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Episode 09. 夜の報告



晩餐会が終わるころには、王城の華やぎもようやく息をつきはじめていた。


客人たちはそれぞれに用意された部屋へ引き、侍女たちは後片づけに追われ、楽師たちの音もいつしか止んでいる。

磨き上げられた廊下に残るのは、遅くまで続いた酒と灯りの気配だけだった。


セレスティアは会場脇の回廊に立ち、最後の客の背が見えなくなるのを確認してから、小さく息を吐いた。


今夜の持ち場は、思っていた以上に神経を使った。

表向きは案内役の補助と会場周辺の警備。

だが実際には、それだけではなかった。


ディルクから直々に言われた言葉が、まだ耳の奥に残っている。


「ミュレットの近くを離れすぎるな」

「護衛と分かる形にはするな」

「ただし、何かあれば必ず上げろ」


あのディルクが、わざわざ個人の名を出してそこまで言うのは珍しい。

朝は半ば不思議がるような気持ちで聞いていたが、今はもう理由が分かる。


回廊の柱にもたれ、セレスティアは今夜の場面を思い返した。


サンダレイン第一王子グレン。

道に迷ったという体裁で、ミュレットに声をかけた。

強引ではなかった。

軽薄でもなかった。

むしろ感じのよい青年だった。


だからこそ厄介だと、セレスティアは思う。


ミュレットは、露骨な相手なら身を引ける。

だが、穏やかで礼を失さず、やわらかく踏み込んでくる相手には弱い。

押し切られるというより、断るタイミングを失うのだ。


今夜のあれも、まさにそうだった。


「……報告、上げないとね」


ひとりごちて、セレスティアは踵を返した。




控えの回廊はすでに人が少なかった。


広間から離れるにつれ、足音だけが静かに響く。

その先、壁際の燭台の下にディルクの姿があった。


近衛騎士にして副官。

今夜も表には出すぎず、だが必要なところには必ず目を配っていた男だ。

疲れているはずなのに、立ち姿に乱れはない。


セレスティアの気配に気づくと、ディルクはわずかに視線だけを向けた。


「戻ったか」

「ええ」

「何かあった顔だな」


いきなり言い当てられ、セレスティアは片眉を上げた。


「顔に出てた?」

「少し」


相変わらず無駄のない返答だった。


セレスティアは周囲に人の気配がないことを確かめてから、ひとつ息をつく。


「報告したほうがいいと思って」

「ミュレット様か」

「話が早くて助かるわ」


ディルクは何も言わない。

ただ続きを促すように、静かに待っている。


「会場脇の回廊で、サンダレインの第一王子に声をかけられてた」


そのひと言で、空気がわずかに引き締まった気がした。


「道が分からないって言って、会場まで案内させてたわ」

「それだけか」

「最初はね」


セレスティアは腕を組み、記憶をたどるように少し天井を見た。


「回廊の花を見て、“たくさん並んでいても、なぜか目に残る花がある”って話をしてた」

「……花」

「そう。で、ミュレットに“目立たないようにしていても、目に留まるものはある”と」

「……」

「名前も聞いてたわ」


そこで初めて、ディルクの目がわずかに細くなった。


変化はそれだけだ。

だがセレスティアには十分だった。

この男は、表に出ないだけで、必要な情報には必ず反応する。


「第一王子は感じの悪い方ではなかった」

と、セレスティアは続ける。

「むしろ丁寧で、押しつけがましさもない。でも、だから余計に線を引きにくいタイプね」

「ミュレット様は」

「かなり緊張してた。道案内しただけ、って顔をしてたけど」


ディルクは短く息を吐いた。


「接触はそれきりか」

「ええ。少なくとも私が見た範囲では」

「他に見ていた者は」

「近くにはいなかったはず。でも、戻るところを見た侍女がいたかもしれない」


数拍、沈黙が落ちる。


遠くではまだ片づけの音が続いていた。

華やかな晩餐会の最中だったはずなのに、この一角だけ妙に静かだ。


やがてディルクが口を開く。


「今後の判断は」

「今夜は、もう一人にしないほうがいい」


セレスティアは即答した。


「相手が悪いって意味じゃない。でも、ミュレットはこういうのに慣れてない。感じのいい相手ほど、あの子は困るタイプよ」

「同感だ」

「でしょうね」


セレスティアは少しだけ肩の力を抜いた。


「正直、朝の指示を聞いたときは大げさだと思ったの」

「ほう」

「でも、ディルク様直々なんて珍しいし、何かあるんだろうとは思ってた」

「それで?」

「今なら分かる。あれは、必要だった」


ディルクは否定しなかった。


「殿下には?」


と、セレスティアが問う。


その瞬間だけ、ディルクはほんのわずかに視線を落とした。

考える間は短い。


「私から上げる」

「そう」

「引き続き、近くにいろ」

「もちろん」

「今夜だけで終わると思うな」

「分かってるわ」


セレスティアはそこで、少しだけ口元をゆるめた。


「ディルク様」

「何だ」

「気が重そうね」

「……そう見えるか」

「見えるわよ。珍しく」

「報告すべきことだ」

「でも、したくはない」

「そうだな」


あっさり認められて、セレスティアは少しだけ目を瞬いた。


「珍しい」

「相手が相手だ」

「第一王子だから?」

「それもある」

「それだけじゃなさそうだけど」

「お前も余計なところを見すぎる」

「誰に仕込まれたと思ってるのよ」


ほんの一瞬だけ、ディルクの口元に苦笑の気配がよぎる。


「持ち場へ戻れ、セレスティア」

「はいはい」


軽く手を上げて、セレスティアは身を翻した。

去り際に一度だけ振り返る。


「ミュレットは今、侍女たちの中にいるわ。しばらくは大丈夫」

「分かった」

「よろしく」

「ああ」


その短いやりとりだけで十分だった。


セレスティアの姿が見えなくなったあとも、ディルクはしばらくその場に立っていた。


気が重い。


それが、いちばん正直な気持ちだった。


報告すべきことではある。

伏せてよい話でもない。

サンダレイン第一王子グレンが、会場脇の回廊でミュレットに声をかけ、名を聞き、短いとはいえ言葉を交わした。

しかも相手は、ただ道に迷った客というには少し踏み込みすぎていた。


主君に上げるべき情報だ。


それでも気が重いのは、その中身のせいだけではない。

おそらくアランは疲れている。

今夜は終始、人の上に立つ者として立ち続けていた。

客の相手をし、国の顔として振る舞い、空いた時間には文官の報告まで受けていた。

ようやく終わったところへ、わざわざ引き止めてまで告げる話ではないのではないか、と一瞬だけ思う。


だが、思うだけだ。


見過ごせば、それは副官の怠慢になる。


ほどなくして、廊下の向こうに見慣れた影が現れた。


アランだった。


晩餐会の正装のまま、取り巻きもつけず、ただ静かに歩いてくる。

高い身分の者がひとりで歩いているのに、不思議と不用心には見えない。

むしろ、ひとりでいるほうが自然に思えるほど、その姿には隙がなかった。


おそらく自室へ戻るのだろう。


その足を止めるのは、やはり気が進まない。


それでもディルクは、柱の影から一歩出た。


「殿下」


低く呼びかけると、アランの足が止まる。

視線だけがこちらへ向いた。


「まだ起きていたのか」

「はい」

「急ぎか」

「……急ぎとまでは申しませんが」

「なら明日でいい」


やはり、そう来る。


アランは今にもそのまま歩き出しそうな顔をしていた。

表情に疲労を見せることはないが、こういうときの声は普段より少しだけ低く沈む。

長い付き合いでなければ気づかぬほどの差だ。


ディルクは短く息を吸った。


「ミュレット様のことで」


その瞬間、アランの目がわずかに細くなった。


歩き出しかけていた気配が、きれいに止まる。

露骨ではない。

だが、明らかに今までとは違った。


「……何だ」


低い声だった。

先ほどまでの「明日でいい」という切り捨てる調子は消えている。


ディルクは内心で、小さく息をついた。

やはりこうなる。


「晩餐会の途中、会場脇の回廊で、サンダレイン第一王子がミュレット様に声をかけました」

「……」

「道が分からないという体裁で、会場まで案内をさせていたようです」


アランは何も言わない。

ただ、続きを促すように視線を向けたまま立っている。


ディルクは言葉を選びながら続けた。


「接触は短時間です。人払いをした様子もなく、強引な様子もなかったと」

「誰が見た」

「セレスティアです」

「……そうか」


名前を出したことで、アランの中で情報の信頼度がすぐ定まったのが分かった。

セレスティアなら、余計な誇張はしない。


「会話の内容は」

「花の話を」

アランの眉が、ごくわずかに動く。

「花?」

「ええ。回廊の花を見て、“たくさん並んでいても、なぜか目に残る花がある”と」

「……」

「そこから、ミュレット様に名を尋ねたそうです」


沈黙が落ちた。


廊下は静かだった。

遠くで侍女たちが動く気配がかすかにするだけで、ここには二人分の呼吸しかない。


アランはすぐには何も言わなかった。


その沈黙の長さに、ディルクは少しだけ胃のあたりが重くなる。

この人は怒っているときほど静かだ。

だが今の沈黙は、それとも少し違う。


考えている。

いや、抑えているのかもしれなかった。


やがて、アランが低く問う。


「ミュレットは」

「かなり緊張していたようです」

「……そうか」

「案内を断ることはできなかったのでしょう。相手が相手です」

「分かっている」


短い返答だった。


その一言に棘はない。

だが、それ以上その話を繰り返すなという響きはあった。


ディルクはうなずく。


「セレスティアには、今夜は引き続き近くを離れないよう伝えてあります」

「それでいい」

「今後も同様に?」

「……しばらくはな」


その返答は速かった。

迷いがない。

疲れて自室へ戻ろうとしていた男が、そこだけは即座に判断する。


ディルクは、そこで少しだけ迷った。


ここで終えるべきだろう。

報告は済んだ。

必要な指示も得た。


それでも、つい口が動く。


「殿下」


呼ぶと、アランの視線が上がる。


「何だ」

「気が重いのは、報告の内容より、これを今お伝えすることでした」


アランは黙っている。


ディルクは苦笑に近い息を落とした。


「晩餐会の後でお疲れでしょうし、今夜でなくてもとは思いました」

「それでも言った理由は」

「……ミュレット様のこと、でしたので」


そこで、ほんのわずかにだけ、アランの目元の気配がやわらいだように見えた。


それは笑みと呼ぶにはあまりに薄い。

だが、まったくの無表情でもない。


「ディルク」

「はい」

「余計な気遣いをするな」

「善処します」


いつもなら、ここで終わる。

だが今夜のアランは、自室へ向かうために身を翻しかけて、またほんの少しだけ立ち止まった。


「……来客名簿を」

「はい」

「明日の朝、もう一度持ってこい」

「……かしこまりました」


短い指示だった。

理由は言わない。

誰の名を改めて確認したいのかも口にしない。


それでもディルクには分かった。

今この場で、もう一度見たくなったのだろう。


「では、失礼いたします」

「ああ」


アランは今度こそ歩き出す。

自室へ戻る背はいつも通り整っていて、疲れも感情も見せない。

ただ、足取りの静けさの奥に、考えごとを抱えた気配だけが残っていた。


その背を見送りながら、ディルクはひとり小さく息をつく。


以前のアランであれば、晩餐会の終わりにこんな報告を上げても、反応はもっと事務的だっただろう。

必要なら聞く。

必要がなければ明日に回す。

それだけだ。


だが今夜は違った。


そして、おそらくもっとおかしいのは、自分のほうだ。


そもそも自分が、晩餐会の後にこんな話を抱えて主君の足を止めること自体、以前ならしなかったはずだ。

他国の王子が誰に声をかけたかなど、よほどのことがなければ、わざわざ夜の終わりに持ち込む話ではない。


そこまで考えて、ディルクはふっと笑みをこぼした。


らしくないのは、自分も同じかもしれない。


壁の燭台の火が、静かな廊下にやわらかい影を落としている。

ディルクはその光の中で背筋を伸ばし直し、次に確認すべきことを思い浮かべながら、自分の持ち場へ戻っていった。



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