表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

88/124

Episode 87 雪解けの盟約



中庭の土は冬のあいだの白さを脱ぎ、あちこちでやわらかな緑が顔を出しはじめている。

回廊へ吹き込む風はまだ少し冷たい。

それでも、その冷たさの奥には確かに土と水の匂いが混じっていた。


長く厳しい季節を越え、城も、民も、国境も、どうにか持ちこたえたのだと分かる春だった。


その日、王城の会議室には春の明るい光が差し込んでいた。


高窓から落ちる光は白く澄み、長机の上には何度も推敲を重ねた盟約文書が整然と広げられている。

蝋印のための道具も、署名用の筆も、すでに用意されていた。


クレスティアへ招かれていたのは、ふたりの客人だった。


リリナ・エルニア第一王女。

そして、グレン・サンダレイン第一王子。


三国同盟の正式な盟約文書に、最後の合意を与えるためである。


ミュレットは部屋の端に控えていた。


以前の自分なら、こういう場へ自ら進んで立とうとは思わなかっただろう。

けれど今は、ただ隠れているだけではいられないと知っている。

同じ場に立ち、耳で聞き、目で見ること。

それだけでも、逃げないことのひとつだと思えた。


リリナは文書を手に取ると、最初の数頁はいつものように流して読んでいた。


エルニアの主権保全。

相互の経済支援。

軍事的威圧への共同対応。

帝国による干渉があった場合の協調行動。


どれも、すでに幾度も擦り合わせてきた内容だ。

だからこそ、彼女の目は迷いなく次の頁へ進んでいく。


だが、ある一文に差しかかった瞬間、表情が見事に変わった。


「はぁあああ!? なんで盟約文書にミュレットの名前とか入ってんのよ! あなた本気!?」


会議室の空気が一気に揺れた。


ミュレットは思わず肩を跳ねさせた。

アランは眉ひとつ動かさない。


「本人の希望だ」


その一言があまりにも落ち着いていたので、リリナの怒りはむしろ増したらしかった。


「なんで許可すんのよ!! 止めろ!!!!」

「これでも止めた」

「止めれてないつってんの!!」


机を叩かないだけ、まだ理性があるほうだった。


グレンはその横で静かに文書へ視線を落としている。

表情は穏やかなままだが、よく見れば口元が少しだけ苦い。


彼はミュレットに視線を向け、ほんの一瞬だけ困ったように目をやわらげた。


家出したなら、サンダレインへ来てくださってもよかったのに。


そんな本音を、さすがに今この場で口にする気はないのだろう。

けれど、少しだけしょんぼりしている気配は隠しきれていなかった。


リリナがなおも文書を掲げる。


「何、この条文」

「“ミュレット個人の意思による限定的治癒支援を認め、その保護を三国共通の利益とみなす”って」

「何よこれ」

「なんでこんなものが堂々と入ってるのよ」


アランは低く息をついた。


「ミュレットの名を消したところで意味がない」

「……」

「力の存在は、もう伏せきれない」

「……」

「ならば、曖昧なまま狙わせるより、三国で明文化したほうが抑止になる」

「……」

「干渉は盟約違反とし、共同の敵とみなす。その一文があるだけで、手を出す側の計算は変わる」


理屈は正しかった。


それが余計に、リリナの苛立ちを煽る。


「分かってるわよそんなの!」

「でも、だからって!」

「本人の名前まで入れて、本人の意思で力を使うなんて条文、正気で通すものじゃないでしょ!」

「俺も好んではいない」

「好んでない顔で通してんじゃないわよ!」

「必要だ」

「必要でも嫌なものは嫌なの!」


ミュレットは文句の矛先の中心にいながら、少しだけ胸が熱くなっていた。


リリナは怒っている。

全力で、心から怒っている。

それは自分の扱いが軽いからではなく、重すぎるからだ。


そのことが分かるから、かえってありがたかった。


グレンがそこで、穏やかな声音で口を挟んだ。


「しかし」


その一言で、リリナの勢いがほんの少しだけ止まる。


「本人の意思の上であれば、致し方ないでしょう」

「グレン」

「もちろん、好ましい話とは申しません」


グレンは穏やかな目でアランを見る。


「ですが、本人がただ守られるだけの立場を望まないのであれば」

「……」

「我々がそれを全て取り上げるのも、また違う」


リリナが不満げに鼻を鳴らす。


「ずいぶんあっさり認めるじゃない」

「認めたくはありません」

「……」

「本当なら、サンダレインにいらしてくだされば、こちらで丁重にお守りしましたのに」

「……」

「少しは期待していたのですが」


その最後だけ、ほんのりと本音が滲んでいた。


ミュレットは思わず目を瞬く。

セレスティアが後方で、聞こえないように肩を震わせている。


リリナは呆れたように額へ手を当てた。


「まだ引きずってたの?」

「引きずってはおりません」

「顔に書いてあるわよ」

「気のせいです」

「その顔で?」

「……」


そこでアランが低く言う。


「余談が多い」

「誰のせいよ」

「リリナのせいだ」

「はいはい、最終的に私が悪いのね、知ってる」


それでも、会議室の空気は完全には険悪にならなかった。


冬を越えた者たちだけが持つ、少し乾いた疲労と、

それでもここまで辿り着いたという薄い安堵が、三人の間にはたしかにあった。


やがてリリナは、もう一度文書へ視線を落とした。


怒りは残っている。

納得しきったわけでもない。

けれど、怒鳴るだけで終わるつもりもないのだろう。


第一王女の顔に戻って、条文を読み直していく。


ミュレットの扱いに関する部分は、結局こういう形になっていた。


本人の明確な意思がある場合に限り、その治癒能力は人命保護のために限定的に用いられること。

三国はこれを保護し、強制や干渉、あるいは本人の意思に反する利用を一切認めないこと。

これに反した者は、三国いずれに対するものでも盟約違反と見なし、共同で排除対象とすること。


力だけを切り離して扱わない。

ミュレット個人を取引材料にしない。


あの夜、アランが私室で言ったことが、こうして公の文言へ落とし込まれている。


ミュレットは静かに息を吸った。


自分の名前が、公の盟約文書に載る。

それは怖い。

怖いけれど、もう目を逸らしているだけではいられないと、自分で言ったのだ。


ならば、この場も受け止めなければならない。


長い確認の末、ようやくリリナが文書を閉じる。


「……気に入らない」

開口一番、それだった。

「でも」

「……」

「気に入らないだけで、蹴るほど子どもじゃないわ」


グレンが静かに笑う。

アランは短く頷いた。


「なら決まりだ」

「ええ」

リリナは椅子へ深く座り直す。

「決めましょう」

グレンも頷く。

「サンダレインも異存ありません」


それから先は、厳かな時間だった。


筆が運ばれる。

署名欄へ、それぞれの名が記される。

クレスティア王太子アラン。

エルニア第一王女リリナ。

サンダレイン第一王子グレン。


蝋が落とされ、印が押される。


その音ひとつひとつが、ひどく静かに会議室へ響いた。


長い冬を越え、ようやくここへ辿り着いたのだと、誰もが分かっていた。


アランは書面から顔を上げると、二人を順に見た。


「これで終わりではない」

「ええ」

リリナが応じる。

「ここからが始まり」

グレンも穏やかに続ける。

「帝国が諦めるとは思えません」

「だろうな」

アランの声は低い。

「だが、屈しない」

「……」

「これより先、三国は同じ側に立つ」


その言葉が会議室へ落ちる。


ミュレットは少し離れた場所から、その姿を見つめていた。


冬のあいだ、帝国は表立って動かなかった。

その静けさがあったからこそ、文書を整え、話し合い、ここまで辿り着くことができた。


そしてその冬のあいだ、

アランと過ごす時間はたしかに増えていた。


暖炉の前で。

図書室で。

庭の手前の回廊で。

何でもない言葉を交わしながら、少しずつ距離を取り戻していった。


だから今、この公の場へ立つアランを見ても、

ただ遠い人だとは思わない。


遠くて、大きくて、背負うものの多い人だ。

それでも同時に、自分の指へ指輪を戻し、

「一緒に背負う」と言った人でもある。


私的な誓いが、こうして公の盟約へ繋がっていく。


そのことが、静かに胸を打った。


会議が終わり、人が少しずつ動き出す。


グレンが文書を侍従へ渡しながら、ふとミュレットを振り返る。


「……しかし」

「はい?」

「本当に少しくらいは、サンダレインに来てくださってもよかったのですよ」

「……」

「いえ、もう今さらですが」


その顔があまりにも穏やかにしょんぼりしていて、ミュレットは思わず困ったように笑ってしまった。


リリナがすぐ横から刺す。


「ほんとにまだ言ってる」

「引きずってはおりません」

「引きずってるわよ」

「違います」

「その顔で?」

「……」


アランは何も言わなかったが、目だけが少し冷えた気がした。


会議室を出たあと、ミュレットはひとりで少しだけ中庭の回廊へ足を向けた。


春の光はやわらかく、空気は澄んでいる。

冬のあいだ眠っていた庭は、いま静かに息を吹き返していた。


茶色かった土のあいだから、小さな緑があちこちに顔を出している。

その一角で、ミュレットは足を止めた。


名のない花が咲いていた。


しかも、ひとつではない。


寄り添うように、並ぶように、ふたつ。


ミュレットは思わず目を見開いた。

それから、胸の奥からこぼれるみたいに小さく声を漏らす。


「二輪になってる……」


その喜びは、ひどくやさしく、ひどくあたたかかった。


長い冬を越えた先で、ようやく並んで咲いたその花は、

国と国、人と人のあいだに結ばれた新しい約束を、

静かに祝福しているように見えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ