Episode 18. ひとりの休暇
その朝、ミュレットはいつもより少しだけ早く目を覚ました。
窓の外は、まだ淡い光の中にある。
王城の一日が本格的に動き出す前の、静かな時間だった。
身支度を整え、髪をまとめ、薄い外套を羽織る。
机の上には昨夜のうちに用意しておいた小さな鞄が置かれていた。
財布代わりの巾着に、手巾、簡単な化粧道具、それに帰りに買うものを包めるよう布も一枚。
そこまでしてから、ミュレットは小さく息を吐いた。
城にいると、どうしても考えてしまう。
回廊を歩けば、ふとした拍子にあの人の姿を探してしまう。
名を呼ばれた声を思い出す。
雨の日のことを思い出す。
抱きしめられた腕の強さや、額に落ちた低い声を思い出す。
それだけではない。
最近、侍女たちの目が妙にやさしい。
女官たちはあからさまに笑いをこらえているし、医務室の者たちまで、何か言いたげな顔をする。
何も聞かれなくても、なんとなく分かってしまう。
きっと、噂になっている。
それが嫌なわけではない。
嫌ではないからこそ、よけいに落ち着かなかった。
このまま城にいては、今日もまたアランのことばかり考えてしまう。
それは、いけない気がした。
だからミュレットは、その日一日だけ休暇を取ることにした。
早朝に庭の様子だけ軽く見て、それから少し離れた町へ出る。
王城の外の空気を吸って、買い物をして、余計なことを考える暇もないくらい歩いて、夕方には戻る。
それだけの、小さな逃避行だった。
庭は朝露に濡れて、まだ半分眠っているようだった。
名のない花も、やわらかな光の中で静かに揺れている。
水路の音は変わらず澄んでいて、それを確かめるだけで少し気持ちが落ち着いた。
「……よし」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ミュレットは城門へ向かう。
まだ出入りの少ない時間帯だが、門番と、朝の持ち場に就いたばかりらしい若い騎士がいた。
その騎士は、馬を引いて歩いてくるミュレットを見るなり、目を丸くした。
「ミュレット様?」
門番もまた、ぎょっとした顔をする。
「お出かけですか」
「ええ。今日は休暇をいただいたので、少し町へ」
「おひとりで、ですか?」
「そうです」
即答すると、若い騎士はさらにうろたえた。
「お、おひとりで……?」
「ええ」
「馬で……?」
「そうですね」
「大丈夫ですか!?」
あまりに真剣な声に、ミュレットは思わず小さく笑ってしまう。
「大丈夫です」
そう言って、馬の首筋を軽く撫でる。
「これでも、昔は結構走らせていましたから」
「え」
「幼いころ、領地の中をよく駆けて回って、父にも母にもずいぶん心配されました」
その頃のことを思い出したのか、ミュレットは少しだけ懐かしそうに目を細めた。
裾をからげて馬に飛び乗り、風を切って駆けるのが好きだった。
止まりなさいと叫ぶ母の声も、危ないぞと追いかけてくる父の声も、振り切るくらいに。
いま思えばずいぶん無茶をしていたが、あの頃の自分は、怖いものなど何もないような顔をしていた気がする。
「ですから、本当に大丈夫ですよ」
清々しい笑顔でそう言われると、若い騎士のほうがそれ以上何も言えなくなる。
「は、はあ……」
「夕方には戻ります」
「ですが、せめて誰かお供を……」
「そこまで大事ではありません」
やんわりと断られ、騎士は門番と顔を見合わせた。
どう見ても止めたい。
けれど、休暇を取っての外出自体に問題があるわけではない。
しかも相手は、あのミュレットだ。
無茶を言っているようにはまるで見えない。
ただにこやかに、当然のように馬の手綱を整えているだけなのに、なぜだかものすごく不安になる。
近くでそれを見ていた侍女が、小声で言った。
「……本当にお一人で?」
「馬って、あんなにさらっと……」
「止めなくてよろしいのかしら」
「でも止める理由も……」
ひそひそとした声が、門のまわりに小さく広がる。
ミュレットはそんな空気に気づいているのかいないのか、軽やかな動きで馬に乗った。
その仕草が思っていたよりずっと自然で、見ていた下っ端騎士がまた目を剥く。
「あ、あの、本当にお気をつけて……!」
「ありがとうございます」
ミュレットは笑って頷く。
その笑顔は、ひどく晴れやかだった。
「では、行ってきます」
そう言って、朝の光の中をすっと城門の外へ出ていく。
馬の足音は軽く、後ろ姿は思っていたよりずっと危なげがない。
ないのだが――だからといって、見送る側の心臓に優しいわけではなかった。
門番はしばらく口を開けたままその背を見送り、若い騎士は手綱の消えた先を呆然と見つめていた。
侍女たちも、なんとも言えない顔でざわついている。
そこへ、不意に低い声が落ちた。
「何をざわついている」
空気がぴたりと止まる。
振り返ると、そこにはディルクが立っていた。
朝の巡回の途中だったのだろう。
相変わらず隙のない姿で、けれど門前に漂う妙な気配にはすぐ気づいたらしい。
若い騎士が、ぎくりと背筋を伸ばす。
「ディ、ディルク様」
「何があった」
「それが、その……実は……」
言いよどみながらも、騎士は観念したように答えた。
「ミュレット様が、休暇を取って城の外へ」
「……」
「ひとりで、町へ出かけられました」
「……ひとりで」
「馬で」
ディルクは数秒、無言になった。
その沈黙のあいだに、若い騎士は自分が叱責されるのではないかと青ざめ、門番は咳払いひとつできずに固まる。
やがてディルクは、片手で額を押さえた。
「……………殿下の手がまた止まるな」
深いため息が、朝の門前に静かに落ちる。
若い騎士は恐る恐る顔を上げた。
「で、殿下に、報告を……?」
「しないわけにもいかんだろう」
「怒られますか」
「私がか?」
ディルクは低く返し、それからもう一度ため息をついた。
「いや。殿下が何もおっしゃらなくても、書類の上で手が止まる」
「……」
「しかも、おそらく二度ほど窓の外を見る」
「……それだけですか?」
「表面上はな」
その言い方に、門番も侍女たちも、なんとも言えない顔になった。
ディルクはすでに半ば諦めたような顔で踵を返す。
「念のため、戻りの時刻だけは見落とすな」
「は、はい!」
「城門に着いたらすぐ知らせろ」
「承知しました!」
返事を背に受けながら歩き出し、ディルクは心の中でもう一度だけ息をつく。
よりによって、ひとりで、馬で、城の外。
しかも、それを聞いた主君が平然としていられるはずもない。
朝の公務は、たぶん予定より少し長くなる。
正確には、書類そのものはいつも通り片付くだろう。
ただ、その合間合間に、妙な沈黙が増えるだけだ。
ディルクは無言のまま廊下を曲がった。
――さて、どう報告したものか。
そう考えながらも、答えはひとつしかなかった。
正直に申し上げるしかない。
そしてその結果、主君の手が止まるのも、もう避けようがないのだった。




