Episode 19. 止まる手
執務室には、朝の淡い光が静かに差し込んでいた。
高い窓の外では、雨上がりの空がまだ白く、庭の草木には水滴が残っている。
机の上にはすでに書類が山と積まれ、文官たちが整えた報告書や決裁待ちの案件が、整然と並べられていた。
その中央に、アランはいつも通り座っていた。
背筋はまっすぐで、視線は鋭く、手元の書類へ落ちる眼差しにも迷いがない。
ひとつ目を通し、必要な箇所だけを拾い、短く指示を書き込む。
次の書類へ移る動きにも無駄がなかった。
少なくとも、傍目には。
その少し後ろに立つディルクだけが、わずかに目を細める。
いつも通りだ。
だが、いつも通り“すぎる”。
そういうときのほうが、よほど危ういことを、ディルクはもう知っていた。
「殿下」
呼びかけると、アランは視線を上げないまま答える。
「何だ」
「ミュレット様についてですが」
その瞬間だった。
紙を押さえていた指が、ぴたりと止まる。
ほんの一拍。
だが、ディルクには十分すぎるほど分かりやすかった。
アランは何事もなかったように、次の書類へ視線を落としたまま言う。
「……どうした」
平静な声だった。
少なくとも、本人はそのつもりなのだろう。
ディルクは心の中でだけ、小さくため息をついた。
「本日、休暇を取られたそうです」
「そうか」
短い返答。
だが、そこで終わらなかった。
ペン先が、書類の上で止まったまま動かない。
インクがじわりと一点へ滲みそうになったところで、ようやくアランは手を動かした。
けれど、書くべき文字をひとつ飛ばしてしまい、珍しくペン先がわずかに乱れる。
ディルクは見なかったことにした。
アランもまた、それに気づいていないふりをする。
「それだけか」
「いえ」
ディルクは淡々と続けた。
「少し離れた町へ出られたそうです」
「……」
今度は返事がなかった。
沈黙が落ちる。
執務室の隅で控えていた若い文官が、うっかり顔を上げそうになって、慌てて視線を落とした。
空気が少しだけ張る。
やがてアランが、変わらぬ声で問う。
「供は」
「おひとりです」
「……ひとり」
また、短い返答。
だが今度は、明らかに書類をめくる順番を間違えた。
さきほど目を通していたものをもう一度手に取り、途中で違うと気づいて戻す。
その動きは静かで、乱暴ではない。
だからこそ、普段の彼を知る者ほど違和感が大きい。
ディルクはそこへ、追い打ちをかけるように事実だけを重ねた。
「馬で出られたようです」
「馬」
アランの声が、ほんのわずかに低くなる。
「はい」
「誰が許可した」
「正式な休暇届は通っております」
「……そういう意味ではない」
ディルクは口元をわずかに引き締めた。
それ以上は何も言わなかったが、言いたいことは分かる。
“なぜ誰も止めなかった”
おそらく、そういう意味だ。
「門番と若い騎士が止めようとはしたようですが」
「……」
「ミュレット様は『大丈夫です、昔はよく走らせていましたから』と」
「昔」
「幼い頃、領地内で馬を走らせてご両親に心配されていたそうで」
「……」
「たいそう清々しい笑顔で出て行かれたとか」
そこで、ようやくアランが顔を上げた。
何かを言うわけではない。
ただ、じっとディルクを見る。
その目は静かだ。
静かだが、知っている者にはよく分かる。
内側でいろいろと良くない方向へ考え始めているときの目だった。
ディルクは平然と視線を受け止める。
「……無事に戻るだろう」
アランは言った。
「ええ。おそらくは」
「馬にも乗れる」
「そうらしいですね」
「町へ出るくらい、問題ない」
「はい」
返ってくる言葉はどれも正しい。
正しいが、正しすぎた。
その証拠に、アランは次の書類へ手を伸ばしたまま、しばらくそのまま止まっている。
読んでいない。
完全に読んでいない。
それでも本人は読んでいるつもりらしく、数秒後にようやく視線を落としたと思えば、先ほどから同じ行を三度目で追っていた。
ディルクは心の中でだけ数を数える。
一。
二。
三。
そして予想どおり、アランはふいに窓の方へ視線を向けた。
一度だけ。
本当に、ほんの一度だけのような顔で。
けれどその目は、庭の先、さらにその向こうにある門の方角を、明らかに探していた。
「殿下」
ディルクが静かに呼ぶ。
アランはすぐに視線を戻した。
「何だ」
「窓の外を見ても、戻っては来られません」
「見ていない」
「さようで」
「……」
若い文官が息を止める。
そこまで言うのか、という空気が一瞬よぎった。
だがディルクは気にしない。
こういうときに遠慮しても、あまり意味がないことを知っている。
アランは数秒黙っていたが、やがて淡々と言った。
「戻りの時刻は」
「夕方には戻ると」
「曖昧だな」
「本人の申告ですので」
「……」
また沈黙。
次の瞬間、アランは手元の書類へ視線を戻し、まるで何事もないように決裁印を押した。
位置が少しだけずれていた。
ディルクはそれも見なかったことにした。
「では、次を」
とディルクが言うと、
アランは短く「ああ」と返す。
次の書類が差し出される。
備蓄の再確認。
春季の兵配置。
南の流通路。
どれも重要だ。
本来なら、彼は一つとして迷わず片付ける。
実際、表面上はその通りに進んでいく。
指示は正確だ。
判断も早い。
文言の修正も的確で、若い文官が感心するほどだった。
ただし。
同じ箇所を二度読む。
無意識にペンを置く。
短い沈黙が増える。
そして、一定の間隔で窓の外へ目が向く。
平静を装っている。
だが、装えていない。
それはもはやディルクにとって、確認するまでもない事実だった。
しばらくして、アランがふいに口を開く。
「護衛をつけるべきだった」
「今さらですね」
「……」
「殿下がご存じなら、そうなさったでしょうが」
「……ああ」
「残念ながら、ミュレット様は殿下の確認を経ずに行かれました」
「確認を経ずに、ではない」
アランは低く言った。
「俺に言わずに、だ」
「はい。そうとも言います」
わずかに、ほんのわずかにだけ、アランの眉間へ影が寄る。
嫉妬でも怒りでもない。
ただ、置いて行かれたような顔だった。
それがあまりにも珍しくて、若い文官は必死に机しか見ないふりを続ける。
もし今顔を上げたら、自分はたぶん消される。そんな本能的な確信があった。
「ディルク」
「はい」
「戻ったらすぐ知らせろ」
「承知しました」
「門にも伝えろ」
「すでに」
そこでようやく、ほんの少しだけアランの声が落ち着いた。
だが落ち着いただけで、安心したわけではない。
その証拠に、次の書類へ手を伸ばしながらも、指先がほんのわずかに机を叩いた。
癖のない彼には珍しい、焦れたような動きだった。
ディルクはそれを見て、心の中だけで頷く。
やはり重症だ。
「殿下」
「何だ」
「ご安心を」
「何を」
「ミュレット様はおそらく、楽しんで帰って来られます」
「……」
「そして殿下は、帰って来られたと聞くまで、何度か窓をご覧になる」
「見ない」
「では三回までにしておかれては」
「見ないと言っている」
「承知しました」
返事をしながらも、ディルクはもう信じていなかった。
案の定、その十分後。
アランは書類から視線を上げ、ほんの一瞬だけ窓の向こうへ目をやった。
それを見て、ディルクは何も言わなかった。
ただ心の中で、静かに数を一つ増やした。
王太子は、今日も平静を装っている。
そして今日もまた、少しも装えていなかった。




