Episode 14. 花びらの茶会
ミュレットの風邪がようやく治り、王城にも春の気配がはっきり満ちるころになると、城内は少し浮き立った空気に包まれた。
冬を越えたのだ。
北の山から吹き下ろす風はまだ冷たい。
けれど、その冷たさはもう人を閉ざすためのものではなく、雪解けの匂いを運んでくるものへ変わっていた。
長く厳しい季節を抜けたことを祝うように、その年は王城内でしばらく市が開かれることになった。
中庭に面した回廊へ、各地から来た商人たちが店を連ねる。
布、香油、飾り細工、焼き菓子、乾いた果実、茶葉。
城仕えの者たちも、非番の騎士たちも、侍女たちも、仕事の合間に足を止めては品を眺めていた。
戦が終わり、ようやくこうした賑わいを楽しめる。
それだけで、誰もが少しだけやわらかな顔をしていた。
もっとも、その場にアランが足を止めることは、めったにない。
視察のついでに立ち寄っただけだった。
補給品と北方向けの物資に不足がないか、念のため目を通していただけで、買い物をするつもりなど初めからなかった。
そう、なかったはずだった。
「こちらは、今年いちばん人気の菓子でして」
商人が、声の調子を少し上げる。
アランの前に差し出されたのは、薄く焼き上げられた小さな菓子だった。
表面には細かな砂糖がきらめき、春の花びらを思わせる繊細な形をしている。
「口当たりが軽く、甘さもやわらかい。女性には特に好まれます」
「……」
「こちらの茶葉と合わせますと、香りが大変よく立ちまして」
隣に置かれた茶葉の缶が開かれる。
花のようにやさしい香りが、春の空気へふわりと溶けた。
アランは無言だった。
その後ろに控えていた女官たちと、近くにいた若い騎士たちが、顔を見合わせる。
そして次の瞬間、控えめながら、確かに聞こえる声量で囁いた。
「……ミュレット様がお好きそうな」
「ええ。あの方、甘さの重いものはあまり召し上がらなさそうですものね」
「この紅茶も、きっとお似合いかと」
ぴたり、と空気が止まる。
商人は事情を知らないらしく、にこやかな笑みを浮かべたままだ。
だが周囲の者たちは、しまった、という顔になっていた。
アランは、菓子を見る。
次に茶葉を見る。
それからまた、菓子を見る。
ひどく静かに。
ひどく真剣に。
その沈黙が長すぎて、商人はとうとう笑みを固めた。
「……で、殿下?」
「これと」
アランは低く言った。
「その茶を包め」
「は、はいっ」
女官たちが一斉にうつむく。
肩が小さく震えている者までいた。
笑いをこらえているのだと分かる。
アランはそれを見ないふりで、さらに菓子と茶葉を睨むように見下ろした。
まるで敵陣の布陣を見極めるときのような目だった。
何がそこまで彼を悩ませるのか、商人にはまったく分からない。
だが事情を知る者には痛いほど伝わっていた。
――完全に、あの方へ渡す気だ。
やがて包み終えられた菓子と茶葉を受け取ると、アランはそれを自分で持った。
女官が慌てて進み出る。
「お持ちいたします」
「必要ない」
「ですが」
「必要ない」
それで終わりだった。
誰にも持たせず、自分で抱えて歩き出す後ろ姿に、女官たちはとうとう小さく顔を伏せる。
「……本当にお持ちになるのね」
「しかもご自身で……」
「かわいい、なんて言ったら消されるわよ」
「でもあれは……」
「消されたいの?」
囁きはそこでぴたりと止まった。
同じころ、ミュレットは医務室で忙しく動いていた。
風邪の流行りは落ち着いてきたとはいえ、季節の変わり目で体調を崩す者はまだ多い。
薬湯の器を運び、棚を整え、布を替え、医務官の指示に従って必要なものを揃える。
庭へ出る時間は取れていたが、今日は朝から医務室のほうが立て込んでいた。
手が止まらない。
止める余裕もない。
だから、扉の外に立つ人影に最初に気づいたのは、ミュレットではなく、出入りしていた侍女や騎士たちのほうだった。
医務室の入口近くに、アランが立っている。
書類ではなく、包みを抱えて。
ただ静かに、そこで待っている。
当然ながら、皆、入りづらい。
「は、入られますか?」
通りかかった若い騎士が、緊張のあまり声を裏返らせた。
「いや、いい」
「し、しししっ、失礼いたしますっ!」
返事を聞くなり、騎士はほとんど飛び込むように中へ消えていく。
そのあとに続こうとした侍女たちも、アランの存在に気づいた瞬間、妙に背筋を正して出入りすることになった。
しばらくして、中から年配の医務官が出てきた。
アランを見るなり、深いため息をつく。
「殿下」
「何だ」
「中でお待ちください、こちらへ」
「ここでいい」
「あんな場所に殿下が立たれては、皆ここに入れなくなります」
アランは返事をしなかった。
否定もしなかった。
ただそのまま医務官に促され、医務室の奥までは入らず、室内の隅に用意された質素な椅子へ腰を下ろした。
質素とはいえ、王太子が座るにはあまりに簡素な椅子だった。
だがアランは気にした様子もない。
その視線は、すでに別のところへ向いていた。
補助として動き回るミュレット。
包帯を抱え、薬を運び、忙しなく行き来するその姿へ、ひどく自然に目が吸い寄せられている。
それを見た医務官は、またひとつため息をついた。
ちょうど近くを通ったミュレットの手から、包帯と塗り薬をひょいと取り上げる。
「これは私が持ちます」
「え、でも」
「よろしい。あなたは少しこちらへ」
何かを小声で告げられ、ミュレットはきょとんとした。
それから、ゆっくりと視線を動かす。
室内の隅。
質素な椅子。
そこに座るアラン。
目が合った。
ミュレットが固まる。
医務官が、さらに何かを小さく言う。
たぶん、「行ってきなさい」だとか、「これ以上皆が落ち着きません」だとか、そんな類のことだったのだろう。
ミュレットは包帯を持たぬ手を胸元でぎゅっと握り、ゆっくり、じりじりとアランのほうへ歩み寄った。
「……殿下」
アランは立ち上がる。
「忙しいか」
「少し、立て込んではおりますが……」
「終わるのを待つ」
「お待ちに……?」
「問題あるか?」
あまりにも当然のように言われて、ミュレットは返事に詰まった。
「その」
「何だ」
「何か、ご用でしょうか」
アランは手にしていた包みを少し持ち直した。
「市が出ていた」
「はい」
「菓子と、茶を買った」
「……まあ」
思わず目を丸くする。
アランが市で買い物をした、その事実だけで驚きなのに、それをわざわざ言いに来たらしい。
「時間が空いたら」
アランは淡々と続ける。
「茶を飲まないか」
ミュレットはしばらく言葉を失った。
「……私と、ですか」
「他に誰がいる」
「そ、そうですが……」
そうではある。
そうではあるけれど、あまりにも真っすぐで、心臓がついていかない。
「嫌か」
「い、いえ……!」
慌てて否定してから、さらに熱くなる。
医務官がこちらを見ていた。
呆れたような、けれどどこか面白がるような顔で。
「終わったら、参ります」
ようやくそう言うと、アランは短く頷いた。
「待っている」
「……はい」
それだけで話は終わった。
だがミュレットが持ち場へ戻っても、医務室の空気はしばらく妙に落ち着かなかった。
王太子が、待つ。
その事実だけで十分すぎるほど異常だった。
仕事がひと段落したのは、思ったより遅かった。
ミュレットが恐る恐る戻ると、アランは本当に待っていた。
姿勢を崩すこともなく、無駄口もなく、ただ静かに。
「お待たせいたしました」
「構わない」
「その……どちらで」
「俺の部屋へ」
「……お、部屋?」
そこで初めて、ミュレットは飲む場所をまるで確認していなかったことに気づいた。
自分でもどうかしていると思う。
気づいていたら、もう少し慌てていたはずなのに。
「ついてこい」
「は、はい……」
断る理由など、もうなかった。
アランの私室は、いつ見ても整いすぎていた。
余計なものがない。
磨かれた机、整えられた書棚、簡素だが質の良い調度。
部屋のすべてが持ち主の気性を表しているようだった。
そんな場所で、自分がお茶を飲むことになるなど、まるで現実味がない。
ミュレットは勧められた椅子へ座りながら、ずっと落ち着かなかった。
手は膝の上で揃えたまま、どう置いてよいかすら分からない。
アランは対面の小卓に茶器を整え、買ってきた茶葉を開ける。
花のようなやわらかな香りが、静かな部屋にふわりと広がった。
つぎに、包みを解く。
中から現れたのは、やはり花びらのような形をした菓子だった。
小さな器に盛られると、なおさら愛らしく見える。
春の花をそのまま卓へ運んできたようだった。
「……きれい」
思わず漏れた声に、アランの手が一瞬止まる。
「そうか」
「はい。もったいないくらいです」
「食べ物に、もったいないはない」
「殿下らしいお言葉です」
「そうか」
「でも、分かります」
そんなたわいないやりとりですら、胸が落ち着かなかった。
やがて、アランが茶を注ぐ。
湯気の向こうの横顔は、いつも通り静かで整っている。
戦場でも執務室でも変わらぬはずのその人が、今は自分のために茶を淹れている。
あり得ない光景だった。
「食べろ」
「……はい」
促され、ミュレットはそっとひとつ摘まむ。
さくり、と軽い音がした。
やさしい甘さがほどける。
重すぎず、くどくもなく、ふわりと香る茶の気配とよく合う。
思わず目を瞬いた。
「おいしい……」
そう言って顔を上げる。
その瞬間、アランはミュレットを見ていた。
静かに。
真正面から。
まるで、そのひと言を待っていたかのように。
胸がひどく鳴る。
「……そうか」
低い声が落ちた。
それだけなのに、どうしてこんなにうれしいのだろう。
ただお菓子を褒めただけだ。
それなのに、自分の言葉でアランがわずかに安堵したように見えてしまって、ミュレットは慌てて紅茶へ視線を落とした。
「紅茶も」
「あ、はい」
茶を口に含む。
花の香りが抜け、先ほどの菓子の甘さをきれいに流していく。
「……この紅茶も、本当に合います」
「商人がそう言っていた」
「よい商人です」
「そうか」
また少しだけ、空気がやわらぐ。
けれど、静かな時間はそれだけ危うかった。
向かいに座るアランを見ていると、余計なことばかり考えてしまう。
市で足を止めたこと。
菓子を選んだこと。
茶葉まで一緒に持ってきたこと。
そして、自分を待っていたこと。
全部、自分のためだ。
その事実が甘くて、苦しくて、ミュレットはどうしたらいいのか分からなくなる。
「……殿下」
「何だ」
「このお菓子を、お選びになったのは」
「皆が」
「え」
「ミュレットが好みそうだと、言っていた」
その答えに、ミュレットはしばらく固まった。
そういうことだったのか。
だからこの菓子なのか。
だからこの紅茶なのか。
そして、その声を聞いたうえで、アランは本当にこれを買ったのだ。
胸の奥がまた熱くなる。
それを隠すように、ミュレットは慌てて紅茶へ口をつけた。
「……そう、でしたか」
「苦手なものがあるか」
「いいえ! とても……」
言いかけて、声が小さくなる。
「とても、うれしいです」
その言葉に、今度はアランが黙った。
しまった、と思った。
こんなふうに素直に言うつもりはなかったのに。
沈黙が落ちる。
けれど不思議と苦しくはない。
ただ少しだけ熱を帯びた静けさが、部屋を満たしていく。
やがてアランが、ひどく静かに言った。
「……なら、よかった」
その声音はいつもと変わらないはずだった。
なのに、どこかだけ少しやわらかく聞こえた。
ミュレットはもう何も言えなかった。
言えばまた何かがこぼれてしまいそうで、怖かった。
ただ、小さな花びらの菓子をもうひとつ手に取る。
「殿下も、召し上がりませんか」
「甘いものはあまり好まない」
「でも、これなら軽いです」
「……」
「おすすめ、です」
その言葉に、アランは一瞬だけ迷うように目を細めた。
それから観念したように、ミュレットの勧めた菓子をひとつ摘まむ。
口に運ぶ。
短い沈黙。
「……どうでしょう」
「悪くない」
「本当に?」
「本当だ」
「よかった……」
その安堵した顔に、アランはほんのわずかに目を細める。
「もう少し甘いものだと思っていた」
「それは褒めておられますか」
「たぶんそうだ」
「たぶん、なのですね」
「そうだ」
そのやりとりに、二人とも少しだけ笑った。
ほんの一瞬。
けれど、その破壊力は十分すぎた。
先に顔を伏せたのはミュレットだった。
胸が苦しい。
うれしい。
恥ずかしい。
どうしていいのか分からない。
向かいでは、アランも同じように沈黙している。
表情は大きく変わらない。
けれど、少しだけ視線の置き場に困っているように見えた。
春の午後の光が、静かな部屋に落ちる。
花びらのような菓子と、やわらかな香りの紅茶。
向かい合って座る二人のあいだに落ちた沈黙は、今日はひどく穏やかだった。
その沈黙が心地よいと感じてしまったことを、ミュレットはまだ認められない。
けれど胸のどこかで、確かに思っていた。
――こんな時間が、終わらなければいいのに。




