表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/82

Episode 20. 恋人でもないのに



ミュレットが城を出た朝、空はよく晴れていた。


けれど時間というものは、楽しいときほど早く過ぎるものらしい。


町の通りは春らしい賑わいに満ちていた。

布地を広げる商人、焼き菓子の香り、花を並べる露店。

王城の中にいるだけでは見られない色と音に囲まれているうち、ミュレットは少しだけ肩の力を抜いていた。


本当は、忘れたかったのだ。


城にいれば、どうしてもアランのことを考えてしまう。

回廊を歩いていても、庭に立っていても、ふとした拍子に思い出す。

低い声。

静かな目。

雨の日に抱きしめられた腕の熱。


だから一日だけ、離れたかった。


離れれば落ち着くと思った。

少なくとも、少しはましになると思った。


けれど、そううまくはいかなかった。


町で見つけた小さな花の細工を見ても、アランならこんなものをどう見るだろうと思ってしまう。

香りのよい茶葉を見ても、庭で差し出された菓子と茶を思い出す。

ふと立ち寄った本屋で地誌をめくれば、王城の書庫のことが頭をよぎる。


どこへ行っても、考えてしまう。


「……かえりたくない」


人混みの中で小さくこぼした声は、自分にだけ聞こえた。


そうして、帰りが遅れた。


町を出たときには、もう日が傾きはじめていた。

早く戻らなくてはと思っていたのに、城へ急ぐ途中、街道脇のぬかるみに馬の脚が取られた。


大事には至らなかった。


ただ、馬が大きく体勢を崩し、ミュレットもとっさに手綱を引いた拍子に鞍からずれ落ちた。

肩と膝を打ち、袖口は裂け、手のひらには擦り傷ができた。

痛みはある。

けれど歩けないほどではない。


馬を落ち着かせ、なんとか乗り直したときには、空はもう薄暗くなっていた。


城門が見えたころには、夕方どころか、すでに夜の入口だった。


そのころ、王城はひどく落ち着かない空気に包まれていた。


最初は、夕方までには戻るだろうと思われていた。

次に、少し遅れているだけだろうと考えられた。

けれど日が落ちても姿が見えないとなると、さすがに誰もがざわつき始める。


そして、そのざわめきの中心には、言うまでもなくアランがいた。


執務は止まり、報告は簡潔になり、窓を見る回数はもはや隠されなくなった。

ディルクが「まだです」と告げるたびに、室内の空気が一段冷える。


ついにアランは椅子を立った。


外套を替える。

剣を帯びる。

手袋を嵌める。


もはや「様子を見る」ではない。

出る気だ。


「殿下」

ディルクが低く声をかける。

「もう一刻お待ちを」

「待った」

「……はい」

「これ以上は待てない」


返る声は静かだった。

静かなだけに、決意の固さがよく分かった。


出陣手前――まさにその空気だった。


そこへ、城門から急ぎの伝令が入る。


「お戻りです!」


室内の空気が、ぴたりと止まる。


「……誰が」

ディルクが問う。

若い騎士は、息を切らしたまま答えた。


「ミュレット様が、ただいま――ただ、その」

「その、何だ」

「少し、お怪我を」


次の瞬間には、アランはもう歩き出していた。


城門の内側で、ミュレットは馬を降りたところだった。


右膝の布地は泥に汚れ、袖口は裂け、手のひらにも擦り傷がある。

軽傷だ。

本当に、大したことはない。


ないのだが。


城門をくぐった瞬間、そこに立っていた人影を見て、ミュレットは凍りついた。


アランだった。


もう出るつもりだったのだろう。

いつもの執務姿ではない。

外套を替え、剣を帯び、夜気を切るような気配をまとっている。


まるで今からどこかへ出陣する直前のような格好で、アランはそこにいた。


その目が、ミュレットを捉える。


まず顔。

次に裂けた袖。

膝の泥。

手のひら。

そして、少し庇うように重心をずらした足元。


沈黙が落ちる。


門番たちも、若い騎士たちも、息を呑んだまま動けない。

ディルクだけが、ほんのわずかに目を伏せた。


――始まった。


ミュレットは、かろうじて声を絞り出す。


「……ただいま、戻りました」


アランはすぐには答えなかった。


やがて、低く問う。


「何時だと思っている」

「……申し訳ありません」

「護衛は」

「お断りして」

「なぜ」

「ひとりで大丈夫だと」

「その結果がそれか」


視線が膝へ落ちる。


ミュレットは思わず足を引いた。

だが遅い。

アランの目は少しも逸れない。


「馬がぬかるみに取られて」

「だから何だ」

「え……」

「だから、ひとりで出て、帰りが夕刻を越え、怪我をして戻る理由になるのか」


声は荒くない。

怒鳴ってもいない。


なのに、逃げ場がなかった。


「……すみません」

「謝れば済む話ではない」

「……」

「門へ知らせることもできた」

「……はい」

「途中で誰かに頼むこともできた」

「……はい」

「帰りが遅れるなら、使いを出すこともできた」

「……はい」

「何もしていない」

「……」


ひとつひとつ、正しい。

正しいからこそ、何も言い返せない。


「傷を見せろ」

「だ、大丈夫です」

「見せろ」

「本当に軽いのです」

「ミュレット」

低い声が落ちる。

「見せろ」


ミュレットは小さく肩を揺らし、渋々、擦りむいた手のひらを差し出した。


アランはそれを見る。

次に裂けた袖口を掴み、逃がさないまま腕の傷を確かめる。

さらに膝へ目を向けたところで、ミュレットはさすがに一歩退いた。


「もう、十分です……!」

「十分ではない」

「わたしは平気です」

「平気な顔ではない」

「でも」

「言うことを聞け……!」

「……っ」


また一歩詰められる。


アランは苛立っていた。

それは誰の目にも明らかだった。

だがその苛立ちは、怒りだけではない。

ようやく見つけたことへの安堵と、怪我をして帰ってきたことへの怒りと、連絡ひとつ寄越さなかったことへの焦れと、全部が混ざっている。


だからこそ、しつこかった。


「次からは、必ず護衛をつけろ」

「……」

「帰りが遅れるなら報せろ」

「……」

「ひとりで馬を飛ばすな」

「……」

「聞いているのか」

「聞いています……!」


思わず声が大きくなる。


アランは黙らない。


「なら返事をしろ」

「しています」

「納得していない」

「……」

「顔に出ている」

「……」


門前の空気はすでに地獄だった。

誰も口を挟めない。

ディルクでさえ、今は沈黙するしかない。


ミュレットは、恥ずかしさと疲れと苛立ちで、とうとう限界に達した。


「………恋人でも、ないのに」


ぽつり、と。

けれど、その場にいる全員へ聞こえるくらいにははっきりと落ちた。


ぴたり、と空気が止まる。


アランの目が、すっと細くなる。


その変化を見た瞬間、ディルクは内心で頭を抱えた。

ああ、入った。

完全に入った。


ミュレットも、自分で言ってしまってから、はっと息を呑む。


けれど、もう遅かった。


「……何だと」


ひどく静かな声だった。


怒鳴らない。

けれど、さっきまでとは別のものに切り替わっているのが分かる。

苛立ちではない。

もっと深くて、逃がさない何かだ。


ミュレットは後ずさりしかけた。

だがアランは一歩、ゆっくりと近づく。


「わからなかったか」


その声に、ミュレットの喉が詰まる。


「アラン、様……」

「ミュレットは、俺の何を見ていた」


低い声が、ひどく切実に響く。


「ここまでして」

「……」

「ここまで言って」

「……」

「まだ、わからなかったのか」


ミュレットの胸が痛いほど鳴る。

周囲の気配など、もう分からない。

あるのはアランの声と、視線だけだった。


アランはもう一歩だけ詰める。


「愛しているから、言っている」

「……」

「愛しているんだ……! ミュレット」


最後の言葉だけ、声が揺れた。


それはアランには珍しいほど露わな感情だった。

押し殺しきれない、切実な響きだった。


ミュレットは目を見開く。


愛している。


その言葉が、今度は逃げ道のないかたちで胸へ突き刺さる。


さっきまでの叱責も、しつこさも、焦りも、全部その一言へ繋がっていたのだと、ようやく分かる。

分かってしまう。


アランは続ける。


「恋人でもないから言うな、か」

「……」

「なら、恋人なら言っていいのか」

「……」

「ミュレットがひとりで城を出て、帰りが遅れて、怪我をして戻ってきた」

「……」

「黙って見過ごせるほど、俺はできた人間じゃない」


その目はまっすぐだった。

怒っているのではない。

必死なのだと、分かってしまう。


「……ごめんなさい」


ミュレットの唇から、ようやくそれだけがこぼれた。


アランの表情が、ほんのわずかに止まる。


「何に対してだ」

「……」

「今の言葉にか」

「……」

「それとも」


ミュレットは息を震わせた。


こんなふうに告げられて、うれしくないはずがない。

胸が痛いほど熱い。

泣きたくなるほど、うれしい。


けれど。


それを受け取ってはいけないと、どこかでまだ思ってしまう。


王太子と、自分。

立場も、家柄も、何もかも違う。

今のこの気持ちに流されて頷いてしまったら、あとで何もかも壊れてしまう気がした。


「……ごめんなさい」

もう一度、今度ははっきりと言う。

「お受け、できません」


アランは黙った。


怒らない。

引きもしない。

ただ、じっとミュレットを見る。


その沈黙が、ひどく苦しい。


「理由は」


低い声が落ちる。


ミュレットは唇を噛み、どうにか答える。


「身分が……」

「それは理由ではない」

「……」

「もっと端的に、事実のみを言え」


かなり納得していない声だった。


ミュレットは泣きそうになりながらも、言葉を探す。


「わたしは、もう家柄もないようなものですし」

「それも違う」

「……」

「事実を言え」


逃げ道がない。


ミュレットは目を閉じ、震える息を整えた。


「……こわいんです」

「何が」

「全部、です」

「……」

「こんなふうに言われることも」

「……」

「信じてしまうことも」

「……」

「失う、ことも………」


アランの目が、わずかに揺れる。


ミュレットは声を震わせながら続けた。


「だから……ごめんなさい」

「……」

「お断りします」


春の夜気が、静かに門前を通り過ぎた。


アランはしばらく何も言わなかった。

やがて、ごく低く息をつく。


「そうか」


それだけだった。


だが、その一言の重さに、ミュレットの胸はさらに痛くなる。


アランは視線を外さないまま、静かに言った。


「ミュレットが怖がっていることは分かった」

「……」

「だが、俺の言葉は取り消さない」

「……」

「愛している」

「……」

「それだけは、変わらない」


ミュレットは泣きそうな顔で俯いた。


もう、立っているのも苦しい。


アランはそこでようやく一歩退いた。

けれどその目はまだ、少しもやわらがない。


「まず傷を診せろ」

「……え」

「返事のあとでも、怪我は怪我だ」

「……」

「ディルク」

「はい」

「医務官を」

「すでに呼んでおります」


その返答の早さに、門前の何人かが内心で息を呑む。

ディルクは淡々としていた。


ミュレットは呆然と立ち尽くしたまま、ぎゅっと手を握る。


告白された。

断った。

それなのに、何も終わった気がしない。


むしろ、言葉はもっと深く胸に残ってしまった。


愛している。

その響きが、何度も耳の奥で反響している。


「……ミュレット」


最後にもう一度、アランが名を呼ぶ。


ミュレットは、そろそろと顔を上げた。


「今日はもう、どこにも行くな」


その声は、先ほどまでより静かだった。

けれど、そこにある想いは少しも減っていない。


ミュレットは何も答えられなかった。


ただ小さく頷くしかできない。


門前には重い沈黙が落ちていた。

春の夜は静かで、遠くで水路の音だけがかすかに響いている。


その中でミュレットは、自分がたしかに断ったことと、

それでもなお、アランの気持ちが少しも揺らいでいないことを、

痛いほど思い知らされていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ