Episode 13. 見えない七日
春へ向かう途中の季節は、やさしいようでいて油断ならない。
昼間の日差しはやわらかく、庭に出れば草花は少しずつ色を増していく。
けれど朝晩はまだ冷え込み、北の山から下りてくる空気は骨の芯を静かに冷やした。
こういう時期は、城でも時折風邪が流行る。
王城は広く、人の出入りも多い。
侍女も騎士も文官も、誰かがひとり咳をすれば、数日のうちに似たような声があちこちで聞こえるようになる。
医務室には、軽い熱を出した者、喉を痛めた者、咳の止まらない者が、入れ替わり立ち替わり訪れていた。
けれど、そうした風邪は、この土地の者にとっては珍しいものではない。
休みを入れ、水気を避け、薬湯を飲めば、数日で引くことも多い。
問題は、慣れていない者だった。
ミュレットが王城へ来て、まだ半年も経っていなかった。
しかも彼女は、南のほうの比較的暖かい地域の出だ。
冬の厳しさも、石造りの王城に染みる冷たさも、この土地ほどには知らない。
その違いが、よりによって季節の変わり目に出た。
その日の朝、ミュレットは少しだけ喉に違和感を覚えていた。
けれど、医務室には風邪気味の者が多く、補充すべき薬草も器も足りていなかった。
庭にも見ておきたい芽がある。
少し身体が重い気はしたが、熱があるほどではないと思った。
部屋へ戻れと言われることもなかった。
それなら、動ける範囲でやればいい。
そう思って、いつも通りに手を動かしてしまった。
朝のあいだは、まだ何とかなっていた。
医務室では煎じた薬湯を運び、布を替え、棚を整える。
咳の混じる空気の中でも、やるべきことがあるほうが落ち着いた。
庭へ出れば、風は冷たいが、土の匂いが少しだけ気持ちを軽くする。
いつものように花壇を見て、薬草の葉先を確かめ、水の具合を確かめる。
少しくらい喉が痛くても、少しくらい身体がだるくても、
まだ大丈夫だと思っていた。
昼を過ぎるころには、寒気がしていた。
水路の近くでしゃがみ込んだとき、指先がやけに冷たかった。
立ち上がると、視界がわずかに揺れる。
「……あれ」
小さく呟いた、その直後だった。
「ミュレット?」
声をかけてきたのは、通りかかったセレスティアだった。
顔を上げたミュレットを見て、女騎士の表情が変わる。
「ちょっと待って。顔、真っ青」
「だ、大丈夫よ」
「どこが」
「少し、寒いだけで……」
「声も変」
「変では」
言い終える前に、咳が込み上げる。
押さえた手のひらが熱い。
なのに身体は寒い。
セレスティアは即座にミュレットの額へ手を当てた。
「熱あるじゃない」
「……え」
「え、じゃないわよ!」
反論する間もなく、半ば引きずるように医務室へ連れて行かれる。
途中で何度か「大丈夫」と言った気がするが、そのたびに「大丈夫じゃないから運んでるの」と一蹴された。
診た医務官は、静かに、しかし容赦なく告げた。
「風邪です」
「……やはり」
「やはり、ではありません」
「すみません……」
ミュレットはしゅんと肩を落とす。
年配の医務官はため息をついた。
「今の時期は城でも風邪が回ります。皆、少しずつ移し合っているようなものです」
「……はい」
「ですが、あなたの場合はそれに加えて、この土地の冷えがこたえたのでしょう」
「半年もおりますのに」
「半年で慣れるのは道順くらいです」
ぴしゃりと返される。
「この城の冷たさは、年を越してようやく身体が覚えるものですよ。南のほうの暖かい土地で育った方なら、なおさらです」
ミュレットは黙り込んだ。
「加えて、ここしばらく無理をしすぎましたね。庭と医務室を行き来し、休みも甘かった」
「……」
「もともと流行っているところへ、慣れない寒さと疲れが重なれば、悪化もします」
「すみません」
「謝るより休んでください」
その言葉に、ようやく小さく頷く。
王城勤めになってまだ浅い。
役に立ちたい気持ちが先に立つ。
ようやく少しずつ居場所ができてきたところで、寝込むのは情けなくもあった。
だが、問題は休むことだけではなかった。
「それから」
医務官は薬を調合しながら続ける。
「他の者にうつしてはいけません。しばらくは部屋で休み、接触は最小限に」
「はい」
「特に、出入りの多い方は駄目です」
「出入りの多い方……?」
「王太子殿下など」
ミュレットは目を瞬いた。
「殿下?」
「聞かれる前に言っておきます」
医務官はきっぱりと言う。
「もし来られても、入ってはいただきません」
「……来られませんよ」
「来られます」
「え」
「来られます」
妙に断定的な口調だった。
なぜそんなに確信があるのか。
ミュレットが不思議に思った、その数刻後に、その確信の理由を嫌というほど知ることになる。
夕刻。
ミュレットは医務室奥の休養用の小部屋で、半ば強制的に寝かされていた。
喉は痛いし、頭は重いし、熱で少しぼんやりする。
扉の向こうから、かすかな話し声が聞こえた。
最初は医務官同士の会話だろうと思った。
だが、次に落ちた低い声に、ミュレットははっと息を止める。
アランだった。
「様子を見るだけだ」
「なりません」
「顔を見るだけで済む」
「済みません」
「すぐに出る」
「入らせません」
あまりにもきっぱりした応酬に、ミュレットは目を瞬いた。
何が起きているのかと耳を澄ませる。
「殿下、風邪はうつります」
「分かっている」
「分かっていてなお入ろうとなさるのが問題です」
「……」
「王太子殿下が寝込めば、この城中がひっくり返ります」
「大袈裟だ」
「大袈裟ではありません」
複数の足音がする。
どうやら医務官たちが本気で扉の前を塞いでいるらしい。
「医務室では我々が主です」
年配の医務官が、ひどく立派な声で言った。
「患者を守るためにも、殿下は入ってはいけません」
「患者を守る?」
「ミュレット殿を休ませるためです」
「……」
「押し問答を聞かせてどうなさるおつもりですか」
「……」
そこで少しだけ沈黙が落ちる。
勝った。
そう思ったのか、医務官のひとりが気を緩めた気配がした。
その瞬間だった。
「なら、扉を開けろ」
「開けません!」
「一目でいい」
「だめです!」
「熱の様子だけ」
「熱の様子は我々が見ます!」
「お前たちは見ているだろう」
「殿下は見なくてよろしいのです!」
部屋の中で、ミュレットは布団を口元まで引き上げた。
何だろう、これ。
押し合いをしている。
本当に押し合いをしている。
扉の前で、王太子と医務官たちが、実に不毛な攻防を繰り広げているのが分かった。
「アラン様は入ってはいけません!」
「押すな」
「押しているのは殿下です!」
「押していない」
「押しています!」
「少しだけだ」
「少しでも押しは押しです!」
ついにミュレットは、熱でぼんやりした頭のまま、呆然としてしまった。
この城で最も強く、最も恐れられ、誰もが一歩引くあの人が、
今、医務官たちに全力で止められている。
しかも、止められても引いていない。
しばらくして、年配の医務官のとどめの一撃が落ちた。
「殿下」
「何だ」
「もしうつって寝込まれたら、ミュレット様は回復後に一生ご自分を責めます」
「……」
空気が、ぴたりと止まった。
それはたしかに、アランにとって最も効く言葉だったらしい。
しばし沈黙が続き、やがて低い声が落ちる。
「……毎日、報告を」
「承知いたしました」
それだけだった。
食事はどうする、薬はどうすると重ねることもなく、
アランはようやく引き下がったらしい。
足音が遠ざかる。
扉の向こうの気配が、少しずつ薄れていく。
部屋の中で、ミュレットは布団に包まれたまま、しばらく動けなかった。
熱のせいだろうか。
胸の奥が、じんわりと熱い。
自分のせいで押し問答をさせてしまった申し訳なさと、
それでも来ようとしてくれたことへの戸惑いと、
どうしようもなくうれしい気持ちが、全部一緒になっていた。
瞼を閉じると、先日のことまで思い出してしまう。
自分の名を呼ぶ、低い声。
近くで見たとき、ほんのわずかに揺れていた表情。
頬に触れた手の熱。
そして、言葉を失うたび目に焼きついて離れない、あの綺麗な横顔。
思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
熱がまだ残っているだけだと、自分に言い聞かせても無駄だった。
会ってはいけないのに。
来てほしいと思ってしまう。
それがもう、前みたいには否定できなかった。
その日から、一週間。
ミュレットは本当に休まされた。
最初の二日は熱が高く、薬を飲んでは眠り、目を覚ましてはまた眠る、を繰り返した。
三日目になると咳が少し落ち着き、四日目には起きて本を読める時間ができた。
だが部屋から出る許可は下りない。
食事はあたたかいものが運ばれ、薬湯も欠かさず用意された。
時折、医務官が妙に含みのある顔で「今日も殿下から確認がありました」と告げる。
「……確認、ですか」
「熱、咳、食事、睡眠について、十項目」
「そんなに細かく……」
「ええ、とても細かく」
ミュレットは返事に困る。
五日目には、薄い毛布が一枚増えた。
よく見ると、城で普通に使われるものより少し質がよい。
「これも殿下からですか?」
「さあ、どうでしょう」
医務官はにやりとした。
「たまたま、ちょうど良いものが見つかったのかもしれません」
絶対に違う。
そう思ったが、問い詰める元気もなかった。
熱が下がりはじめるころには、今度は妙に落ち着かなくなった。
会えない。
それは、思っていた以上に効いた。
庭の様子も気になる。
医務室の仕事も気になる。
けれどそれ以上に、ふとした拍子に思い出してしまう。
自分の名を呼ぶ、低い声。
近くで見たとき、ほんのわずかに揺れていた表情。
頬に触れた手の熱。
そして、言葉を失うたび目に焼きついて離れない、あの綺麗な横顔。
思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
熱がまだ残っているだけだと、自分に言い聞かせても無駄だった。
会ってはいけない。
風邪をうつしてはいけない。
それは分かっている。
分かっているのに、扉の向こうに低い足音が聞こえるたび、息をひそめてしまう自分がいる。
来ているのではないか、と。
実際、何度か来ていたのだろう。
医務官の表情があまりにも分かりやすかった。
だが、そのたびに止められていた。
「アラン様は入ってはいけません」と、きっとまた同じ押し問答があったに違いない。
そう思うだけで、申し訳なさより先に、少しだけうれしくなってしまう自分がいた。




