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Episode 12. 端にいられない



春の庭を渡る風が、ひどく冷たく感じられた。


三人のあいだに落ちた沈黙は、ほんの数秒のはずなのに、ミュレットにはひどく長く思えた。

足元では名のない花が揺れているのに、その小さなやわらかさすら遠く感じる。


やがて、先に口を開いたのはグレン王子だった。


「無理を言ってしまったのは僕のほうだよ」


軽やかな声音だった。

空気を和らげようとしているようにも、わざと軽くしているようにも聞こえる。


アランはしばらく何も言わなかった。

ただ、グレン王子を一度見て、それからミュレットへ視線を移す。


「……そうか」


返ったのは、それだけだった。


けれど短いひと言の奥に、何が含まれているのか、ミュレットには分からない。

分からないのに、胸の奥ばかりが落ち着かなかった。


グレン王子は肩をすくめて笑う。


「では、約束どおり少し借りるよ。安心してほしい、決して傷つける気はない」


冗談めかした口調に、ミュレットはますます居たたまれなくなる。

そんなふうに言われる間柄ではない。

そう否定したいのに、今は何をどう言っても余計におかしくなる気がした。


アランは、なおも表情を変えなかった。


「客人の希望であれば、無下にもできない」


その声音には何の起伏もなかった。

王太子として、ただ当然の判断を告げているだけのように聞こえる。


けれどミュレットは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


アランは続ける。


「ただし、長くは引き留めるな。城内の者にも役目がある」

「もちろん」

グレン王子は軽やかに頷いた。

「少し話したら戻すよ」


アランの視線が、一瞬だけミュレットへ向く。


「……そういうことだ」

「は、はい……」


それだけだった。


けれど、その短い視線の重さに、ミュレットはうまく呼吸ができなかった。


アランはそれ以上何も言わず、身を翻した。

整った背中が遠ざかっていく。

止められなかったことに、なぜか少しだけほっとして、それ以上にひどく苦しくなる。


「ずいぶん怖がられてるな、僕」

グレン王子が、隣で苦笑まじりに言った。


「い、いえ……」

「違う?」

「……」

「違わない顔だね」


ミュレットは何も言えなかった。


怖いのではない。

きっと、そうではない。

ただ、あの人の前では何もかもがうまくできなくなるだけだ。


「行こうか」

と、グレン王子が穏やかに促す。


断れないまま頷くと、庭の奥にある小さな東屋へ案内された。

そこは晩餐会の喧騒から少し離れた場所で、春の光がやわらかく差し込む静かな一角だった。


すでに簡素な茶器が整えられている。

まさか本当に用意していたのかと気づいて、ミュレットはますます落ち着かなくなった。


「本当に一回だけだから、そんなに身構えないで」

グレン王子は椅子を引きながら笑う。

「毒でも盛るみたいな顔をしているよ」

「そ、そのようなつもりでは……」

「分かってる。ただ、君は本当に緊張しやすいね」


向かいに座るよう勧められ、ミュレットはためらいながら腰を下ろした。

茶の香りが、ほのかに春の風へ混ざる。


最初の話題は、本当に庭のことだった。


どの花がこの季節に強いのか。

冬を越えた薬草はどう扱うのか。

どうしてあの配置にしたのか。


グレン王子は思っていた以上に熱心に聞き、しかも答えを途中で奪わない。

ミュレットが言葉を探すのを待ち、穏やかに相槌を打つ。


話しやすい。

それは確かだった。


けれど、落ち着くかと問われると違う。


向かいにいるのに、どこか常に試されている気がする。

こちらが何を大事にし、何を隠し、どこで迷うかを、楽しげに見ているような目だった。


「君は、自分のことには驚くほど無頓着なのに」

ふいにグレン王子が言った。

「庭のことになると、言葉が途端に丁寧になる」

「……そうでしょうか」

「そうだよ。大事にしているものの前では、隠し方が変わるんだ」


ミュレットは茶器の縁へ視線を落とした。


「私は、そんな」

「あるだろう?」

「……」

「庭だけ?」


その問いに、喉の奥が小さく詰まった。


何を問われているのか、分からないふりはできた。

けれど、この人はそういう沈黙から目を逸らしてくれない。


ミュレットはかすかに首を振る。


「私は……あまり、何かを望んではいけない立場です」

「望んではいけない?」

「ここに置いていただいているだけですから」

「君はそう思ってるんだね」

「……違うのですか」

「違うと思うよ」


あまりにもあっさり言われて、ミュレットは目を上げた。


グレン王子は茶器を置き、穏やかな目でこちらを見る。


「少なくとも、そういうふうに“置かれているだけの人”なら、あんな庭は残らない」

「……」

「人は、自分に無関係なものへ、あそこまで手をかけない」


ミュレットは返事ができなかった。


そうかもしれない。

けれど、そう認めることもまた怖い。

自分がこの城に何かを残していいのだと思うことは、そのまま、この場所を手放したくなくなることと同じだった。


「難しい顔をするなあ」

グレン王子が少し笑う。

「責めていないよ」

「……はい」

「ただ、君は自分で思っているよりずっと、ここに痕跡を残している」


その言葉が、静かに胸へ沈んでいく。


気づけば、茶は半分ほど減っていた。

本当に長い時間ではない。

けれど、ミュレットにとっては十分すぎるほど落ち着かない時間だった。


「約束どおり、一回だけにしておく」

グレン王子が立ち上がる。

「でも、今日は来てくれてうれしかった」

「……私は、流されただけです」

「そういうことにしておこうか」


冗談めかして言いながら、彼は最後に少しだけ真面目な目になった。


「でも、断らなかったのは君だ」

「……」

「それは覚えておく」


その言い方が妙にまっすぐで、ミュレットはまた言葉を失う。


東屋を出ると、日が少し傾き始めていた。

戻り道は来た時よりもずっと短く感じた。

けれど足は軽くない。

むしろ、何かを胸に抱えたぶんだけ重い。


グレン王子は会場へ続く回廊の手前で足を止めた。


「ここでいい」

「はい」

「また話そう、ミュレット」

「……それは」

「断る?」

「……」

「やっぱり難しい顔をする」


くすりと笑い、グレン王子は軽く手を上げて去っていった。


その背が見えなくなるまで見送ってから、ミュレットは深く息を吐いた。


一回だけ。

そのはずなのに、何ひとつ軽くなっていない。


「ミュレット様」


低い声がして、びくりと肩が揺れた。


振り返ると、そこにはセレスティアが立っていた。

どこか言いたいことを山ほど抱えた顔をしている。


「……戻られましたか」

「ええ」

「一回だけ、だった?」

「たぶん……」

「たぶん?」

「お、お茶は一回だけよ」


セレスティアは深々とため息をついた。


「あとで聞くわ」

「今ではなく?」

「今だとたぶん、あなたがちゃんと答えられない顔してる」

「……そう見える?」

「見える」


その即答に、ミュレットは小さく肩を落とした。


「ひとまず部屋へ戻りなさい」

と、セレスティアが言う。

「顔、整えてから医務室でも庭でも行ったほうがいい」

「そんなに変?」

「ええ、だいぶ」

「そ、そう……」


返事をしながらも、胸の奥は落ち着かないままだった。


それでも、その日の残りの仕事は待っている。

いつまでも庭先で立ち尽くしているわけにはいかなかった。


ミュレットは静かに頷き、自室へ向かって歩き出す。


けれど、部屋へ戻る途中。

人の気配のない石廊の角を曲がったところで、ふいに足が止まった。


窓辺に、アランが立っていた。


いつからそこにいたのか分からない。

ただ、こちらへ視線を向けたその瞬間、息が詰まる。


静かな横顔。

読めない目。

けれど、その場の空気だけがわずかに冷えている。


ミュレットは反射的に背筋を伸ばした。


「アラン様……」

「戻ったか」


それだけの問いだった。

なのに、うまく返事ができない。


「は、い……」

「茶は」

「……終わりました」


短い沈黙。


アランは窓辺から動かないまま、低く言った。


「そうか」


そのひと言で終わるのだと思った。

けれど、次の言葉が静かに落ちる。


「聞くが」

「……はい」

「お前は、あの王子と茶を飲みたかったのか」


心臓が、大きく跳ねた。


責める声ではない。

怒っているふうにも見えない。

それでも、逃がさない問いだった。


ミュレットは唇を開き、すぐには答えられない。


飲みたかったのか。

そう問われれば、違う。

では嫌だったのかと問われれば、それも少し違う。


断れなかった。

戸惑った。

押されて、流されて、座ってしまった。


けれど、その全部をどう言えばいいのか分からない。


「……分かりません」

ようやく出た声は、ひどく小さかった。


アランの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「分からない?」

「断ろうとは、しました」

「……」

「でも、うまく断れなくて」

「それで座った」

「はい……」


アランはしばらく黙っていた。


窓の外では、庭の草木が夕方の風に揺れている。

あまりにも静かで、ミュレットは自分の鼓動だけが不自然に大きく聞こえた。


少しの沈黙のあと、アランが静かに言う。


「ミュレットは押されると引くべきところで引けない」

「……」

「それに、自分は端にいれば済むと思っている」


ミュレットは指先を強く握りしめた。


昨日の言葉が、そのまま胸へ返ってくる。


端に控えていれば済む相手ばかりではない。


アランは続ける。


「晩餐会の前に忠告をした」

「……はい」


低く、抑えた声だった。

責めるようではない。

けれど、逃げ道を残さない響きだった。


ミュレットは唇を噛み、ようやく声を絞り出す。


「…………でも」

「何だ」

「それは、クレスティアのためになるのでしょうか」


言ってしまった、と遅れて思った。

けれど、もう引っ込めることはできなかった。


ミュレットは視線を伏せたまま続ける。


「サンダレインは、この国にとって大切な相手です」

「……」

「グレン王子が私に好意的でいてくださることが、少しでもこの国のためになるのなら」

「……」

「私は、それを無下にしてよい立場では――」


最後まで言い切る前に、気配が変わった。


ひたり、と靴音が近づく。


ミュレットが顔を上げるより先に、アランが目の前まで来ていた。

そのまま、彼女の横の壁へ手をつく。


逃げ道が、消える。


「あ、あの」


息が詰まる。

近い。

近すぎる。


アランの体温も、衣擦れのわずかな音も、ひどくはっきり感じる距離だった。


「アラン様……」


何をされるのか分からなくて、ミュレットは思わず目を固く閉じた。


けれど耳に届いたのは、低く掠れた声だった。


「もう行くな」


「………………え?」


思わず目を開ける。


すぐ目の前に、アランの顔があった。

こんなに近くで見るのは、はじめてだった。

冷たく整っているはずのその眼差しが、今はわずかに揺れている。


「……あの男との茶会」

「……」

「グレン王子は、俺より口が達者だ」


ミュレットは息をのむ。


「女は、ああいう男が皆好きなことも知っている」

「……」

「ミュレットも…………」


そこで、言葉が一瞬だけ止まる。


そのわずかな詰まりが、かえって胸を強く打った。


「わた、し?」


声が震える。


アランの手が、そっとミュレットの頬に触れた。


熱い、と思った。

自分の頬がなのか、アランの指先がなのかも分からない。


「え、え……」


硬直したまま動けない。

逃げたいのに、逃げたくない。

何も分からないのに、目だけは逸らせなかった。


アランは、そんなミュレットをまっすぐ見つめている。


「俺をみてほしい」


その声は、命令のようでいて、ひどく切実だった。


ミュレットの呼吸が止まる。


ずっと遠い人だった。

誰より高い場所にいて、誰も気安く触れられず、何を考えているのかも見えない人だった。


それなのに今、こんなにも近くで、自分を見てくれと言う。


「アラン様……」

「回りくどいことを言っても、ミュレットには届かない」


低い声が続く。


「王子だから駄目だとか、客人だから気をつけろとか」

「……」

「そんな言い方では、また自分のせいにして引くだろう」


ミュレットは何も言えなかった。


その通りだった。

きっと自分は、そうする。


アランの親指が、頬にかかった髪をかすめる。


「だから、もういい」

「……」

「俺は、ミュレットがあの男と親しくするのが面白くない」


胸の奥が、音を立てるように揺れた。


「クレスティアのため、などとお前は言うが」

アランの目は少しも逸れない。

「そんな理屈で見ていられるほど、俺はできていない」


ミュレットの唇が、かすかに震える。


「……それは」

「……あの男に手を取られて」

低い声が、ひどく静かに落ちる。

「茶を飲む約束をしたのを見た」


その一言で、あの庭の光景が鮮やかによみがえる。

グレン王子の手。

風に揺れる花。

そして、石畳の先に立っていたアラン。


「俺は、ミュレットが考えているような男ではない」


そこまで言って、アランは一度だけ目を伏せる。

けれどすぐに、またミュレットを見た。


「断れ」


先ほどより短く、はっきりとした声だった。


「……」

「相手が誰であってもだ」


ミュレットの喉が小さく鳴る。


「でも……」

「嫌なら断れ」

「……」

「困るなら、俺を呼べ」


その言葉に、ミュレットは目を見開いた。


俺を呼べ。


あまりにもまっすぐで、あまりにも強い言葉だった。


「ミュレットは、俺を遠いと思っているのだろう」

「……っ」

「それでもいい」

「……」

「それでも、他の男のところへ行くくらいなら、俺を呼べ」


もう、息の仕方が分からなかった。


胸が痛い。

苦しい。

うれしい。

こわい。


いくつもの感情が一度に押し寄せてきて、何ひとつ整理できない。


「返事は」


アランの声が、ひどく低く落ちる。


ミュレットは唇を開き、何度か失敗して、ようやく小さく答えた。


「……はい」


その返事を聞いた瞬間、アランの目からわずかに力が抜けた。

初めて見るほど、ほんの少しだけ。


けれど次の瞬間には、彼はもういつもの静けさを取り戻していた。


頬に触れていた手が離れる。

壁についていた腕も引かれ、二人のあいだにわずかな距離が戻る。


それが急に心もとなくて、ミュレットは思わず指先を握りしめた。


アランは一歩退き、低く言う。


「戻れ」

「……はい」


ただ、それだけだった。


けれど今度は、先ほどまでのように突き放される感じはしなかった。

むしろ、大事なものだけを無理やり手渡されて、どう抱えればいいのか分からないような心地だった。


アランは身を翻し、静かに歩き去っていく。


整った背中。

迷いのない足取り。

それなのに、さっきたしかに揺れていた瞳だけが、ミュレットの胸から離れなかった。


ひとり残された回廊で、ミュレットはしばらく動けなかった。


頬にはまだ、触れられた熱が残っている。

耳の奥では、低い声が何度も繰り返されていた。


俺をみてほしい。


断れ。


困るなら俺を呼べ。


窓の外では、夕暮れの庭が静かに色を変えはじめていた。

名のない花が、風に揺れている。


その小さな揺れを見つめながら、ミュレットはそっと胸元に手を当てた。


静かではいられないのは、自分の周りだけではないのかもしれない。


そんな考えがよぎってしまったことを、彼女はもう、前のようには否定できなかった。



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