと伝わる。
伸びすぎた草を抜き、枯れた茎を取り除き、表面の土をやさしくほぐす。
残っていた小さな苗を生かせる位置へ移し、薬草の中でも丈夫なものを端へ寄せ、色味のやわらかな花を前へ、少し背のある草木は奥へ置き直した。
ほんのわずかな区画だった。
それでも、荒れた庭の中にひとつだけ、整った呼吸をする場所が生まれる。
「……これなら」
小さく呟いた、そのときだった。
「何をしている」
背後から落ちた声に、ミュレットの肩が大きく揺れた。
振り返ると、石畳の上にアランが立っていた。
胸が一気に高鳴る。
どうしてここにいるのか。偶然なのか、それとも少し前から見られていたのか。
分からない。ただ、その姿が目に入った瞬間、庭の空気まで張りつめた気がした。
「アラン、殿下……」
慌てて立ち上がり、裾を整える。
逃げてしまいたいと思う。
けれど、ここで言葉を飲み込んだら、この小さな花壇まで自分勝手な振る舞いとして終わってしまう。
「その、これは……庭のことを、少しだけ考えておりました」
アランは何も言わず、ミュレットと足元の小さな区画を見ていた。
その沈黙が怖かった。
差し出がましいと切り捨てられるかもしれない。
勝手なことをしたと叱られるかもしれない。
それでもミュレットは、震える息をのみ込みながら続けた。
「このままでは惜しいと思ったのです。少し整えるだけでも、ここはずいぶん変わるのではないかと……」
アランが一歩近づく。
視線は花壇に落ちたままだった。
「なぜ薬草を端へ寄せた」
問いが落ちた瞬間、ミュレットは少しだけ目を見開いた。
否定ではない。
見てくれているのだと分かる問いだった。
「景色を散らさないためです。薬草は実用のために必要ですが、中央に混ざりすぎると、どうしても花壇全体が落ち着かなく見えます。端にまとめれば使うときにも取りやすくなります」
「冬は」
「葉の色が沈みすぎないものを選べば、花が少なくても寂しくなりません。背の高いものを奥、低いものを前に置けば、季節が変わっても見栄えが保ちやすいかと」
アランは黙って聞いていた。
視線だけが、花壇の並びを静かに追う。
「それから、ここは医務室へ向かう導線にも近いので、見るための庭と使うための庭を無理なく繋げられます。薬草だけを並べるより、景色の中に馴染ませたほうが、通る方も……少しは、息をつきやすいかもしれません」
言い終えて、ミュレットはおそるおそる黙った。
風が吹き、整えたばかりの花々がかすかに揺れる。
しばらくの沈黙のあと、アランが低く言った。
「……よく考えられている。だが、甘い」
その一言に、胸がひやりと冷える。
「……そんな」
「思いつきではない。だが、この程度で形になるほど、簡単な話でもない」
ミュレットは思わず顔を上げた。
アランは花壇ではなく、今度はまっすぐミュレットを見ていた。
「小さいが、十分だ。ここから先を考えていることも分かる」
責められなかった。
それどころか、見て、考えたことまで受け取られてしまった。
「だめ、でしょうか」
俯いて問う声は、わずかにかすれ、最後の音が頼りなく萎んだ。
先ほどまで懸命に説明していたのに、最後の最後で心細さが顔を出す。
短い沈黙のあと、アランは言った。
「だめだとは言っていない」
ミュレットがはっと顔を上げる。
アランはわずかに目を細めた。
厳しい顔立ちはそのままだったが、先ほどまでよりも声はすこしだけ落ち着いていた。
「期待している」
それだけなのに、胸の奥が大きく揺れた。
まっすぐな言葉だった。
その一言は、重く冷たい意識をほんの少しだけ宥め、かりそめの救いで満たしてくれるような気がした。
思わずアランを見つめると、彼は確かにミュレットへ顔を向けていた。
「は、はい……!」
声が裏返りそうになるのをこらえながら、深くうなずく。
アランはそれ以上多くを語らず立ち上がる。
けれど去っていく背は、昨日より少しだけ遠く感じなかった。
ミュレットはしばらくその場にしゃがんだまま、整えた花壇を見つめていた。
期待している。
たった一言なのに、その響きは胸の奥に長く残った。
その日から、彼女の時間は少しずつ変わり始める。
医務室の補助の合間に、庭に使えそうな草木や花、薬草について調べるようになった。
寒さに強いもの、土地に合うもの、香りがやさしいもの。
見た目の美しさだけでなく、育てやすさや実用性まで考えながら、一つひとつ理解を深めていく。
城外から雇い入れられた庭師たちの知恵を借り、古い記録を読み、力仕事を担う者たちにも手を借りた。
伸び放題だった草木は整理され、区画には意味が生まれる。
季節を感じられる草木が選ばれ、医務室で使う薬草も、景色を損なわぬよう端にまとめて植えられていく。
ただ美しいだけではない庭を。
人が足を止め、ほんの少しでも心を休められる庭を。
まだここが完全な居場所だとは言えない。
それでも、自分の手で変えていける景色があるのだと知ったことは、ミュレットの世界を確かに少しずつ変え始めていた。
整えられていく庭の奥、朝の光がやわらかく落ちる一角には、クレスティアにしか咲かない、名のない花が静かに根を張っていた。
それは華やかに誇るためではなく、この国に息づくものとして、ただそこに在るように咲いていた。




