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Episode 17. 雨の奥で



その日は、朝から細かな雨が降り続いていた。


強く打ちつけるような雨ではない。

けれど、止みそうで止まない。

石畳をしっとり濡らし、庭の草花の色を深くし、王城の空気まで少しだけ重たくするような雨だった。


こんな日は、医務室の空気もどこか沈む。


足を滑らせた侍女。

咳をこじらせた文官。

古傷の痛みを訴える年配の騎士。

湿り気を含んだ空気は身体に障るらしく、朝から医務室には絶えず人の出入りがあった。


ミュレットも、いつものようにその中で手を動かしていた。


薬湯を運ぶ。

布を替える。

濡れた外套を受け取り、火の近くへ移す。

目の前の仕事に集中していれば、余計なことを考えずに済む。


そう思っていた。


けれど、その日の昼過ぎ、医務室の空気はふいに変わった。


奥の個室で、王城が特別に診ていた重病人が、ついに危うくなったのだ。


年老いた男だった。

長く床に伏していたが、家族の強い願いで王宮の医務室へ移され、ここしばらくは手厚く診られていた。

もともと回復は難しいと分かっていた。

それでも家族は希望を手放さなかった。

少しでも穏やかに。

少しでも苦しまぬように。

それだけを願って、毎日そばにいた。


ミュレットも、その男の顔を知っていた。


苦しげに息をする姿も、

それを見守る妻のやつれた横顔も、

何かあるたびに立ち上がりかける息子の気配も。


全部、知っていた。


そして、知っているからこそ、胸の奥が冷えていく。


こんな場面を、何度見送ってきただろう。


医務室では日々、傷んだ身体と向き合う。

快方へ向かう者もいる。

だが、そうでない者もいる。


どれだけ丁寧に布を替えても。

どれだけ薬湯を運んでも。

どれだけ家族が祈っても。


届かないものは届かない。


それが現実だと分かっているはずなのに、見慣れることはなかった。


その日も、そうだった。


男の呼吸は浅く、かすかだった。

家族は寝台のそばに集まり、誰も声を荒げず、ただ縋るようにその手を握っていた。


年配の医務官が静かに脈を取り、別の医官が薬を含ませようとする。

だがもう、飲み込む力もほとんど残っていない。


ミュレットは寝台の脇で、器を持ったまま立っていた。


何か、もっと。


そんな考えが、胸の奥でひどく弱く揺れる。


もっとできることがあったのではないか。

もっと早く何か気づけたのではないか。

もっと、もっと、と、何度も心が空を掴む。


けれど現実には、祈るように見守ることしかできない。


その日も、そうだった。


男の呼吸は、ひときわ苦しげに揺れたあと、

ある瞬間を境に、静かに途絶えた。


医務室がしんとする。


大きな叫びはなかった。

けれど、妻が息を呑み、それから崩れるように泣き出した。

息子が唇を噛み、肩を震わせた。

若い娘は父の手にすがるように顔を伏せた。


その泣き声が、ミュレットの胸を深く抉った。


年配の医務官が、そっと男の瞼を閉じる。

家族はしばらく泣き続け、それから何度も頭を下げた。


「……王宮でみていただき、ありがとうございました」


泣き腫らした目のまま、妻がそう言う。


「最後まで、こんなに丁寧にしていただいて……」

「本当に……ありがとうございました」


ありがとう、と言われるたび、ミュレットは息が詰まりそうになった。


自分は、何もできなかったのに。


その言葉が胸の奥で重く沈む。


できる限りのことはした。

それは分かっている。

ここにいる誰も、怠ったわけではない。


それでも、目の前で泣く家族を見ると、

足りなかったものばかりが浮かんでくる。


救えなかった。

間に合わなかった。

見送ることしかできなかった。


その事実が、雨よりも冷たく身体の内側へ落ちる。


家族は何度も頭を下げ、遺体とともに医務室を出ていく。

小雨の音が、扉の向こうからかすかに聞こえた。


「ミュレット殿」


医務官の声がした。

はっとして振り返る。


「こちらの片付けを……」

「……はい」


返事はした。

けれど、自分でも分かるほど声が掠れていた。


布を畳もうとして、指がうまく動かない。

視界がわずかに滲む。


だめだ、と思った。


ここで泣いてはいけない。

ここは医務室だ。

泣く場所ではない。


「……少し、外へ」


そう告げるのがやっとだった。

誰かが何か答えた気もするが、耳に入らなかった。


ミュレットは医務室を出た。

濡れた回廊を早足に進み、人の少ない裏手へ回る。

小雨を避けられる壁際、茂みの影になる場所まで来て、ようやく足を止めた。


石壁へ向き直る。

片手で口元を押さえる。


だめだった。


涙が落ちた。


ひとつこぼれたら、もう止まらない。

声を出さないように堪えるほど、喉の奥が痛む。

肩が震える。

呼吸が浅くなる。


何人見送っても、慣れない。

ありがとうと頭を下げる家族を見るたび、胸のどこかが傷つく。

それなのに、自分は何事もなかったような顔で、また薬を運び、布を替え、次の人の前に立たなければならない。


そんな自分が、時々、ひどく空っぽに思えた。


そしてその空っぽさは、あの人の前に立つたび、余計に痛む。


アランを思い出す。


静かな目。

低い声。

真っ直ぐな言葉。

抱えきれないほどまっすぐ向けられる、やさしさ。


あんな人のそばに、自分がいていいはずがない。


こんな私が、アラン様のおそばにいられるわけがない。


胸の奥で、何かが冷たく沈む。


それなのに。


あの人を思い浮かべると、まだ胸が熱くなる。


それがどうしようもなく苦しかった。


そのころ、アランは別棟から医務室へ向かっていた。


公務の合間、雨の日は医務室が慌ただしくなりがちだと思い出したのだ。

理由を問われれば、それだけだった。

それだけのはずだった。


医務室へ入ると、いつもより空気が静かだった。


片付けをしていた医務官が顔を上げる。


「殿下」

「……ミュレットは」

アランは周囲を見た。

「いないのか」


医務官は一瞬だけ口を閉ざした。

それだけで十分だった。


「何があった」

「……ひとり、お見送りがありました」

低い声で医務官が答える。

「王城で特別に診ていた方です。ご家族がお礼を言って帰られましたが、そのあと少し……」


言葉は最後まで続かなかった。

だが、アランには分かった。


視線だけで場所を問う。

医務官はわずかに裏手の方角を示した。


アランは何も言わず、すぐに踵を返した。


回廊の先、庭の裏手。

濡れた石と茂みの影のあいだに、小さな背中が見えた。


壁を向いている。

肩が、かすかに震えている。


アランはそこで一度だけ立ち止まった。


呼ぶべきか。

何も言わずに戻るべきか。


だが、そんな考えは長く続かなかった。

あの背中を見たまま、立ち去れるはずがなかった。


「ミュレット」


低い声で呼ぶ。


肩が、びくりと揺れた。


ミュレットは振り返らなかった。

振り返れなかったのだろう。

涙を拭おうとしているのか、震える手が頬に触れる。


「……っ」


声にならない息が漏れる。


そのままもう一度、アランは歩み寄った。

濡れた石を踏む足音が、小さく響く。


「見ないで、ください……」


ようやく落ちた声は、涙でひどく掠れていた。


アランは何も言わず、ミュレットの肩へ手を置いた。

細く震えるその肩を、逃がさぬように、けれど痛くしない力で掴む。


ゆっくりとこちらへ向けさせる。


はじめて正面から見た泣き顔に、アランの胸の奥が強く掴まれた。


大粒の涙を溜めた瞳が、ひどく頼りなく揺れていた。

頬は濡れ、唇は震え、必死に声を殺していた痕跡がそのまま残っている。


こんな顔をして、ひとりで隠れていたのかと思った瞬間、

何かが鋭く胸を刺した。


次の瞬間には、ためらいなくミュレットを抱きしめていた。


ミュレットの呼吸が、止まる。


「……あ」


背中に腕が回る。

逃がさないほど強くはない。

けれど、崩れ落ちるのを支えるには十分な力だった。


雨に濡れた空気は冷たい。

石壁も、風も、じわじわと体温を奪う。

その中で、アランの胸元から伝わる熱だけがひどく鮮明だった。

衣越しのぬくもりが、凍えていた心の奥へゆっくり滲んでくる。


「アラン、様……」

「泣いてもいい」


低い声が、すぐ耳元に落ちる。


「……っ」

「俺が、ここにいる」


その言葉が胸に刺さった。


王宮のすべてを背負うあの人が、

泣くことを責めない。

弱いとも言わない。

ただ、そばにいると言う。


それだけなのに、張りつめていたものがさらに崩れた。


「でも……」

ようやく出た声は、自分でも情けないほど震えていた。

「助けられなくて」

「……」

「ご家族は、ありがとうって」

「……ああ」

「何も、していないのに……わたし、は………」


最後はまた涙に押し潰された。


アランはしばらく何も言わなかった。

ただ腕の力だけが、ほんの少し強くなる。


やがて、低い声が静かに落ちた。


「最期まで、そこにいた」

「……」

「ミュレットは逃げなかった」

「……」

「家族も、それを分かっていたから礼を言った」


ミュレットは返事ができなかった。


「救えなかったことと、傍にいたことは別だ」


その言葉は、雨よりも静かだった。

けれど、痛いほど真っ直ぐだった。


ミュレットは目を閉じる。

涙がまたひとつ落ちる。


苦しい。

うれしい。

苦しい。


こんなふうに抱きしめられてはいけないと思う。

そう思うのに、突き返せない。


この腕を離したくないと、どこかで願ってしまう。

この胸元に縋ってしまう。

それが、あまりにも苦しかった。


「ありがとうなんて言われるたびに、胸が痛くなるんです。私は何もできなかったのに……」


その言葉を聞くと、アランはほんの少しだけ上体を離した。

けれど距離は近いままだった。

逃がすつもりのない近さのまま、ミュレットの顔を見る。


濡れた頬へそっと手を添える。

冷えていた肌に、アランの手のひらの熱が重なる。


目が合う。


アランはほんのわずかに目を細めた。

それは、普段ほとんど見せないほど静かな微笑みだった。


親指が、頬を伝う涙に触れる。


「何もしなかったものの顔ではない」

「……」

「ミュレットは、いつも己を低く見積もりすぎる」

「そんな、こと……」


胸の奥がまたきしむ。

でも今度は、さっきまでとは少し違う痛みだった。


この人は、こちらが欲しい言葉だけを器用に選ぶ人ではない。

それでも、傷んでいる場所だけは決して外さない。

まっすぐそこへ手を伸ばして、抱え込んだものごと受け止めてしまう。


それが、どうしようもなくずるかった。


「……アラン、さま?」


泣き腫らした掠れ声で名を呼ぶと、

アランはその目を見たまま、静かに言った。


「よくやっている」

「……」

「王太子の俺が保証する」


そこまで言われて、息が詰まる。


そんな言葉を、この人の口から向けられるとは思わなかった。

重く、まっすぐで、逃げようのない言葉だった。


何か言わなければと思うのに、喉の奥が塞がってうまく出てこない。


「わたし、は……」


かすれた声がこぼれる。

けれど、その先が続かない。


言いたいことはたくさんあるはずなのに、

どれも喉の奥で絡まって、うまく形にならなかった。


アランは急かさなかった。

ただ、逃がさぬように抱いたまま、低く問う。


「まだ苦しいか」


ミュレットは、うまく声が出せないまま、小さく頷いた。


その答えを見て、アランはもう一度しっかりと抱き寄せる。


「なら、こうしている」


耳元で落ちたその言葉に、ミュレットは息を呑む。


「……」

「少しは、ましになるか」


問われて、ミュレットは目を閉じたまま、もう一度だけ頷いた。


胸の奥はまだ痛い。

苦しさが消えたわけではない。

けれど、冷たく空いていた場所へ、じわじわと熱が満ちていく。


その感覚が、どうしようもなくやさしくて、

同時にひどく残酷だった。


「そうか」


アランは短く言う。


それから、ごくわずかに呼吸を置いて、静かに続けた。


「俺は、ミュレットに泣いてほしくない」


その言葉に、ミュレットの肩が小さく震える。


「だから抱きしめている」

「……」

「こうして、少しでもミュレットの痛みが和らぐなら、俺はそうする」


ミュレットは言葉を失った。


王宮を背負う人が、

戦場で何百もの命を動かす人が、

今、自分ひとりの涙のために、こんなふうに言う。


そんなの、ずるい。


アランは腕を緩め、ほんの少しだけ上体を離した。

離したといっても、まだ近い。

逃げられないほど近くで、まっすぐミュレットを見る。


「それでも俺は、無力か」


静かな問いだった。


責めているのではない。

怒っているのでもない。

ただ、ミュレット自身の言葉へ、真っ直ぐ答えを求める問いだった。


ミュレットは目を見開いた。


無力なはずがない。


こんなふうに抱きしめられて、

泣いてもいいと言われて、

そばにいると言われて、

何も変わらないはずがない。


胸の痛みは消えていない。

悲しみだってそのままある。

それでも、さっきまでひとりで壁へ向かって泣いていた苦しさとは、もう違う。


「……ちがい、ます」


ようやく絞り出した声は、ひどく小さかった。


アランは何も言わない。

続きを待っている。


ミュレットは涙で揺れる視界のまま、懸命に言葉を探した。


「アラン様は……無力なんかじゃ、ありません」

「……」

「こうして、わたしを……」

喉が詰まり、いったん言葉が切れる。

それでも、どうにか続ける。

「ここにいて、くださるから……」


言い切った瞬間、また涙がこぼれた。


アランはその顔を見つめたまま、静かに言う。


「なら、ミュレットも同じだ」

「……え」


「最期まで、そこにいた」

「……」

「逃げなかった」

「……」

「何も変わらなかったわけではない」


ミュレットは返事ができなかった。


胸の奥が、痛いほど揺れる。


アランはそっと手を伸ばし、濡れた頬へ触れる。

冷えた肌に、手のひらの熱がじわりと重なる。


「救えなかったことと、何もできなかったことは違う」

「……」

「ミュレットは、それを混同している」


親指が、頬を伝う涙を静かに拭った。


「つらいなら、そう言え」

「……」

「言葉にならなくてもいい」

「……」

「泣くなとは言わない」

「……」

「こんな場所で、一人で泣かせたくない」


その言葉が、また胸に深く落ちた。


どうしてこの人は、こういうときに限って、

いちばん欲しい場所へ真っ直ぐ手を伸ばしてくるのだろう。


それが、どうしようもなくずるかった。


ミュレットはアランの胸元へ額を寄せたまま、小さく息を吐いた。


「……こまります」

「そうか」

「……そうです」


アランはほんの少しだけ息をついた。

笑ったのかもしれない。

そう思うほどの、ごく小さな気配だった。


それから、もう一度だけミュレットを抱き寄せる。


「もう少し、ここにいろ」

「……はい」


小雨はまだ降っている。

茂みの葉先から雫が落ちる。

遠くで誰かの足音がして、すぐに消える。


その静かな裏手で、ミュレットはアランに抱きしめられたまま、そっと目を閉じた。


悲しみは消えない。

見送った人は戻らない。

家族の泣き声も、ありがとうの言葉も、きっとしばらく胸に残り続ける。


それでも今は、その痛みごと支えられている気がした。


こんな私が、と思う。

それでも離れられないと思う。

この腕を、胸元を、突き返すこともできないほど惹かれているのだと、また思い知らされる。


それがどうしようもなく苦しくて、

同時に、どうしようもなくうれしかった。



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