Episode 11. 一度きりの茶会
晩餐会から一週間が過ぎても、王城にはまだサンダレインの使節団が滞在していた。
表向きは親交を深めるための訪問だったが、実際には交易路の見直しや物資の融通、今後の協力体制について細かな話し合いが続いているらしい。
海路を持たぬクレスティアにとって、港と海運を握るサンダレインとの関係は軽くない。
医務室でも、廊下でも、時折その国名を耳にすることが増えていた。
ミュレットはその事情を、深くは知らない。
けれど、この城にいる誰もがサンダレインを粗略には扱えないのだということだけは、なんとなく分かっていた。
その日、ミュレットは庭の一角で、乾かした薬草の束を整理していた。
春を迎えた庭は、少しずつ彩りを増している。
薬草の葉先はやわらかく育ち、名のない花もまた、変わらぬ場所で静かに咲いていた。
風は冷たさを残しながらも、もう冬のものではない。
昼過ぎの庭は比較的人も少なく、作業をするにはちょうどよかった。
手元に意識を落とし、余計なことを考えずにいられる時間は、ミュレットにとってひどく貴重だった。
「やっと見つけた」
不意に落ちた声に、ミュレットの指先が止まる。
振り返ると、そこにいたのはグレン王子だった。
晩餐会の夜と同じく、人目を引く明るさをまとっている。
けれど今日は、華やかな場に立つための装いではなく、やや力の抜けた軽やかな服装で、かえって親しみやすく見えた。
「グレン王子……」
思わず立ち上がり、慌てて一礼する。
「ごきげんよう、殿下」
「そんなにかしこまらなくていいのに」
「そういうわけには……」
ミュレットは小さく言葉を濁した。
正直に言えば、会いたくなかったわけではない。
けれど、会えばきっと落ち着かなくなると分かっていた。
晩餐会の夜、花の話をしながらこちらを見透かすように笑ったあの人は、どうにも苦手だった。
やさしいのに、逃がしてくれない。
グレン王子はそんなミュレットの戸惑いなど気にも留めないように、庭を見回して感心したように息をつく。
「やっぱりいい庭だね」
「皆で整えていますから」
「またそう言う」
くすりと笑われ、ミュレットは少しだけ視線を逸らした。
「今日は、その“皆”のひとりに頼みがあって来たんだ」
「……頼み、ですか」
「そう。お茶に付き合ってほしい」
あまりにも自然な口調で言われて、ミュレットは一瞬意味を理解できなかった。
「お茶……?」
「うん。せっかく再訪したのに、晩餐会のときの礼もまだだし」
再訪、という言葉にミュレットは目を瞬いた。
確かに使節団はまだ滞在しているが、わざわざこうして庭まで来るとは思っていなかった。
「そのようなことでしたら、侍女をお呼びします」
「侍女と茶を飲みたいわけじゃない」
「で、ですが……」
「君と話したいんだよ」
あまりにまっすぐで、ミュレットは返事に詰まった。
「私では、お相手は務まりません」
「そんなことはない」
「王子殿下と私では身分が違いすぎますし、それに、私には仕事も……」
「今は少し手が空いていた」
「それは……」
図星だった。
ちょうど薬草の整理がひと段落し、次の用事まで少しだけ時間が空いていたのだ。
ミュレットが言葉を失うと、グレン王子は勝ち誇るでもなく、ただ面白そうに目を細めた。
「断る理由を探している顔だ」
「探してなど……」
「探しているよ」
やわらかく言われるほど、逃げ場がなくなる。
ミュレットは小さく息を吸った。
「……晩餐会の夜も申し上げましたが、私はただ案内をしただけです」
「うん」
「ですから、その、礼をいただくようなことでは」
「礼ではなく、口実でもいい」
「口実……」
「君は理由がないと座ってくれなさそうだから」
あっさり言われてしまい、ミュレットはつい口をつぐむ。
この人はどうして、こうも人の退路を見つけるのが上手いのだろう。
押しつけがましいわけではない。
声も穏やかで、笑みも軽い。
それなのに、気づけばこちらが追い詰められている。
「本当に、少しだけでいいんだ」
「ですが」
「庭のことを聞きたい」
「それなら、庭師や騎士の方が」
「君がいい」
重ねて言われて、胸が落ち着かなくなる。
駄目だ。
これは駄目だと分かっているのに、うまく断れない。
ミュレットが困り果てて黙り込むと、グレン王子はわざとらしく肩を落とした。
それから大きくため息をついて、いかにも残念そうに空を仰ぐ。
「僕は海路のないクレスティアにとってはこれ以上ないほど重要な外交相手、グレン・サンダレインなんだけどなぁ」
あまりに芝居がかった言い方に、ミュレットはぽかんとした。
「え……」
「それなのに、こんなに丁重に頼んでも断られてしまうのか」
「そ、そのような言い方は……」
「困るよねえ。もし僕が傷ついて、港のひとつでも閉じてしまったら」
もちろん本気ではない。
声色からして、半分どころかほとんど冗談だ。
けれど冗談で済ませてよい身分の相手でもない。
ミュレットは完全に狼狽えた。
「と、閉じないでください……!」
「じゃあ、お茶を」
「そういう話では……」
「違う?」
「違います……!」
返しながらも、もう断るための言葉が崩れ始めているのを自覚してしまう。
グレン王子はそこで、ようやく少しだけ真面目な目になった。
「安心して。嫌がる相手を困らせたいわけじゃない」
「……」
「ただ、君は断るのが先に来すぎる。だから、少しくらい強引に行かないと、ずっと壁の外に立たされたままだ」
やわらかいのに、妙に核心を突く言葉だった。
ミュレットは思わず指先を握る。
確かに自分は、何かを受け取るより前に、一歩引く。
差し出されるものがあっても、それが自分に向いているとは信じきれず、先に逃げ道を探してしまう。
その沈黙を、グレン王子は否定も追及もせず待っていた。
風が吹く。
庭の草花が揺れる。
遠くで水路の水音が、かすかに耳に届く。
やがてミュレットは、ひどく小さな声で言った。
「……一回だけなら」
言った瞬間、自分で何を許したのか分からなくなった。
本当に小さな声だったのに、グレン王子ははっきり聞き取ったらしい。
ぱっと顔を明るくする。
「本当に!?」
次の瞬間、彼は勢いよく一歩近づき、ミュレットの両手を取った。
「え――」
驚きのあまり、ミュレットの呼吸が止まる。
温かい。
王子の手が、自分の手をしっかり包み込んでいる。
逃がさないというほど強くはないのに、あまりに無防備に触れられて、思考が真っ白になった。
「よかった、断られるかと思った」
「グ、グレン王子、あの――」
「一回でいい。約束だよ」
「ち、近いです……!」
慌てて手を引こうとした、そのときだった。
ふっと、空気が変わる。
冷えた、というより張り詰めた気配だった。
グレン王子の向こう側、庭へ続く石畳の先に、ひとりの男が立っていた。
アランだった。
いつからそこにいたのか分からない。
ただ、そこに立っているだけで、庭の温度がわずかに下がったように感じる。
整った顔に感情はない。
いつも通り、静かで、冷ややかで、何も読めない。
けれどその視線だけが、グレン王子の手の中にあるミュレットの両手を、まっすぐに見ていた。
心臓が、嫌なほど強く跳ねた。
「あ……」
声にならない音が唇からこぼれる。
ミュレットはとっさに手を引いた。
けれど遅い。
見られた、と直感で分かった。
グレン王子もまた、その気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。
そしてアランを認めると、驚いたように目を瞬いたあと、すぐにいつもの軽やかな笑みに戻った。
「これは失礼。クレスティアの王太子殿下自らお迎えかな」
その声音だけが妙に軽く響く。
アランは答えない。
ただ、グレン王子を一度見て、それからミュレットへ視線を移した。
その目にあるものを、ミュレットは読み取れなかった。
読めないはずなのに、胸の奥だけがひどくざわつく。
ほんの数秒の沈黙だった。
けれど、息が詰まるほど長く感じた。
やがてアランが、低く言う。
「……仕事中ではなかったのか」
誰に向けた問いなのか、一瞬分からなかった。
けれど次の瞬間、その視線が自分にあると気づいて、ミュレットははっとする。
「わ、私は、その……」
言葉がうまく出てこない。
「グレン王子に、お茶に、と……」
説明になっていないと、自分でも分かった。
グレン王子が横から楽しげに口を挟む。
「無理を言ってしまったのは僕のほうだよ」
「……そうか」
アランの返事は、それだけだった。
それなのに、なぜか空気は少しも和らがない。
グレン王子は気にした様子もなく肩をすくめる。
「では、約束どおり彼女を少し借りるよ」
「……」
沈黙が落ちる。
ミュレットは立ち尽くしたまま、どうしてよいか分からなかった。
逃げたいのに、逃げる先がない。
アランの前で、グレン王子とのやりとりをどう説明すればいいのかも分からない。
春の庭を風が渡る。
名のない花が、足元で小さく揺れた。
その静かな景色の中で、三人のあいだに落ちた沈黙だけがひどく不穏だった。




