Episode 10. 眠りの遠い夜
その夜、自室へ戻っても、アランはすぐには休まなかった。
上着を脱ぎ、手袋を外し、机の上に置かれたままの書類へ目を落とす。
灯りは静かで、部屋の中には紙をめくる音ひとつない。
晩餐会の喧騒は遠く、ようやく王城も眠りへ向かい始めているはずだった。
それでも、思考だけが妙に澄んでいた。
サンダレイン第一王子、グレン。
道に迷ったという体裁で、ミュレットに声をかけた。
会場脇の回廊で、短い会話を交わした。
名を聞いた。
そこまで聞いた時点で、十分だった。
アランは椅子に腰を下ろし、肘掛けに片肘を置いたまま、しばらく動かなかった。
疲れている。
身体はそう告げている。
だが、眠るには少しばかり頭が冴えすぎていた。
回廊の灯りの下に立つミュレットの姿が、不意に浮かぶ。
今夜の彼女は、普段よりもずっと人目を引いた。
派手ではない。むしろ控えめだった。
それなのに、目に留まる。
静かで、柔らかくて、こちらへ寄ってくるような華やかさはないくせに、気づけば視線が向いている。
案内役としては適している。
そう報告されれば、その通りだと思う。
実際、あの庭を最も理解しているのは彼女なのだから、客に問われたとき、前へ出るのは理にかなっている。
理にかなっている。
そのはずなのに、胸の内に残るものは、理屈とは別の場所にあった。
名を聞いた。
その事実だけが、妙に引っかかる。
ただの礼だと言われれば、それまでだ。
客人が案内役の名を問うこと自体、何もおかしくはない。
しかも相手は王族で、無礼もなかったという。
それでも、気に入らない。
そこまで考えて、アランはゆっくり息を吐いた。
気に入らない、など。
ひどく幼い感情だと、自分でも思う。
グレン王子が何を考えていたのかは分からない。
ただ、少なくとも目に留めたのだろう。
名を覚えると言う程度には。
昨日、庭でミュレットに言った言葉を思い出す。
名がなくとも、咲いていれば人は見る。
端に控えていれば済む相手ばかりではない。
あの時点で、すでに分かっていたのかもしれない。
彼女が端に隠れようとしても、そうはできない場面が来ることを。
静かな部屋の中で、アランは目を閉じた。
回廊で名を呼んだ朝のことも思い出す。
柱のそばで固まった顔。
肩を揺らして振り向いた仕草。
具合は、と問うたとき、あまりに素直に緊張した声。
ああいう顔を、他の男に向けているのかと思うと、胸の奥に鈍いものが沈む。
嫉妬だと呼ぶには、あまりにみっともない。
だが、それ以外に何と呼べばいいのか分からなかった。
アランは目を開け、机の端に置かれた燭台の火を見た。
揺れている。
小さく、静かに。
折れもせず、消えもせず、ただひとところに灯っている。
ミュレットも、ああいうものなのかもしれないと、ふと思う。
目立とうとしているわけではない。
誰かを惹きつけようとしているわけでもない。
それでも、そこにあるだけで目に入る。
目を離したあとも、なぜか残る。
だから厄介なのだ。
アランは片手で額を押さえた。
国のことなら、もっと簡単だ。
敵の動きも、領地の問題も、人の配置も、考えれば答えは見える。
だが、こういうことだけは違う。
近づけるべきか。
遠ざけるべきか。
守るためにどこまで手を出してよいのか。
本人が選んだことを、どこまで止められるのか。
正しさで測ろうとするたびに、別の感情が邪魔をする。
しばらくして、アランはゆっくりと立ち上がった。
机の上には、まだ目を通すべき書類が残っている。
明日になれば、また王としての一日が始まる。
来客名簿を、もう一度確認しなければならない。
そう思いながら、彼は最後にひとつだけ、誰にも聞かれぬ声で呟いた。
「……面白くない」
それがグレン王子に向けたものなのか。
自分自身の感情に向けたものなのか。
アラン自身にも、はっきりとは分からなかった。
ただ、その夜はいつもより少しだけ、眠りが遠かった。




