Episode 16. 天上の人
昼の食堂は、医務室の慌ただしさから少しだけ切り離された場所だった。
焼きたてのパンの匂い。
スープの湯気。
木の椅子が引かれる音と、控えめに交わされる会話。
王城の中では気を張っている者たちも、食堂にいるあいだだけは、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
ミュレットもその日、ようやくひと息ついていた。
午前の医務室はそれなりに忙しかった。
季節の変わり目で、軽い咳や喉の痛みを訴える者がまだ続いている。
薬草を選び、器を運び、布を替え、やることは尽きない。
けれど今日は、それ以上に落ち着かない理由があった。
朝、庭へ向かう途中のことだった。
医務室へ寄る前に、庭の花の様子だけでも見ておきたくて、ミュレットはいつもの回廊を急がず歩いていた。
窓の外にはやわらかな春の光が差し、石壁に反射した明るさが足元へ淡く落ちている。
その静かな朝に、不意に靴音が止まった。
気配だけで分かる。
振り返る前から、胸がひとつ大きく鳴った。
「ミュレット」
低い声に、足が止まる。
振り返ると、アランが立っていた。
朝の光の中でも、相変わらず隙のない佇まいだったが、その視線だけがまっすぐミュレットへ向いている。
「アラン様……」
ミュレットが頭を下げると、アランはごく短く頷いた。
それだけで終わるのかと思った。
けれど、そのまま立ち去らない。
何か言われるのだろうかと待っていると、アランはほんのわずかに間を置いてから口を開いた。
「今日の予定は?」
「え……医務室と、庭の確認を少し……」
「そうか」
「……」
「仕事がひと段落したらでいい」
そこで初めて、ミュレットはきょとんと目を瞬いた。
アランは変わらぬ顔のまま続ける。
「執務室へ来てくれ」
あまりにも自然な言い方だった。
まるで今日の予定の中に、最初からそれが含まれているように。
ミュレットは返事をするのが一拍遅れた。
「は、はい……」
ようやく絞り出した声に、アランは「待っている」とだけ返した。
その声音は淡々としているのに、なぜかそれだけで胸の奥が落ち着かなくなる。
そして彼はそのまま歩き去る。
呼び止めたのはほんの一瞬。
交わした言葉も多くはない。
なのに、残されたものだけが大きすぎた。
今日の予定は。
仕事がひと段落したらでいい。
執務室へ来てくれ。
その声音も、視線も、あまりにも自然だった。
まるで最初から、自分がそこへ行くことまで決まっていたように聞こえてしまって、ミュレットはしばらくその場で動けなかった。
それを思い出すだけで、また胸が熱くなる。
「どうしよう〜〜〜……」
ふにゃふにゃに力の抜けた声が、思わず唇からこぼれた。
その声を、ちょうど盆を持って通りかかったセレスティアが聞き逃すはずもない。
「何が?」
真横から、即座に落ちる声。
ミュレットはびくりと肩を揺らした。
「セ、セレスティア……」
「何がどうしようなの」
「な、何でもないわ」
「何でもないのにそんな声出る?」
セレスティアは遠慮なく向かいの席へ腰を下ろした。
そのままじっとミュレットの顔をのぞきこむ。
「……何かあったわね」
「何もないわ」
「ある顔」
「ない」
「ある」
「ない」
「ある」
ぴしゃり、ぴしゃりと返されて、ミュレットは視線を泳がせた。
その様子があまりにも分かりやすかったのだろう。
近くの卓にいた女官がちらりとこちらを見る。
さらに、薬湯を飲み終えた若い魔導士が面白そうに眉を上げる。
同僚の医務官に至っては、あからさまに盆を持ったまま寄ってきた。
「あら」
「何か相談事ですか」
「ミュレット様がそんな声を出すなんて珍しい」
あっという間だった。
気づけば食堂の片隅、小さな卓のまわりに、
セレスティア、若い魔導士、女官ふたり、同僚の医務官まで集まっていた。
「ちょ、ちょっと待って……!」
頭を抱えたミュレットを見て、セレスティアがわざときらきらした目をつくる。
「殿下の私的なお話、ぜひうかがってみたいですわぁ!」
妙にお嬢様めいた口調で、わざとらしく言う。
女官たちが吹き出しそうになり、魔導士が肩を震わせた。
「気になります!」
と医務官。
「聞いたことないもの」
と魔導士が続く。
逃がしてもらえる空気ではなかった。
「で?」
セレスティアが腕を組む。
「何があったの」
「……」
「黙っても顔に出てる」
「そんなことは」
「ある」
と、今度は全員で言われた。
逃げ場がない。
ミュレットはしばらく唇を結んでいたが、
やがて観念したように小さく息をついた。
「……その」
「うん」
「最近、アラン様が」
「うん」
「少し……」
「少し?」
「少し、ではないかもしれないけれど……」
そこで早くもセレスティアの目が光る。
「何をされたの」
「“された”って言い方やめて」
「じゃあ何を“してこられた”の」
「言い方が大して変わってないわ」
だが、突っ込む元気もあまりなかった。
ミュレットは頬を押さえながら、ぽつりぽつりと話し始める。
「その……妙なことを、言われたり」
「妙なことってなに!?」
セレスティアが身を乗り出す。
「内容!」
「内容を!」
女官まで前のめりになる。
「ええと……困ったら、名前を使え、とか」
「は?」
若い魔導士が固まる。
「殿下のお名前を?」
「使えって?」
医務官の手が止まる。
「その時点でかなり妙です」
と女官が真顔で言った。
ミュレットはさらに声を小さくした。
「それから……」
「まだあるの!?」
「あるの」
「あるのですか」
「あるわよ……」
もう後戻りはできなかった。
「あの方が……少し、笑われたり」
言った瞬間、周囲の空気が止まる。
「微笑んだ!?!?」
「殿下が!?」
「ミュレット様に!?」
「……あの、ほんの少しだけよ」
「少しでも十分ですわ!」
女官がほとんど悲鳴のように言った。
「殿下の微笑みなんて、そうそう見られるものではありません!」
そこへ畳みかけるように、ミュレットは最後の一撃を落とした。
「あと……時間が空いたら、執務室へ来てくれ、と」
「執務室!?!?」
今度こそ、食堂の卓が一斉に揺れたような気がした。
若い魔導士は本気で言葉を失い、
女官たちは顔を見合わせ、
医務官はしばらく口を閉じたまま固まっている。
セレスティアだけが、しばらく無言だった。
それからゆっくりと、信じられないものを見るように言った。
「……あのアラン様が?」
「そう」
「自分から?」
「そう」
「執務室へ?」
「そうよ……」
セレスティアは片手で額を押さえた。
今にも笑うのか怒るのか分からない顔だった。
「ちょっと待って」
若い魔導士が我に返る。
「執務室って、そう簡単に呼ばれる場所じゃありませんよね」
「ええ」
と医務官がうなずく。
「上官に報告へ上がるとか、正式な用件があるとか、そのくらいです」
「殿下直々に“時間が空いたら来てくれ”なんて……」
女官が口元を押さえる。
「普通はありません」
「普通はないわね」
セレスティアが言った。
「“来い”だけでも十分なのに、“仕事がひと段落したらでいい”ですって?」
「……そう言われたわ」
「都合まで見てるじゃない」
「それは……そうだけど」
「だから何それ」
セレスティアが言う。
「私が聞きたいわ」
若い魔導士が、半ば本気で顔をしかめた。
「それ、もう私的なお呼び出しでは?」
「殿下が?」
女官が目を見開く。
「執務室に?」
「ほとんど、お茶に誘うのと同じでは」
と医務官が静かにとどめを刺す。
ミュレットはますます肩を縮めた。
「だから、困っているの……」
「何に?」
セレスティアが即座に返す。
「受け入れる以外に何をどうするの」
「受け入れるって、そんな簡単に言わないで」
「だってそうでしょ」
「そうじゃないわ」
言い返した声は、思ったより弱かった。
皆の視線が集まる。
ミュレットは視線を落とし、指先をきゅっと握った。
「……お慕いされる理由が分かる方ですし」
「まあ、それはそう」
とセレスティア。
「公務も的確で」
「確かに」
と医務官。
「仕事も早くて」
「完璧な王太子ですものね」
と女官。
「ええ、とても良い方だと思う」
「そうでしょう? 何も問題ない」
「でも」
そこでようやく顔を上げる。
「天上の人なの」
食堂の空気が、少しだけ静かになる。
ミュレットは続けた。
「私は、ちがうから」
「……」
「縁談だってたくさんあるのに、何年も断っておられる方で」
「断るっていうか、正しくは放置ね」
とセレスティアが横から差し込む。
「そんな方が、少し優しくしてくださったからといって」
「うん」
「それをそのまま、私に向いているものだと思ってしまうのは……」
そこで言葉が揺れる。
「違う気がして」
その言葉は、自分に言い聞かせるためのものでもあった。
少し笑ってくれた。
執務室へ来てくれと言ってくれた。
自分の予定を聞いたうえで、ひと段落したらでいいとまで言った。
それでもなお、胸の奥のどこかで怖いと思ってしまう。
そんなふうに信じてしまって、あとで何かが違ったら、きっと立っていられない。
セレスティアはしばらく黙ってミュレットを見ていた。
それから、信じられないものをはたき落とすみたいに言った。
「ミュレットはかわいいし、きれいよ!?」
「えっ」
「そこから!?」
ミュレットが本気で驚くと、セレスティアはさらに前のめりになる。
「何その“えっ”は」
「だ、だって今の流れでそこ?」
「そこよ!」
「いやでも」
「でもじゃない!」
女官のひとりが、こくこくと激しく頷いた。
「本当にそうです」
「え」
「ミュレット様はお綺麗です」
「え」
「かなり」
と、魔導士まで言う。
「庭にいると、びっくりするくらい目立ちますよ」
ミュレットは思わず周囲を見た。
全員、真顔だった。
「そんな令嬢は、アラン様のもとにはたくさんいるわ」
観念したようにミュレットが言う。
「いないわよ」
即答したのはセレスティアだった。
「いる」
「いない」
「いる」
セレスティアはとうとう立ち上がった。
「い、な、い!!」
最後だけやたら力がこもった。
食堂の端で、別の卓にいた騎士がびくっとするくらいには大きかった。
だがセレスティアは気にしない。
立ったまま、卓を指先で叩く。
「令嬢はたくさんいるでしょうよ。いたわよ。今までも」
「でしょう?」
「でも、あの方が自分から予定を聞いて、仕事の都合まで見て、執務室へ来てくれなんて言う相手は、いないの!」
「……」
「分かる?」
「……」
「分かってない顔ね?」
ミュレットはほとんど泣きそうな声だった。
若い魔導士が、少し面白がりながらも真面目な顔で口を挟む。
「でも、その“分からない”って、嫌だからではないですよね」
「え」
「本当に嫌なら、“どうしよう”じゃなくて“困る”だけで終わるでしょうし」
「……」
「悩んでる時点で、だいぶ引き込まれてません?」
ぐさり、と刺さる。
ミュレットは言い返せなかった。
そうだ。
嫌なら、もっと簡単だった。
避ければいい。
距離を置けばいい。
そうできないから、困っている。
だがそれを認めるには、まだ胸の奥が熱すぎた。
医務官が、やれやれという顔で腕を組んだ。
「少なくとも、あの殿下がここまで分かりやすいのは珍しいです」
「分かりやすい……?」
「ええ」
「ど、どこが? 具体的に……」
「当人だけが分かってない典型ですね」
と魔導士が言い、
「ミュレットはまだここに来て半年も経っていないから、仕方ないわね」
とセレスティアが座り直しながら息をついた。
「いい? ミュレット」
「……なに」
「身分差があるのは事実。縁談が多いのも事実」
「うん」
「でも、それでもなお、あの方は自分で選んでミュレットのところへ来てるの」
「……」
「そこを無視して、“私は違うから”だけで止まるのは、私たちが困る!」
「……どうして?」
「殿下が、明らかに変わったからよ」
「……変わりました!」
と女官。
「かなり」
と魔導士。
「非常に」
と医務官。
なぜか全員に畳みかけられて、ミュレットはとうとう両手で顔を覆った。
熱い。
頬も、耳も、胸の奥も、全部熱い。
「もう本当に……どうしたらいいの……」
さっきよりもずっと切実な声が漏れた。
ふにゃふにゃしているのに、本気で困っているのが自分でも分かる。
するとセレスティアは、今度こそ呆れたように笑った。
「だから、それを考える段階まで来てる時点で、もうかなり好きなのよ」
「す、好きって言わないで!」
「なんで」
「言葉にすると本当にそうなってしまいそうだから!」
「もうなってるわよ」
「なってない!」
「なってる」
「なってない!」
「なってるわ」
「なってません!!」
その押し問答に、ついに周囲から小さな笑いがこぼれた。
ミュレットはますます顔を覆うしかなかった。
食堂の窓の向こうでは、春の光が庭をやわらかく照らしている。
名のない花も、きっと今日もあの場所で揺れているのだろう。
そしてその庭を越えた先に、執務室がある。
ひと段落したら来てくれ、と、当然のように言ったあの人がいる。
少し笑っただけで息が止まりそうになるあの人が。
静かな顔で、けれどあまりにもまっすぐに自分を見てくるあの人が。
どうしよう、と思う。
けれど、その“どうしよう”の中に、
もう以前のような嫌なだけの戸惑いはなかった。
困っている。
怖い。
でも、うれしい。
そんなふうに感情が混ざり始めていることを、
ミュレットはもう、完全には知らないふりができなかった。




