Episode 15. 足の止まる問い
午後の王城は、午前とは違う種類の緊張をまとっていた。
文官たちは午後の会議に向けて書類を抱え、騎士たちは持ち場の引き継ぎに動く。
回廊を行き交う足音は絶えないのに、どこか全体としては静かだ。
それぞれが、自分の役目の中に意識を沈めている時間だった。
アランもまた、そのひとりだった。
次の会議では北方の備蓄と水路補修について話す予定になっている。
すでに頭の中では論点の整理が終わっており、あとは会議室に入り、必要な順に口を開けばいいだけだった。
その後ろを、ディルクが半歩下がってついていく。
「本日の議題は三件です」
「ああ」
「北壁沿いの備蓄、南の流通路、春季の兵配置」
「分かっている」
「水路については、先に補修区画を確定させたほうが」
「会議で決める」
短い応答。
いつも通りだった。
執務の合間、会議へ向かうアランは、余計なものをほとんど視界に入れない。
回廊で誰とすれ違おうと、立ち止まることはない。
見ていて、あまりにも無駄がない。
だからこそ、次の瞬間、ディルクはわずかに目を見開いた。
アランの足が、止まったのだ。
本当に、不意に。
何かに行く手を遮られたわけでもなく、呼び止められたわけでもない。
ただ、ある一点に意識を奪われたように、ぴたりと足が止まった。
ディルクはその視線の先を見る。
少し先の回廊の角。
庭へ続く小さな通路の脇に、ミュレットが立っていた。
その向かいには、若い騎士がひとり。
まだ鎧の馴染みきらない、いかにも新米と分かる顔立ちだった。
背筋だけは妙にぴんとしていて、けれど耳まで赤い。
だが、アランの目を止めたのは、その騎士だけではなかった。
ミュレットはいつも、長い髪をやわらかく下ろしている。
その髪が今日は珍しく後ろで束ねられ、すっきりとまとめられていた。
淡い色の小さな髪飾りまで添えられていて、光を受けるたび控えめにきらめく。
うなじが見える。
その事実を、アランは言葉にできなかった。
ただ、いつもとは違う彼女の姿が、妙に目に残った。
ひどく落ち着かない。
ああ、と思う。
ディルクは一瞬で察した。
嫌な予感ほど、当たる。
ミュレットは、手に抱えていた包みを持ち直しながら、少し困ったようにその騎士を見ていた。
おそらく医務室か庭へ向かう途中なのだろう。
邪魔にならぬよう立ち止まっているだけなのに、それがまた目を引く。
若い騎士は、明らかに緊張していた。
何度か口を開きかけては閉じ、ようやく思い切ったように声を絞り出す。
「あ、あの、ミュレット様」
ミュレットが小さく首を傾げる。
「はい?」
「その……」
騎士の喉が目に見えて上下した。
「恋人は、いらっしゃいますか」
その瞬間。
空気が、変わった。
少なくともディルクには、そう見えた。
隣に立つ主君の沈黙が、一段深くなる。
気配がひやりと冷える。
何も言っていないのに、周囲の温度だけが落ちたようだった。
ディルクは視線を動かさず、内心でだけ息をつく。
会議室へ向かう途中だ。
書類もある。
議題も待っている。
時間も押している。
だが、そんなものは今この瞬間、主君の意識の端にもないらしい。
アランは、ただ前を見ていた。
見ているのは、新米騎士でも、回廊でもない。
その問いを向けられたミュレット、そのひとりだけだ。
後ろ姿だけでも分かるほど、足が止まっていた。
進もうとしていない。
進めないのではなく、意識が完全にそちらへ向いている。
ここまであからさまなのは、さすがに珍しい。
新米騎士は当然、自分が何に気づいていないのかも分かっていない。
まだ続けようとしている。
「あ、いや、突然こんなことを伺うのは失礼だとは……」
しどろもどろになりながら、それでも止まれないらしい。
「ただ、その、もし、どなたもいらっしゃらないのであれば……」
ミュレットは完全に困っていた。
断るのが苦手な顔だ、とディルクは思う。
押されると引くべきところで引けない。
主君があれほど言ったのに、こういう場ではやはりすぐに返せない。
「ええと……」
ミュレットの視線が少し揺れる。
返答を探しているのだろう。
「その、お気持ちは……ありがたい、のですが」
声はやわらかい。
やわらかいが、そのぶん、新米騎士の希望まできれいに断ち切れていない。
まずいな、とディルクが思った、そのときだった。
「殿下」
ディルクが低く言う。
アランは視線を前から外さないまま答える。
「……五分でいい」
「承知しました」
それで十分だった。
次の瞬間、アランが歩き出す。
「何をしている」
低い声が落ちた。
回廊の空気が、一瞬で張りつめる。
新米騎士がびくりと肩を揺らし、振り返る。
ミュレットもはっとしたように目を上げた。
アランが立っている。
書類を持ったまま。
表情は静かで、冷たく整っていて、いつも通りに見える。
けれど、ディルクには分かった。
機嫌が悪い、というのとも少し違う。
これは、意識があまりに一点へ向きすぎている時の顔だ。
新米騎士は顔色を変え、勢いよく膝を折りかける。
「で、殿下!」
「質問に答えろ」
アランは淡々と言う。
「持ち場はどうした」
「は、はいっ、ただ今は引き継ぎの合間で――」
「その合間に、女を口説くのか」
「……っ」
新米騎士の顔が一気に真っ赤になる。
気の毒なくらいだった。
ミュレットが小さく息をのむのが聞こえた。
だがアランはそちらを見ない。
視線は騎士に向けたまま、低く続ける。
「余裕があるなら、南回廊の警備へ回れ」
「し、失礼いたしました!」
「返事ではない。動け」
「は、はいっ!」
若い騎士はほとんど飛ぶようにその場を去った。
残されたのは、ミュレットとアランと、そして半歩後ろのディルクだけだった。
沈黙が落ちる。
ミュレットは少し困ったように、けれどどこか戸惑ったようにアランを見る。
「……アラン様」
「何だ」
「今の方は、ただ……」
「分かっている」
きっぱりと返され、ミュレットは言葉を止めた。
アランはようやくミュレットを見る。
その視線はさきほど新米騎士へ向けていたものより、ずっと静かだった。
だが、静かなだけに、かえって逃げ場がない。
「ミュレット」
「は、はい」
「今のようなことは、よくあるのか」
「……え」
「答えろ」
ミュレットは目を瞬いた。
意味を理解した瞬間、頬がじわりと熱くなる。
「あの、その……」
アランは何も言わなかった。
急かしも、責めもしない。
ただ、ミュレットが逃げずに答えるまで、ひどく静かな目で待っていた。
その沈黙のほうが、かえって苦しかった。
「た、たまに……」
言った途端、自分で自分の声の小ささにいたたまれなくなる。
アランは、ひどく静かにミュレットを見た。
「たまに、あるのか」
「……」
「あんな対応をしているからだ」
「それは……」
「違うか」
違わない。
ミュレットは小さく視線を落とした。
アランの声は荒くない。責め立てもしていない。
けれど、だからこそ逃げ場がなかった。
「ミュレットは、立場や相手の気持ちを考えすぎる」
「……」
「相手は曖昧に返されると、少しは気があるかもしれないと勘違いをする」
「……はい」
「困るくらいなら、白黒はっきり断れ」
ミュレットは答えられないまま、さらに俯いた。
ディルクは後ろで黙っていた。
黙っているしかない。
会議へ向かう途中なのだ。
北方の備蓄がどうとか、水路補修がどうとか、ついさっきまで話していた。
だが今や、主君の頭の中にそんなものは残っていないらしい。
やがてアランが、低く言った。
「さっきの男にはディルクが言う」
後ろでディルクは無言のまま額に手を当てた。
参った、という顔を一瞬だけして、すぐに表情を消す。
「……で、でも」
ミュレットが慌てて顔を上げる。
「それではディルク様が――」
「次は、断れ」
言いかけた言葉の上から、アランの声がかぶさった。
「……はい」
「それでも相手が引かないなら」
そこまで言って、アランは一瞬だけ間を置いた。
ミュレットが顔を上げる。
ディルクはその沈黙に、内心でだけ眉を上げた。
そしてアランは、ごく自然な顔で言った。
「俺の名をつかえ」
ミュレットの目が丸くなる。
「え……」
「覚えておけ」
そんなこと、できるはずがない。
言い寄ってくる騎士へ向かって、王太子の名を出すなど。
しかもあんなふうに当然のことのように言われたら、余計にどうしていいか分からない。
ミュレットは何も返せず、ただアランを見上げるしかなかった。
頬が少しずつ熱を帯びていくのが、自分でも分かる。
そのときだった。
アランの視線が、ふとミュレットの髪へ落ちる。
いつもは下ろしている長い髪。
今日は後ろでまとめられ、やわらかな髪飾りまで添えられている。
先ほど足を止めた理由のひとつが、それだということを、アラン自身も完全には認めていなかった。
だが、今こうして間近で見ると、なおさら落ち着かない。
「……なにかあるのか」
低い問いだった。
視線は髪飾りへ向いている。
ミュレットはきょとんとしてから、はっとした。
「あ、こ、これは………っ!」
一気に顔が真っ赤になる。
「その……侍女たちに、少しだけ整えたほうがよいと言われて……」
今朝、侍女たちは笑いをこらえた顔で、これならきっとあの方が喜ぶと言っていた。
それを思い出しただけで、耳まで熱くなる。
「そうか」
アランの返答は短かった。
だが、その短さの奥に、ディルクはかすかな機嫌の悪さを聞き取った。
侍女たちが勧めた。
理由の中に、自分が少しは関わっていることも、アランには分かっていた。
だが、そういうことをするから余計に目を引くのだ、とも思う。
ただでさえ可愛らしいものを、さらに整えて人目に触れさせれば、騎士のような男が放っておくはずがない。
そうして自分の目の届かない場所で見られ、
声をかけられ、
好かれてしまう。
そこまで思って、アランは口を閉ざした。
言えるはずがなかった。
そんなことを言えば、自分が何に腹を立てているのか、あまりに明らかになる。
ミュレットはそんな内心を知らず、ただ恥ずかしさに俯いている。
耳まで赤い。
髪飾りの色まで熱を帯びたように見えた。
その沈黙を切ったのは、ディルクだった。
「殿下、そろそろ」
低く控えめな声だった。
急かすというより、現実へ引き戻すための声だ。
「分かっている」
アランは短く答える。
ディルクは心の中でだけ苦笑した。
完全に足を止め、会議のことなど忘れたような顔で立っていたくせに、ここへ来て平然と取り繕うらしい。
アランは書類を持ち直し、ミュレットへ向き直る。
ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶような間があった。
「ミュレット」
「はい」
「また会いにくる」
あまりにも自然な言い方だった。
まるで決定事項のように。
許可を求めるでもなく、確認するでもなく、ただそう告げた。
ミュレットはそこでまた固まる。
さっきから、心臓が落ち着く暇もない。
「……あ」
ようやく唇が動く。
「は、はい……」
それが返事になっていたかどうかも分からない。
けれどアランはそれで十分だと思ったらしく、わずかに目を細めた。
それから踵を返す。
二、三歩進んだところで、ディルクは横目に主君を見る。
表情はすでにいつも通りだ。
整っていて、静かで、何もなかったような顔をしている。
だが、その歩調だけがほんのわずかに速かった。
後ろでは、まだ動けずにいるらしいミュレットの気配が残っている。
ディルクは何も言わなかった。
言えば面倒になる。
それはよく分かっている。
ただ、心の中でだけひとつ頷いた。
――会議へ向かう足を止める程度には、重症だな。
そう思いながら、ディルクは無言で主君の後ろを歩いていった。




