Episode 86. 春の辞令
春は、雪解け水の音とともにクレスティアへ戻ってきた。
長く厳しかった冬のあいだ、帝国は雪の中で小競り合いを起こさなくなっていた。
起こせなくなったのか、あえて控えていたのか、それは分からない。
けれど少なくとも、北の寒さと深い雪は、どの国にとっても無視できる相手ではなかったらしい。
その静かな冬のあいだに、クレスティアは耐えた。
城も、民も、国境も。
そして、その冬のあいだに、アランとミュレットの時間は増えた。
遠征はない。
夜ごとどこかへ消えることもない。
雪に閉ざされた季節のあいだ、アランは王城にいる時間が長くなり、ミュレットもまた、自分の回復とともに、少しずつその日常へ戻っていった。
朝の茶。
暖炉の前。
本へ嫉妬される時間。
庭の名もない花の芽を、一緒に見つめた夕暮れ。
派手な何かがあったわけではない。
けれど、何でもない時間が確かに積み重なった冬だった。
そして春が来ると、その静かな積み重ねの上へ、今度は新しい役目が次々と与えられた。
その日、ミュレットは王城の小さな会議室へ呼ばれていた。
大きな政の間ではない。
けれど、私的な話だけをする場でもない。
机の上には文書が整然と並び、医務長、上位医務官、文官が数名、そしてアランとディルクまでいる。
それだけで、何かが正式に決まるのだと分かった。
「座れ」
アランに言われ、ミュレットは少し緊張しながら席についた。
文官のひとりが書状を広げる。
医務長が咳払いをひとつしてから、いつになく慎重な声音で言った。
「本日、正式にお伝えいたします」
「……はい」
「冬のあいだの回復状況を鑑み、ミュレット様の傷病は、業務復帰に差し支えない程度まで改善したと判断されました」
「……」
「それに伴い、王城医務局における新たな等級が設けられます」
ミュレットは目を瞬く。
新たな等級。
その言葉の意味がすぐには飲み込めない。
文官が文書を読み上げる。
「称号は――筆頭医務官」
部屋が静まり返る。
筆頭医務官。
聞いたことのない名だった。
当然だ。
今、初めて作られたのだと、続く文言で分かった。
「高度治癒術を含む特殊医療行為に限り、従来の医務官等級とは別枠で運用する」
「筆頭医務官は、上位医務官または医務長の許可がある場合に限り、高度治癒術の行使を認められる」
「ただし、本人の意思を最大限尊重し、いかなる強制も認めない」
読み上げられる文言のひとつひとつが、ミュレットの胸へ落ちていく。
力を隠せ、とも。
好きに使え、とも言わない。
制度の中で守られ、
制度の中で使い方を定められ、
それでも最後には、本人の意思が最優先される。
それは、今までどこにもなかった居場所だった。
「……不満はあるか」
低い声がして、ミュレットは顔を上げた。
アランがこちらを見ている。
相変わらず表情は大きく動かない。
けれど、その問いは軽い確認ではないと分かった。
不満があれば、本当に直させるつもりなのだろう。
ミュレットは小さく首を振る。
「ありません」
「……ならいい、続けろ」
それだけだった。
けれど、その短さがかえってアランらしかった。
医務長が文書を閉じる。
「春とともに、医務局への復帰をお願いしたい」
「ただし」
年配の上位医務官が補足するように言う。
「今後の勤務は、従来とまったく同じではありません」
「……」
「通常業務すべてを背負っていただくつもりはありません」
「高度治癒が必要と判断された場合、もしくは筆頭医務官としての判断が求められた場合に限る、という形になります」
「……はい」
完全復帰ではない。
でも、ただ守られているだけでもない。
その中間に、自分の場所が用意されたのだと分かる。
それだけで、目の奥が少しだけ熱くなる。
だが、この場はまだ終わらなかった。
文官のひとりが、別の文書を差し出す。
「もうひとつ、殿下より」
「……?」
そこで初めて、アランが自分で口を開いた。
「一ヶ月後、春の晩餐会で正式に発表する」
「……え」
「ミュレットを、俺の婚約者として」
息を呑む。
分かっていたことだ。
いずれ公になる。
隠しておく理由も、もうない。
けれど、改めて“正式に発表する”と告げられると、胸の鼓動が急に速くなる。
アランは淡々と続けた。
「その日をもって、ミュレットの立場は公に定義される」
「……」
「暫定的な保護対象ではない」
「……」
「王太子婚約者として」
「……」
喉が鳴った。
その肩書きは、まだ少し遠いもののようにも思えた。
でも、遠いだけではない。
もうすぐそこまで来ているのだと、文書の重みが教えてくる。
「時期としては悪くない」
アランは言う。
「春の政の再編に合わせる」
「……」
「逃げたくなるほど、忙しくなる」
「……に、逃げません」
「そうか?」
そう返したアランの目が、ほんの少しだけやわらいだ。
そして、さらにもう一枚の文書へ視線を落とす。
「それに伴って、体制を整える」
「……体制?」
「侍女を二人」
「……え?」
「護衛を二人」
「え」
「専属医官を一人つける」
あまりにも当然のように告げられて、ミュレットは目を見開いた。
「……そんなにですか?」
「婚約発表が迫っている」
「……」
「今後は外見だけでなく、予定の管理、衣装、警備、健康管理も含めて人手が要る」
「……」
「ひとりでは足りない」
「……こんなに?」
「これでも少ない」
文官のひとりが、さももっともらしくうなずく。
「王太子婚約者様としての外向きの支度を考えれば、妥当な人数かと」
医務長も咳払いをしつつ続ける。
「医務局との連絡役と健康管理の調整を兼ねる専属医官は、置いたほうがよろしいでしょう」
ディルクまで静かに付け足した。
「警護は近衛から選抜します。日常の動線も再整理が必要です」
完全に包囲されている。
ミュレットは小さく息を吸った。
「……わかりました」
「そうか」
アランはそれで話が済んだと判断したらしく、あっさり頷いた。
「選定はすでに進めさせている」
「え!」
「昨日からだ」
「……はやい」
「発表が決まった時点で必要だった」
「……」
アランらしい。
驚くほど仕事が早い。
だが、そこで終わりではなかった。
「もうひとつある」
「……まだあるのですか?」
「ある」
アランは迷いなく言った。
「部屋を移す」
「……え?」
「今の別棟の部屋から、俺の私室の隣へ」
「……隣、ですか」
「ああ」
「……」
「中扉でつながっている部屋を使え」
一瞬、意味が追いつかなかった。
アランの私室の隣。
中扉でつながっている部屋。
つまり、これまでのように別棟に離れて暮らすのではなく、王太子区画のすぐ隣へ移るということだ。
「ま、待ってください」
「何だ」
「そんなに近くへ?」
「護衛効率が悪い」
即答だった。
「今の部屋は離れすぎている」
「……」
「婚約発表後は、朝夕の動きも会議同席も増える」
「……」
「連携を取るうえでも、隣のほうがいい」
「……」
「荷物は順次移させる」
文官がすかさず文書をめくる。
「すでに移動の指示案は作成済みです」
「え」
「侍女が二人つく以上、今のお部屋では導線が悪く、護衛配置にも無駄が出ます」
ディルクも静かに補足した。
「王太子区画へ移されるほうが合理的です」
医務長までうなずく。
「専属医官の往診も、そのほうが容易でしょう」
またしても包囲されている。
「……それも、昨日からですか」
ミュレットがおそるおそる聞くと、
「一昨日からだ」
とアランが返した。
まったく揺るがない声だった。
会議が終わったあと、ミュレットは回廊へ出てから、ようやく大きく息を吐いた。
筆頭医務官。
婚約者の正式発表。
一ヶ月後。
春からの復帰。
侍女と護衛と専属医官。
さらに部屋の移動。
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
そこへ、軽い足音が近づいてきた。
「いい顔してるじゃないですか」
セレスティアだった。
話はもう聞いているらしい。
腕を組み、いかにも面白そうな顔でこちらを見る。
「いい顔?」
「前よりしゃきっとしてる」
ミュレットは少しだけ照れて目を伏せた。
「で」
セレスティアはそこでにやりとする。
「これから忙しくなるんでしょ?」
「え?」
「春からの生活」
それは、まさにその通りだった。
午前は医務室。
ただし筆頭医務官として必要とされた時のみ、より重い判断や高度治癒へ関わる。
午後は妃教育――いわゆる花嫁修行。
礼法、接遇、外交、歴史、王家の系譜、式典作法。
さらに、アランが出席する会議への同席も少しずつ始まる予定だった。
説明を受けた時、ミュレットは本気で目を回しかけた。
「午前に医務室、午後に花嫁修行と会議……?」
そうこぼしたミュレットへ、セレスティアは容赦なく言ったのだ。
「ようこそ忙しい女の世界へ」
「侍女が二人つくって」
「知ってる」
「もう知ってるの?」
「殿下はただでさえ仕事が早いのに、ミュレットのことに関すると異様に早いもの」
「……」
「でもよかったじゃない」
「よかった?」
「少なくとも、食堂へ昼食の誘いに来たり、誰かさんが冷たい氷の上を走って転んだり、一人で暴れ馬に乗って街へ出かけるのを必死で止める殿下を皆見なくてよくなるもの」
「そんなこと」
「何回も見たわよ」
「……」
「諦めなさい。いまのあなたには必要よ」
セレスティアはそこで、いかにも思い出したという顔をした。
「ああ、あと」
「……まだあるの?」
「部屋、移るんでしょ?」
「……はい」
「おめでとう」
「何がですか」
「だって、中扉つきよ?」
「セレスティア!」
「何よ、事実でしょ」
「そういう言い方しないでください……!」
「差し詰、正式発表を控えて忙しくなるミュレットともっと会いたい! とかそんな魂胆よ」
「……」
「護衛効率とか連携とか、いかにももっともらしい顔して」
「……」
「半分は本気でしょうけど、半分は絶対、目の届くところに置きたいだけよ」
「そんなこと」
「あるわね」
即答だった。
それから数日、春の新しい日々は目まぐるしく始まった。
まず、侍女が二人。
ひとりは落ち着いた年長の侍女で、衣装や所作、外向きの支度に抜かりがない。
もうひとりは若いが気が利き、医務室や会議への移動、時間の管理まできっちりこなす。
護衛は近衛から選ばれ、表向きには王太子婚約者付きの警備として再編された。
専属医官は穏やかな年配の女性で、医務局とミュレットのあいだをつなぎながら、無理が出ないよう静かに見守ってくれる。
誰も過度に畏れすぎない。
ミュレットが萎縮しないよう、きちんと配慮された人選なのだと、数日もすれば分かった。
「こちらのお召し物は午後の礼法のあと、会議にもそのまま出られるよう整えてあります」
「医務室へ戻られる際は、この上着だけお召し替えください」
「診察が長引くようなら、こちらで喉のお薬も持ってまいります」
「……すごい」
「慣れておりますので」
「……」
「お任せください、ミュレット様」
そう言われるたび、少しくすぐったい。
でも、今まで自分ひとりでこなしていた支度が、こんなにも軽くなるのかと驚くことのほうが大きかった。
部屋の移動も、思っていたよりずっと早く進んだ。
侍女たちが衣装を運び、書類や本を箱へ詰め、細かな日用品は護衛の目の届く範囲で整え直される。
別棟の部屋にあったものが少しずつ減っていくたび、ミュレットは妙な気持ちになった。
住み慣れた場所だった。
ひとりで泣いた夜も、震えながら眠った夜も、少しずつここにいていいと思えるようになった時間も、全部そこにあった。
けれど、移された先の部屋は明るかった。
アランの私室の隣にあり、中扉は普段閉ざされていても、そこにあるだけで妙に心強い。
窓から見える景色も近くなり、呼べばすぐ声が届く距離だと分かる。
「どうだ」
荷の片付けがひと段落した頃、アランがそう聞いた。
ミュレットは新しい部屋を見回す。
まだ完全には自分の部屋という実感がない。
でも、少なくとも他人の場所ではなかった。
「……まだ、落ち着きません」
「そうか」
「でも」
ミュレットは少しだけ迷ってから、正直に言った。
「安心は、します」
「ならいい」
短い返事だった。
だが、その目は少しだけやわらいでいた。
午前の医務室は、懐かしくて、少しだけ新しかった。
以前のように何でもかんでも自分で抱えるのではない。
必要な時だけ呼ばれる。
判断が要る時だけ前へ出る。
周囲の医務官たちも、その線引きをちゃんと守る。
「無理はなさらないでください」
「ミュレット様は最後の砦ですから」
「だからこそ雑に使えません」
そんなふうに真顔で言われるたび、くすぐったくなる。
午後は、まったく別の世界だった。
礼法の教師は厳しく、
刺繍の師は意外と容赦なく、
舞踏の先生は「まず姿勢です」と何度も何度も言う。
会議に同席すれば、聞き慣れない言葉が飛び交う。
税、交易路、穀物、国境警備、エルニア支援、サンダレイン側の港湾整備。
覚えることは山ほどある。
それでもミュレットは、投げ出したくはなかった。
あの日、民の前に立つアランを見て、隣に立ちたいと思ったのだ。
ならば、少しでも近づけるように覚えるしかない。
忙しくなった。
明らかに、前とは違う春だった。
だがその違いは、ミュレットを遠ざけるものではなかった。
むしろ、自分が少しずつ王城の中心へ近づいているのだと教えるものだった。
冬のあいだ、守られるように過ごした時間が、春には新しい形を与えられていく。
個人的な想いが、少しずつ公の意味を持ちはじめる。
王太子婚約者。
筆頭医務官。
そのどちらも、まだ完全に馴染んではいない。
けれど、もう避けて通るものでもなかった。
晩餐会の正式発表まで、あと一ヶ月。
その先にはさらに、春の大きな政が待っている。
三国同盟の正式な締結も、もう遠くはない。
城の窓を開ければ、雪解け水の音が絶えずどこかで響いていた。
長い冬の下で凍っていたものが、いっせいにほどけて流れ出していくような音だった。
春は来た。
止まっていたものは、また少しずつ動き出している。
それは、国も。
役目も。
そして、ミュレット自身も同じだった。




