Episode 88. 春の茶会
春の光は差しているのに、クレスティアの城はやはり少し冷たかった。
中庭の木々にはやわらかな芽吹きが見えはじめている。
冬のあいだ閉ざされていた空気も、ようやくほどけつつあった。
それでも石造りの回廊を渡る風はまだ冷えを残していて、陽だまりのある小さな応接間でさえ、油断すると指先が冷たくなる。
その日、ミュレットは王城の南棟にある小さな客間へ呼ばれていた。
高窓から明るい春の光が差し込み、丸卓の上には茶器と焼き菓子が整えられている。
窓辺には薄い花色の布が垂れ、季節に合わせた控えめな飾りが置かれていた。
その穏やかな景色は、勢いよく扉が開いた瞬間に崩れる。
「寒い、寒い、寒い! やっと雪が溶けたと思ったのに何この城! 寒すぎ!!」
入ってきたリリナは、肩を震わせながら大袈裟に言った。
春の明るい色の衣を纏っているのに、その第一声だけは真冬の文句そのものだった。
ミュレットは思わず笑ってしまう。
「そこまでですか?」
「そこまでよ。エルニアの木の御殿が恋しいわ」
「クレスティアは石ですものね……」
「ええ。見た目は立派。でも冷たい! あの王太子のように……!」
そう言いながら椅子へ腰を下ろしたリリナは、ようやくミュレットのほうを正面から見た。
その目が、ふっと細められる。
「……でも前より、王太子婚約者っぽい顔になったわね」
不意の言葉に、ミュレットは目を瞬いた。
「そう、でしょうか」
「ええ。少しだけね」
「少しだけ……」
「十分よ。前はもっと“どこかへ逃げられるなら逃げたい”って顔をしてたもの」
「そんな顔、していました?」
「してたわ」
即答だった。
リリナはそこで、ふとミュレットの耳もとへ視線を留める。
髪を短くしてからつけるようになった耳飾りが、窓からの光を受けて小さく揺れていた。
「その耳飾り、少しは私の影響かしら」
「え?」
「あなた、前はそういうのほとんどつけなかったでしょう」
「……少しだけ、です」
「いいじゃない。似合ってるわ」
リリナは満足そうに頷く。
「今度、私のおすすめを送ってあげる。あなた、顔立ちがやわらかいから、揺れるものが似合うのよ」
「そんな」
「遠慮しなくていいの。第一王女の見立てよ」
「楽しみにしています……」
「ありがたく受け取りなさい」
その言い方があまりにも堂々としていて、ミュレットは苦笑するしかなかった。
茶が注がれる。
春らしい香りを含んだ湯気が立ちのぼる。
ひと口飲んで、ようやくリリナは肩の力を抜いた。
「エルニアもだいぶ落ち着いたわ」
「……よかったです」
「ええ。でも相変わらず、第三王女の行方は分からない」
「……」
「死んだとも言い切れない。だから、全部終わったとはまだ言えないのよ」
その声音は先ほどまでより少し低かった。
春が来ても、不穏が消えるわけではない。
その現実を、リリナはわざと軽くは言わなかった。
ミュレットもまた、静かに頷く。
「そういえば」
リリナは茶器を置きながら、何でもないことのように言った。
「あなたに会わせてほしいって、領主の人間が何人か直談判してきたわ」
「……え?」
思わず聞き返す。
リリナはその反応を見て、眉を上げた。
「何その顔。あの男、言ってないの?」
「アラン様が……?」
「まあ、婚約発表まで時間がないものね。忙しいあなたに気を遣ってるんでしょうけど」
ミュレットは戸惑った。
自分に会いたいと、領主が。
その発想自体が、すぐには飲み込めない。
リリナはそんなミュレットを見て、小さく息をついた。
「病弱な後継を抱えている家がある」
「……」
「戦や事故で身体を損なった人間もいる」
「……はい」
「あなたの治癒を見て、“あの力なら脚を再生できるのでは”とか、“長く治らない病も何とかなるのでは”とか、奇跡を願う人間は、この冬を過ごす間に少しずつ増えたの」
「……」
「噂は絶えないし、エルニアも、サンダレインも、クレスティアも、王家には治療を願う手紙が死ぬほど届いてるってわけ」
ミュレットは息を止めた。
そうなるのではないかと、頭のどこかでは分かっていた。
けれど、改めて言葉にされると重い。
リリナは続ける。
「全部が全部、あなたの力で治せるわけじゃないでしょう?」
「……はい」
「魔力にも体力にも限界はある」
「……」
「何より、失ったものや、死者を甦らせるなんてことは、あなたの力ではどうにもできない」
その言葉は、残酷なようでいて、必要な線引きだった。
ミュレットはそっと指先を握る。
助けたい。
そう思ってしまう人がいるからこそ、言わなければいけない言葉なのだと分かる。
「だから私たちは、願いが来たらまず病状を調べさせる」
リリナの声は落ち着いていた。
「医官に繰り返し診させて、それでもあなたの治癒で意味があると判断できたものだけ、国を通してあなたのもとへ上げる」
「……」
「あなたを、奇跡を売る祭壇みたいに扱わせないためよ」
ミュレットは目を伏せる。
その仕組みが必要なのは分かる。
だが、同時に別の懸念も浮かんだ。
「でも、それでは……」
「……?」
「領主や、富裕な家のほうが先に届いてしまうのではありませんか?」
「……」
「本当に困っているのに、国へ声を上げる力のない人は、どうしたら……」
リリナは、そこで強く頷いた。
「そこが問題なのよ」
その一言は短く、しかし重かった。
「だからこそ、国を通すしかないの」
「……」
「感情だけで一人ずつ救っていたら、あなたが先に潰れる」
「……」
「届く声の大きさだけで選ばれないようにするには、仕組みがいる」
「……」
「順番も、基準も、全部これから整えなきゃいけない」
ミュレットは何も言えなかった。
力がある。
だから助けたい。
でも、助けたいだけで動けば、必ず零れるものが出る。
それはきっと、治癒そのものより難しい問題なのだろう。
「でも」
リリナはそこで少しだけ身を乗り出した。
「いまのあなたには、先にやるべきことがある」
「……」
「ひとつずつ、できることから始めなさい」
「……はい」
「今は、婚約発表よ」
「……え」
あまりにもはっきり言われて、ミュレットは目を瞬く。
リリナは茶をひと口飲み、それから当然のことのように続けた。
「あの男の隣に立つなら、誰が見ても“相応しい”と思わせなさい」
「……」
「守られるだけの娘じゃなくて、“並んで立つ人”だってことを、ちゃんと見せるの」
「……」
「安心しなさい。顔はもうかなり出来上がってるわ」
「リリナ……」
「足りないのは度胸と、少しの開き直りね」
ミュレットは思わず苦笑した。
言われていることは厳しい。
でも、それがただの叱責ではないことは分かる。
リリナは、やるべきことを一段ずつ見せてくれているのだ。
「それに」
リリナは少しだけやわらかい声になった。
「あなたが全部ひとりで抱える必要はないの」
「……」
「エルニアにも、サンダレインにも、クレスティアにも、もうあなたを放っておかない人間がいるでしょう」
その言葉に、ミュレットは小さく息を呑んだ。
エルニア。
サンダレイン。
クレスティア。
この冬を越えるあいだに、自分が手を伸ばし、逆に手を取ってもらった人たちの顔が浮かぶ。
リリナはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「泣かせに来たんじゃないのよ」
「……でも、嬉しいです」
「ならいいわ」
言い方は軽い。
けれど、その軽さの奥にあるものはひどく深かった。
やがて茶会は終わりに近づく。
リリナは立ち上がり、最後にもう一度ミュレットを見た。
「春は好きよ」
「……はい」
「でも、春は動く季節でもある」
「……」
「忙しくなるわ」
「はい」
「だから今のうちに、ちゃんと笑っておきなさい!」
その言葉を残して、リリナは去っていった。
扉が閉まる。
応接間には、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静けさが戻った。
ミュレットはしばらくその場に座ったまま、左手の薬指へ触れる。
それから、耳もとの飾りへも。
王太子婚約者。
筆頭医務官。
治療を願う声。
婚約発表。
公の場で示すべき自分。
やるべきことは、たしかに山ほどある。
でも、ただ押しつぶされそうなわけではなかった。
窓の外には春の光があり、庭には芽吹きがある。
冬のあいだに積もった時間は、ちゃんと自分の中に残っている。
ミュレットはそっと背筋を伸ばした。
忙しくなる。
動く季節が来る。
それでも、逃げずにひとつずつ。
そう思えるだけの力が、もう少しだけ自分にもある気がした。




