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Episode 01. まだ居場所ではない城で



クレスティアの王城で朝を迎えるたび、ミュレットは少しだけ息を止める。


与えられた部屋は、小さいながらもよく整っていた。

寝台の白い布は清潔で、窓辺にはやわらかな光が差し、卓上の水差しには毎朝新しい水が満たされる。

戦で家を失った伯爵家の娘にとって、それは十分すぎるほどの厚遇だった。


それでも、ここはまだ自分の居場所ではない。


客人と呼ぶには曖昧で、召使いと呼ぶには丁重すぎる。

保護され、住まわせてもらい、城でできることを少し手伝っている。

今の自分は、そんな宙ぶらりんな立場だと、ミュレットは毎朝確かめるように思い出す。


鏡の前で髪を整えながら、ふと昨夕のことがよみがえった。


名もない花。

王太子。

そして、低く落ち着いた声。


『手が汚れている』


たったそれだけのひと言が、どうしてこんなにも胸の奥に残るのだろう。

土も薬草の汁も、洗えば落ちる。

それなのに、洗っても落ちない何かが、自分の内側にはある気がして、少しだけ苦しくなった。


首を振って気持ちを追い払い、医務室へ向かう。


朝の医務室は、もう慌ただしかった。

戦は終わっている。

けれど、傷跡まで一緒に消えたわけではない。


古傷の痛みを訴える兵。

熱にうなされる若者。

無理を重ねて倒れた侍女。


医官たちは休む間もなく動き回り、棚には薬草の匂いが満ち、湯気の立つ器が並んでいる。


「ミュレット様、こちらをお願いできますか」

「はい」


差し出された籠を受け取り、彼女は静かに頷いた。

薬草を刻み、乾いた布を運び、水を取り替える。

自分にできることは多くない。だからこそ、一つひとつを丁寧にこなした。


寝台の脇を通り過ぎたとき、若い兵士が小さく息を呑んだ。

包帯の巻かれた腕が、わずかに震えている。


痛いのだろう、と胸が縮む。


何かできたらいいのにと、いつも思う。

けれど、そのたびにミュレットは自分の手を止める。


兵士の指先が寝台の縁を探るように動き、危うく器を落としかけた。

反射的に身を屈める。

伸ばしかけた手が、ほんの一瞬、兵士の腕の近くで止まった。


触れれば、何かが変わってしまう気がした。


理由を言葉にする前に、身体が勝手に固まる。


次の瞬間、医官がすぐ横へ入り、穏やかな声で兵士をなだめた。


「大丈夫です。動かないで」

「……すみません」


ミュレットは静かに器を持ち直し、一歩下がる。

誰にも気づかれていない。

それなのに、自分だけが妙に息苦しかった。


「手をお洗いください」


侍女に促され、水盆の前に立つ。

冷たい水に指先を浸した、その瞬間――またあの声がよみがえった。


『手が汚れている』


昨日の夕刻、庭の隅で出会った王太子。

名もない花の前で、うまく立ち回れなかった自分。

あのときの恥ずかしさと、妙な揺れが、また鮮やかに胸の奥を撫でる。


「ミュレット様?」


呼ばれて、はっとした。


「……申し訳ありません」


小さく微笑んでごまかし、濡れた手を布で拭う。

大丈夫。ちゃんと、いつもの顔はできている。

そう言い聞かせても、胸のざわめきはなかなか消えなかった。


医務室を出たあと、すぐに部屋へ戻る気になれず、渡り廊下をゆっくり歩く。

少しだけ、外の空気を吸いたかった。


石畳の脇に、名も知らぬ花が咲いている。

誰かが整えた花壇ではない。けれど、小さな花弁は朝の光を受けてやわらかく揺れ、そこだけが別の世界のように見えた。


「……きれい」


声に出すつもりはなかったのに、吐息のようにこぼれた。


花を見ているときだけは、胸を締めつけるものが少し遠ざかる。

何も問われないからかもしれない。

何も暴かれないからかもしれない。

ただ咲いているだけの美しさに触れていると、自分もほんの少しだけ、ここにいていいのだと思える。


そのまま視線を先へ向けたとき、ミュレットは思わず足を止めた。


庭の一角が荒れている。


草は伸び放題で、低木は形を失い、枯れた枝が風に鳴る。

かつては人の手が入っていた場所だと分かるからこそ、その乱れは余計に目についた。


戦のあと、後回しになったのだろう。

責める気持ちはない。

人も物も足りない中で、庭は優先されるべきものではなかったはずだ。


それでも、目をそらせなかった。


「……もったいない」


呟いてから、自分で少し驚く。

ただ荒れているからではない。

ここは本当なら、もっと息づける場所だったはずだと分かってしまったからだ。


冬に強い花を入れれば、寒い季節でも景色は寂しくならない。

薬草を少し混ぜれば、医務室の助けにもなるかもしれない。

背の高い草木と低い花を整えれば、見る者の心も少しほどけるはずだ。


次々に形が浮かぶ。

その鮮やかさに、ミュレットは我に返った。


何を考えているのだろう。

ここはまだ自分の場所ではないのに。

口を出せる立場でもないのに。


ただ置いてもらっているだけの身で、庭をどうこうしたいなど、ひどく身の程知らずに思えた。


けれど胸の奥では、別の声が小さく囁いている。


このままでは惜しい、と。


医務室で見た疲れ切った顔がよみがえる。

城の中には、まだ戦の名残が濃く残っている。

身体に傷を負った者だけではない。誰もが少しずつ、気を張ったまま生きている。


もし、この庭が整えられたなら。

ほんのひとときでも、足を止めて息をつける場所になるのではないか。


花は無力ではない。

少なくとも、ミュレットはそう信じていた。


胸元でそっと指を組む。


怖い、と思う。


自分から何かを望むことは、まだ少し怖かった。

目立てば目立つほど、いずれ失うと分かっているものに近づいてしまう気がする。

それでも、何も言わずに通り過ぎるのは、もっと苦しかった。


「……明日、もう一度見に来ましょう」


誰に聞かせるでもなく呟く。

すぐに何かを変えられるわけではない。

進言する勇気が出るかも分からない。

それでも、せめてよく見てみたいと思った。


どこに何が足りないのか。

どんな花なら、この場所で息づけるのか。


ここはまだ居場所ではない。

それでも、あの庭をこのままにしておきたくない。


そしてミュレットは、胸の奥で小さく息を呑む。


――明日、あの人に会うかもしれない。


その予感だけが、夜までずっと消えなかった。




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