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Episode 85. 春の足音



春が近い、と最初に気づくのは、たいてい空気の匂いだった。


冷たさそのものはまだ消えない。

朝の回廊は相変わらず石のように冷え、吐く息も白い。

だが、雪の匂いに混じるものが変わる。

閉ざされた冬の奥に、水と土の気配が薄く差しはじめるのだ。


その日も、空はまだ鈍い白さを残していた。

城壁の影には雪が残り、中庭の石床にも雪解け水が細く走っている。

冬が終わったわけではない。

むしろ、この時期がいちばん面倒だった。


積もったままの雪ならまだ分かりやすい。

危ないのは、溶けかけだ。

表面だけ緩み、その下に薄い氷が残る。

濡れているだけに見えて、踏んだ途端に滑る。


そして、そういう厄介さをまるで分かっていないのが、南の領地育ちのミュレットだった。


雪を見れば目を輝かせる。

つららがあれば立ち止まる。

雪解け水が光れば、春だと言って足元を忘れる。


今までどれだけ肝を冷やしたか、数える気にもならない。


真冬には、軒先のつららの下を平然と通ろうとした。

凍った回廊を、何の気なしに急ごうとした。

こちらが見ていなければ、今ごろどうなっていたか分からない。


だからその日も、アランは中庭へ出る前から少し警戒していた。


少し離れたところには、ディルクと近衛が控えている。

侍女たちも、何かあればすぐ動ける位置で見守っていた。

セレスティアまで付き添っている。


その中心で、ミュレットは外套をまとい、冬の終わりかけた庭を見ていた。


やわらかな色だった。

春が近づくと、ミュレットの顔には独特の明るさが出る。

城へ来たばかりの頃とも、エルニアを越えたあとの静かな強さとも違う、もっと幼い、素直な喜びが滲む。


それが分かるから、余計に気を抜けない。


「風は冷たい」

アランは低く言った。

「長くは出るな」

「はい!」


返事は素直だ。

だが、こういう時の返事ほど当てにならない。


案の定、次の瞬間にはミュレットの視線はもう庭の隅へ吸い寄せられていた。


雪解け水の流れた先。

まだ冬の色を残す土のあいだから、ごく小さな緑が覗いている。


「あ……」


その声だけで分かった。

まずい。


「アラン様、見てください」


振り返ってこちらを見る。

だが、もう心のほうが先へ走っている。

目が完全に春を見ている時の顔だった。


止める間もなかった。


次の一歩で、足が流れた。


雪解けで濡れた石床の上を、靴裏があっさり滑る。

踏みとどまろうとして、もう片方の足まで持っていかれる。


身体が前へ傾く。


「ミュレット!」


呼ぶと同時に動いていた。

だが間に合わない。


ばたん、と見事な音を立てて、ミュレットは前から石床へ倒れた。


一瞬、中庭が凍りついた。


近衛の顔が青ざめる。

侍女のひとりは息を呑んだまま動けない。

セレスティアまで、珍しく目を見開いている。


そんな周囲は視界の端へ追いやられた。

アランはほとんど駆けるようにミュレットのもとへ行き、すぐに膝をついた。


「ミュレット」

「……だいじょうぶ、です」

「どこがだ」


声がきつくなる。

抑えようとしても、無理だった。


肩へ手をかける。

腕を支え、無理に引き起こさず、まず呼吸が詰まっていないかを見る。

次に手のひら。

膝。

顔。

額は打っていない。

手のひらが薄く赤い。

膝も同じだ。


「手をよく見せろ」

「ほんとうに、平気で」

「見せろ」


逆らえないように言った。

実際、逆らわせる気もなかった。


差し出された手を見て、眉間に皺が寄る。


大怪我ではない。

だが、派手に転んだのは事実だ。


「……見ているほうの身にもなれ」


低く落ちた声に、ミュレットは思わず目を瞬いた。


「うれしくて、つい……」

「わかっている」


恥ずかしそうにしているが、こちらはまだ肝が冷えたままだ。


周囲では誰も声を出さない。

ディルクも、セレスティアも、侍女たちも、ただ少し離れて様子を見守っている。

いまこの場で言葉を差し込むべきではないと分かっている顔だった。


「膝は」

「ちょっと痛いです」

「足首は」

「平気です」

「指は痛むか」

「いえ……」

「頭は打っていないな」

「……たぶん」


その「たぶん」に、アランは深く息を吐いた。


「たぶんで済ませるな」

「……ごめんなさい」

「きちんと答えろ」

「はい……」


しゅんと肩を落とす。

その様子を見て、怒鳴る気が失せる。

怒っている。

だがそれ以上に、焦った。


無事だと分かるまでのあの一瞬が、思った以上に長かった。


ゆっくり立たせる。

手は離さない。


「立てるか」

「立てます」

「歩くな」

「え」

「まだだ」

「でも」

「動くな」


ミュレットは不満そうにこちらを見る。

だからアランは先に言った。


「雪が積もっている時より、溶けかけの時期のほうが危ない」

「……」

「表面だけ緩んでいる場所もあれば、踏めば下が凍っている場所もある」

「……はい」

「歩幅を小さくしろ」

「はい」

「足裏の前だけで踏むな。靴の裏全体で雪を噛むように、垂直に下ろせ」

「……はい」

「急ぐな」

「……」

「視線を上げたまま歩くな。数歩先と足元を両方見ろ」


あまりにも細かく言いすぎた自覚はあった。

だが、これを言わずにどうする。


するとミュレットは、繋がれた手を見下ろしたまま、少し拗ねたように呟いた。


「そんなにたくさん言わなくても、分かってます……もう」


拗ねたようにそう言われて、アランは一瞬だけ黙った。


本当は、そこでやめるつもりだった。

言いすぎた自覚もある。

このまま続ければ、たぶんミュレットはさらに不満そうな顔をする。


分かっていた。


普段なら、ここまで言わない。

ミュレットには、できるだけ笑っていてほしいからだ。


少しくらい拗ねられても。

少しくらい危なっかしくても。

少しくらい不満に思うことがあっても。


それでも結局、全部飲み込んできた。


口にしないほうがいいことはある。

言わなくても伝わることもある。

むしろ、言わないほうが穏やかに済むことのほうが多い。


だから、アランはいつもそうしてきた。


だが――これが戦場だったら、笑って済ませられない。


足を滑らせた一瞬。

身体が前へ流れ、止める間もなく石床へ倒れたあの光景は、あまりにも無防備だった。

あれが戦場だったら。

あれが敵意のある場所だったら。

あれが、ほんの少しでも打ちどころの悪い転び方だったら。


そう思った瞬間から、胸の奥で冷えたものが消えない。


仕事なら、普段は言う必要のないことまで言ってしまう時がある。

今日がまさにそうだった。


今回ばかりは、抑えられなかった。


「分かっているようには見えない」


結局、次に口を開いたのはアランのほうだった。


「……」

「そもそも、まだクレスティアの冬に身体が慣れきっていないだろう」

「……」

「雪が深くなるころは何度も喉を傷めた」

「それは……」

「少し気を抜けばすぐ風邪もひく」

「……」

「寒さに強いわけでもない」

「……はい」

「そのうえ雪解けの石床で前を見たまま歩く」

「……」

「分かっていると言うなら、まず足元を見ろ」


言いながら、アランは自分でも言いすぎていると分かっていた。

だが、もう止まらなかった。


「つららの下を平気で通ろうとした」

「……」

「凍った回廊で何の気なしに走ろうとしたこともある」

「……」

「雪を見るたび、心だけ先に春へ行く」

「……そんなことは」

「事実だ」

「……」

「毎回、肝が冷える」


そこで終わるはずだった。


それ以上は、さすがに言いすぎる。

そう頭のどこかでは分かっていた。


けれど、ミュレットがまだ少しだけ拗ねた顔で俯いているのを見た瞬間、胸の奥に残っていた焦りが、また別の言葉を引きずり出した。


「俺がいなかったら、どうするつもりだった」

「……え」

「今もそうだ」


低い声が、思ったよりはっきり落ちる。


「俺が見ていなかったら」

「……」

「もう少し勢いがついていたら」

「……」

「顔からもっと強く打っていたかもしれない」

「……」

「手だけでは済まなかったかもしれない」


ミュレットは、そこでようやく顔を上げた。


アランはその目を見る。

見た瞬間に、言いすぎたと分かった。

だが、引っ込めるにはもう遅かった。


「俺がいなかったら」

今度は少しだけ掠れた声で、もう一度言う。

「どうするつもりだった」


その言葉は叱責ではなかった。

怒りの形をしているくせに、底にあるのはほとんど恐怖だった。


ミュレットはしばらく何も言わなかった。

拗ねた顔も、言い返したい気配も、いつの間にか消えている。


やがて、小さく答えた。


「……ごめんなさい」


その一言で、アランはようやく深く息を吐いた。


怒っている。

まだ腹も立っている。

それでも結局、自分が聞きたかったのは反論ではなく、その一言だったのだと分かってしまう。


「気をつけろ」

アランは少しだけ声を落とす。

「もう少し、安心させてくれ」

「……はい」

「本当に、困っているんだ」

「はい」

「それから」


一拍置いて、繋いだ手を少しだけやわらかく握り直す。


「俺がいる時は、ちゃんと頼れ」

「……」

「無茶をする前に、こっちを見ろ」


ミュレットは赤くなった目元のまま、こくりと頷いた。


「……はい」


その返事を聞いて、ようやくアランは口を閉じる。

まだ言いたいことは残っていた。

だが、それ以上言えば本当に泣かせる。


だから最後は、怒りの代わりに手の温度だけを残す。


「……行くぞ」

「はい」

「今度は足元を見て歩け」

「……はい」

「返事だけはいいな」

「……だって、手を離してくださらないから」

「離したらまた転ぶだろう」


そう言いながら、アランは結局、回廊へ入るまで一度も手を離さなかった。


少し離れたところで、セレスティアたちがようやく大きく息をついている。

侍女たちも、ほっとした顔を見せていた。


誰も近づいてはこない。

ただ少し距離を置いたまま、二人が歩き出したことを静かに見届けている。


春のはじまりは、まだ危なっかしい。

雪解けの石床は、少しもやさしくない。

それでも、その先にある芽吹きは確かだった。


ミュレットは頬を少し赤くしたまま、アランの隣を歩く。

転んで、叱られて、拗ねて、それでもちゃんと手を引かれている。


春は来た。

今度こそほんとうに来たのだと、繋いだ手の温度が教えていた。


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