傷ついた国に咲く
クレスティア王国は、長く傷を抱えた国だった。
北には冬ごと魔獣が牙を剥く山脈。
東には巨大な結界網を誇るグランツェル帝国。
豊かな土地と古い文化を持ちながら、この国は何度も争いに晒され、そのたびに人も城壁も、誇りの一部までも削られてきた。
それでも滅びなかったのは、王国の中央に、たったひとりの男がいたからだ。
敵陣を裂き、退路を断ち、強固な結界すら斬り落とす。
戦場でその力を見た者は、王族としてではなく、ただ畏れを込めて彼を呼ぶ。
断界王。
アラン・クレスティア。
その名が上がるだけで兵は奮い立ち、敵は顔色を変える。
だが、戦に勝ったからといって、国の傷が消えるわけではなかった。
焼けた村は戻らず、家を失った者たちは明日をつなぐのに精一杯で、王城の医務室には戦後になっても癒えきらない痛みが絶えない。
庭園もまた同じだった。
遠目には整って見えても、近づけば戦時に薬草畑へ転じた名残がそこかしこに残っている。
その庭の隅に、名を持たない花が咲いていた。
白にも淡い青にも見える花弁。
風が吹けばこぼれそうなほどか細いのに、寒さの中で咲き残り、翌年もまた同じ場所に芽吹く花。
薬効はない。
珍しくても、役に立つとは言われない。
だから誰も、その名をつけようとしなかった。
ミュレットが王城へ来たのは、冬の気配が濃くなり始めた頃だった。
彼女は戦で衰退した伯爵家の娘で、王家からは保護預かりと家名整理のためと説明された。
けれど、その言葉をそのまま信じるほど幼くはない。
行き場のない者を城内に置く。
消えかけた家名を都合よく整える。
聞こえはいいが、要するに彼女は、どこにも属しきれない者として招かれたのだ。
厚遇もされない。
粗末にもされない。
ただ、壊してはならない古い器のように、少し距離を置いて扱われる。
与えられた役目は、薬草園と調合室、それに医務室の補助。
人前に立たずに済み、沈黙のまま手を動かせる仕事だった。
誰かの視界に必要以上に残らずに済むその立場は、今のミュレットにはむしろ都合がよかった。
王城へ来て三日目の夕刻。
医務室からの帰り道で、ミュレットはその花を見つけた。
薬草に紛れ、誰にも顧みられぬまま咲いている小さな花。
しゃがみ込んでよく見れば、踏まれかけた細い茎の根元から、若い芽がふたつ、寄り添うように伸びている。
「……あなたも」
花へ向けた言葉だったのか。
それとも、家を失い、名だけを引きずってここへ来た自分自身へ向けたものだったのか。
ミュレットにも分からなかった。
彼女は裾を汚すのも構わず枯れ草を払い、そっと土を寄せる。
ほんの少し水が足りない。あとで桶を持ってこよう。
そんなふうに考える時間だけが、今の彼女には静かだった。
背後で靴音が止まるまでは。
侍女の忙しない足音とも、騎士の重い軍靴とも違う。
静かなのに耳に残る、迷いのない足取り。
振り返る前に分かった。
この城で、その存在に気づかぬ者はいない。
アラン・クレスティア。
立ち上がろうとして少し遅れ、土に触れていた指先を隠すように握り込み、慌てて頭を下げる。
「……申し訳ありません。すぐに下がります」
「いい」
低く短い声だった。
それだけで、空気の張りが変わる。
「その花は、何という」
問いは彼女ではなく、足元の花へ向けられていた。
「……名前はありません」
「ないのか」
「図鑑にも載っていません。数が少なくて、誰も気にしないので」
「薬にもならない?」
「はっきりした効き目はないそうです」
名がない。
数が少ない。
役に立たない。
花のことを話しているはずなのに、自分のことまで言い当ててしまったような気がして、胸が少し痛んだ。
ミュレットは目を伏せたまま、小さく言う。
「……ただ、気づく人がいなかっただけかもしれません」
沈黙が落ちた。
責める沈黙ではなかった。
切り捨てる沈黙でもない。
ただ、その言葉をそのまま受け取っているような、静かな間だった。
やがてアランが、ごくわずかに身を屈める気配がした。
長い指先が花に触れる寸前で止まり、影だけが花弁の上に落ちる。
「そうか」
たったそれだけ。
けれどミュレットの胸は小さく揺れた。
この人は、見下ろさない。
慰めもしない。
けれど、そこにあるものを最初からなかったことにはしない。
ほんの少しだけ顔を上げる。
近くで見るアランは、研ぎ澄まされた刃のように美しかった。
冷たい光を宿す眼差し。
立っているだけで周囲を従わせる威圧感。
なのにその奥に、誰にも触れられていない静かな孤独があるように見えた。
この人もまた、ひとりの人間としてより先に、役目だけで見られてきたのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが軋む。
だめだ、とどこかが告げた。
この人を知ってはいけない。
自分のような者が、この人の視界に残るべきではない。
「水を持ってきます」
逃げるように告げると、アランは止めなかった。
ただ、背を向ける直前、低く言った。
「手が汚れている」
きょとんとして視線を落とす。
土を払っていた自分の指先は、たしかに薄く汚れていた。
「も、申し訳ありません」
咄嗟にそう言ってから、余計に恥ずかしくなる。
どうにかしなければと、懐から小さな白いハンカチを取り出し、そっと差し出した。
「……あの、よろしければ」
その瞬間、アランが沈黙した。
差し出されたハンカチと、ミュレットの顔を見比べるようなわずかな間。
ほとんど動かない表情に、はっきりとした困惑だけが浮かぶ。
「あ……」
違う。
そういう意味ではなかったのだ。
手を引っ込めかけたとき、アランがわずかに眉を寄せた。
「違う」
「……え」
「その手だ」
彼が視線を落としたのは、自分の手ではなく、ミュレットが握り込んだ指先だった。
ようやく意味が分かる。
自分の手が汚れているから、先に洗え。
ただ、それだけのことだった。
叱責ではない。
見苦しいと咎めたのでもない。
それなのにそのひと言は、王太子が誰かにかける言葉より、ずっと小さく個人的な響きを持っていた。
「……失礼しました」
ハンカチを胸元へ戻しながら、ますます顔を上げられなくなる。
恥ずかしい。
気まずい。
それなのに、どうしてだろう。少しだけ、うれしい。
「洗ってまいります」
今度こそ逃げるようにその場を離れる。
その背を、アランの視線が追っていたことを、彼女は知らない。
そしてアラン自身もまた、名もない花の前でしゃがむその娘が、なぜこんなにも目に残るのか、まだ知らなかった。
傷を抱えた国の庭で、名もない花のそばにふたりは立った。
その出会いが、まだ誰にも名づけられないまま、静かに始まっていた。




