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Episode 21. 城門の乱



翌朝、ミュレットは見事に寝不足だった。


眠れるはずがない。


昨夜、城門の前で告げられた「愛している」が、耳の奥に何度も何度もよみがえる。

断ったはずなのに、なにも終わった気がしない。

むしろ、あそこで何かが決定的に変わってしまった気がして、胸の奥だけがずっと落ち着かなかった。


そのせいで、朝の支度もどこか上の空だった。

鏡の前で髪を整えながら、何度も小さく息をつく。


今日は、できれば会いたくない。

いや、会いたくないというより、まともな顔で会える気がしない。


そう思って、ミュレットはいつもより少し遠回りをして、外廊下から庭へ向かうことにした。


回廊を歩けば、侍女たちの小さな囁きが、風に混じって耳へ届く。


「聞きました?」

「ええ、例の……」

「城門の乱」

「しっ、声が大きいわ」

「だって本当にあの殿下が」

「“愛している”と」

「門番の騎士たちまで固まったとか」


ミュレットは足を速めた。


やめてほしい。

本当にやめてほしい。

けれど、王城内であれだけのことが起きて、噂にならないはずがなかった。


城門の乱。


誰が言い出したのか知らないが、言い得て妙すぎる。

思い出すだけで、顔が熱くなる。


外廊下へ出ると、朝の光と風がいくぶん気持ちを落ち着けてくれた。

外柱の向こうでは、庭の草木が青々と揺れている。

夏へ向かう濃い緑。

その匂いを含んだ風が、石床をやわらかく撫でていく。


少しだけ気が緩んだ、そのときだった。


ふわ、と、あくびがこぼれた。


しまった、と思ったときにはもう遅い。

口元を押さえながら顔を上げた視界に入ったのは――


廊下脇の柱へ背を預けて立つ、アランだった。


ミュレットは凍りついた。


いつからそこにいたのか分からない。

けれどアランは、逃がさないとでもいうように、ゆっくりとこちらを見ていた。


「……眠れなかったか?」


低い声が落ちる。


なぜか、その問いと一緒にアランはほんのわずかに微笑んだ。


ミュレットは思わず、両手で口元を覆う。


「……っ」

「俺を避けて、ここを通ると思った」


あまりにも平然と言われて、返す言葉が出ない。


アランは一度だけ外柱の隙間へ目をやった。

青々とみずみずしい葉を揺らす庭。

夏の気配を孕みはじめた風。

その視線の流れまで静かなのに、ミュレットにはひどく心臓に悪かった。


口元を覆っていた手を、そろそろと胸元へ下ろす。

視線はとても上げられず、足元へ落ちた。


アランが一歩近づく。

また一歩。

逃げるほどではないのに、確実に距離を詰めてくる足音だった。


「アラン、様……」

「何だ」


答えた声は落ち着いている。

落ち着いているのに、そのぶんだけ余計に逃げ場がない。


アランはミュレットの前で足を止めると、包帯の巻かれた手へ視線を落とした。

そして、何も言わないまま、その手にそっと触れる。


優しい手つきだった。


包帯の上を、確かめるように、労わるように、指先がゆっくりとなぞっていく。


ミュレットは思わず顔を上げた。


手元を見つめるアランの顔が、近い。

目を逸らしたいのに、逸らせない。

昨夜のことも、あの切実な声も、全部一緒に胸へ押し寄せてくる。


そのままアランは、ミュレットの腕をほんの少し持ち上げた。


「……っ?」


次の瞬間、包帯の巻かれた手の甲へ、やわらかな感触が落ちる。


息が、止まった。


キスだった。


ただ触れるだけの、短い口づけ。

けれど、その短さが信じられないほど、深く焼きつく。


アランはそのとき、瞼をわずかに伏せていた。

まるで、そこへ静かに愛情を注いでいるみたいな表情だった。


その横顔から、ミュレットは目を逸らせなかった。

逸らせないまま、全部、胸の奥へ焼きついてしまう。


触れられた箇所だけが、やけに熱い。


「……あ」

ようやく漏れた声は、情けないほど小さかった。


アランは顔を上げる。

その目は変わらず静かで、それでもどこか満足そうに見えてしまうのが悔しい。


「仕事は程々にするように」


低い声が、そのまま続いた。


そして今度は、ミュレットの頬へかかった髪を、耳の後ろへそっとかける。


その指先にまた肩が跳ねる。


「医務官長には、俺から申し伝えておく」

「……え?」


何が何だか分からない。

ぽかん、としているしかないミュレットに、アランがほんの少しだけ目を細める。


「では、また来る」


さら、と最後に髪を撫でて、アランはそのまま立ち去った。


残されたミュレットは、数歩も動けなかった。

その背が見えなくなって、ようやく壁へ背を預けるようにへたり込む。


「な、な、なに、あれぇ…………」


頼りない声が、誰もいない外廊下へ響いた。


庭の草木が元気よく揺れる音。

風の匂い。

あつい夏の気配。


その全部があるのに、ミュレットの世界だけがさっきからおかしいままだった。


そのままどうにか立ち上がり、医務室へ向かう。


落ち着かなければ。

とにかく仕事をすれば、少しはましになるはずだ。

そう思って扉を開けたのに、入った瞬間、医務官長が顔を上げた。


「ミュレット」

「は、はい」

「今日は座ってできる軽作業のみとし、午前中で切り上げてください」

「……え?」


ミュレットは瞬いた。


そこでようやく、さっきアランが言っていたことの意味を理解する。


医務官長は淡々と続けた。


「足の具合もまだ万全ではありません」

「でも、もうだいぶ」

「落馬の影響があるでしょう」

「……」

「丸一日の立ち仕事は無理があります」

「……はい」


たしかに、その通りだった。

膝の鈍い痛みも、少し庇うような歩き方も、自分で分かっている。

医務官長も当然それは見抜いていたのだろう。


そしてアランは、なおさら分かっていたのだ。


「明日以降も様子を見ながら、補佐をお願いします」

「……はい」


不承不承頷くと、医務官長が少しだけ眉を上げた。


「不満そうな顔をされても、我々はアラン様のお言葉には逆らえませんからね」

「…………はい」


返事はした。

でも、納得しているとは言い難い顔だったのだろう。


そうしてミュレットは、午前中いっぱい、座ってできる選別や記録、薬草の仕分けなどの軽作業だけをさせられた。

座っていればたしかに楽だ。

でも、体は楽でも、心がまったく落ち着かない。


さっきのことを思い出しては、頬が熱くなる。

包帯の上の口づけ。

「また来る」

あの静かな声。


断ったはずなのに。

どうして前よりやさしいのか。

どうしてあんなふうに、当然みたいに触れてくるのか。


やさしい方が、ずっとつらい。


そんなことを考えているうちに、あっという間に午前中は終わってしまった。


暇になってしまったミュレットは、少しでも気を紛らわせようと庭へ出た。


庭なら、落ち着くかもしれない。

そう思ったのだ。


けれど、花壇の端で植え替えの手伝いをしようとしゃがみ込んだ瞬間、庭師が飛んできた。


「ミュレット様はいけません!」

「え?」

「だめです、だめです!」

「そんな、大げさな」

「アラン様に殺されてしまいます!」


悲鳴みたいな声だった。


別の庭師まで慌てて振り返る。


「本当に、それだけは!」

「土を運ぶのもだめです!」

「見ていてください! 見ていてくだされば十分です!」


そこまで言われると、もう手を出せなかった。


ミュレットは呆然としたまま立ち尽くす。


「……そんなに、ですか」

「そんなにです」

庭師は真顔で言い切った。

「いま怪我をされているのですから」

「……」

「我々は平和に生きたいのです」


その言葉に、ミュレットはもう何も返せなかった。


結局、行き場を失ったミュレットは、ひと足早い時間に食堂へ向かうことになった。


まだ人の少ない食堂。

昼の支度が整いきる前の、少し静かな空気。

窓から入る光が、卓の上へやわらかく落ちている。


盆を持って席につきながら、ミュレットは小さく息をついた。


断った翌日。

会わないように遠回りしたのに、先回りされていた。

手の甲にキスをされ、仕事を減らされ、庭では止められ、結局こうして早く昼食を取ることになる。


なにもかも、アランの手のひらの上みたいで、悔しい。


けれど同時に、触れられた手の甲へまた指先が伸びる。

包帯の上からそっと押さえると、そこだけまだ熱を持っている気がした。


「……どうしよう」


誰に聞かせるでもなく、ぽつりとこぼした声は、広い食堂へ静かに落ちた。


そのとき、ちょうど盆を持ったセレスティアが扉の向こうから入ってくる。


彼女の目が、ひとり先に昼食を取り始めたミュレットを見つけた。


――また、見つかった。


食堂でセレスティアに目をつけられるのは、これで二度目だ。

もはや恒例行事に近い。


ミュレットはそう思って、そっと目を伏せた。



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