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Episode 83. 不公平



「リリナ王女から手紙だ」


雪の午後だった。


窓の外は今日も白い。

城壁も中庭も、見慣れた輪郭をやわらかく失っている。

アランの執務室では暖炉が静かに燃え、卓の上には茶器と、いくつかの書状が整然と置かれていた。


ミュレットは差し出された手紙を受け取る。


その時だった。


自然と目に入ったのは、手紙ではなく、その手だった。


長く、節の整った指。

書類を扱う時も、剣を取る時も迷いのない手。


そこに、何もない。


自分の左手の薬指には、もう見慣れた指輪がある。

けれど、アランの左手には、何の印もなかった。


ほんの一瞬のことだった。

なのに、その違いだけが胸に残る。


「……どうした」


低い声に、ミュレットははっと顔を上げた。


「いえ」

「……」

「何でもありません」


そう答えて、慌てて手紙へ目を落とす。


だが、意識はどうしても別のところへ引っかかったままだった。


私にはある。

でも、アラン様にはない。


たったそれだけのことなのに、なぜこんなに気になるのか、自分でもうまく説明できなかった。


アランはそれ以上は問わず、再び執務卓へ戻った。

文官から上がってきた報告書を開き、ディルクが先ほど置いていった書類束へ手を伸ばす。

窓の外は雪。

冬の間は落ち着くとはいえ、執務がなくなったわけではない。


ミュレットは長椅子へ腰を下ろした。

膝の上に手紙を置き、呼吸を整える。


暖かい部屋。

膝掛け。

湯気の立つ茶。


落ち着けるはずのものは揃っているのに、心だけがうまく座らない。


少なくとも、昔婚約者として接していたレオルドや、ほかの領主家の子息たちは、アランのように寡黙ではなかった。

どちらかといえば、サンダレインのグレン王子の角をもう少し丸くしたような者たちが多かった気がする。


言葉は先にある。

笑みもある。

それらしく甘いことも言う。

女性がどう受け取るかも、最初から分かった顔をしている。


その分、軽さもあったし、嘘や飾りも多かった。

けれど少なくとも、“どう接していいのか分からない”と途方に暮れることは少なかった。


その点、アランは違う。


言葉が少ない。

思っていることを全部は言わない。

なのに、大事なところでは行動のほうがずっと深い。


それに、彼は王太子でありながら、実質は王として国を収めている。

亡き王の後を継ぎ、文官たちの報告を受け、ディルクの提案を即座に裁き、増え続ける案件へ次々に判断を下す。

正式な即位はなお先へ送ったまま、それでも国の上に立っている人だ。


没落家保護の名目で王城に置かれていた頃は、そのことをただ事実として見ていた。

仕事が早い人。

皆が恐れている人。

王の代わりを務めている王太子。


それだけだった。


けれど、隣に立ちたいと決めた今は、見え方がまるで違う。


あまりに遠い。

あまりに高い。

そして、あまりに一人で立っているように見える。


そんな相手に、弱音や悩みをそのまま渡すのは、時々どうしようもなく難しかった。


どう甘えればいいのか。

どう言えば、この人に届くのか。

それは、支えたいと願う相手へ向ける言葉として正しいのか。


先日のことだって、きっとそうだった。


あの封書の山を見て、胸の奥がちくりとした。

以前の茶会で、令嬢たちが色のある目でアランを見ていたことも思い出した。

本人は、おそらく気づいてもいなかった。


嫌だった。


でも、それをどう伝えればいいのか分からなかった。


だから、ああいう形で拗ねるしかなかった。

逃げるように背を向けるしかなかった。


思い出すのは、あの時のアランの返事だった。


――気にする必要はない。

――返事は出していない。

――何か問題があるか。


事務的で、正しくて、間違っていない説明。


でも、ミュレットが欲しかったのは、ああいう返事ではなかった。


アランは言葉で、行動で、ちゃんと愛情を伝えてくれる。

それはもう、疑いようがないほどに。


なのに、どこか不器用だ。


女性との接し方が成っていない――などと、少し偉そうなことまで考えてしまう。


ミュレットは小さく息を吐いた。


なぜ、あんな手紙がたくさん届いて、気になってしまうのか。


信用はしている。

愛情もくれる。

大事にされている。

幸せだと思う。


それでも。


私には、アラン様のものだという印があるのに。

アラン様には、ない。


婚約の正式発表もされていないのだから、致し方ないと言われれば、それまでだ。

だから余計に言えなかった。


言ったらきっと、また戸惑わせる。

必要なのか、それは、と本気で考え込む顔が目に浮かぶ。


外は雪で埋もれている。

こんな中、新しい指輪の手配などできるはずもない。


そう思えば思うほど、余計にどうしていいのか分からなくなる。


ミュレットは膝の上で指先を重ねた。


自分でも面倒だと思う。

それでも、引っかかってしまったものは、そう簡単には消えてくれない。


そこでようやく、手の中の封書を思い出す。


リリナからの手紙だった。


封を切る。

中には、勢いのある、いかにもあの王女らしい筆跡が並んでいた。



ミュレットへ


まずは、こちらの報告から。


王宮の焼失箇所は、ようやく危険な部分の撤去がひと通り終わったところよ。

まだ人手も物資も足りないけれど、正殿まわりの動線だけは最低限整えたわ。

父上も公務に戻る時間を少しずつ増やしているし、重臣たちもようやく“次を立てる”顔になってきた。


反乱側の残党狩りも進んでいる。

ただ、火をつけた連中そのものより、後ろで糸を引いた者を洗うほうが厄介ね。

こちらは今も続けているわ。


王都の空気も、少しずつ落ち着いてきた。

焼けた場所を見て泣く者もまだ多いけれど、同時に「立て直すしかない」と前を向く者も増えている。

エルニアはそう簡単には折れない国よ。


それから、あなたのことを気にしている者は、思っているより多いわ。

父上もそうだし、城の者たちもそう。

“あの夜を越えられたのは、あなたがいたからだ”と思っている者は、いまだに少なくないの。


だから、あなたはあまり自分を小さく見ないこと。


――と、ここまでは真面目な報告。


ここから先は、少し別の話よ。


無口男の相手は大変でしょう。


……と、書き出しから当ててみるわ。


あなた、今きっと、あの男が何を考えているのか分からなくて、でも大事にされているのも分かっていて、それで余計に困っているのではなくて?


あの手の男は、言わなくても伝わると思っているわけではないの。

むしろ逆で、言葉にしなくても分かるほど自分は出しているつもりでいるのよ。厄介でしょう?


でもね、ミュレット。


あの男が不器用なのは、あなたに対して手を抜いているからではないわ。

本気だから、下手なの。


だから、

察してくれないと黙るだけでは、あの手の男には半分も伝わらないわ。


欲しいなら言いなさい。

嫌なら嫌だと言いなさい。

嬉しいなら、もっと嬉しそうにしてやりなさい。


婚約者でしょう。

“分かってほしい”を我慢する相手ではなく、“分かるまで言っていい”相手よ。


それに、今考えてること、それもそのまま言えばいいの。

あの男、顔はものすごく真面目なまま固まるでしょうけど。


その顔は、少し見てみたいわね。


雪が深いうちは無理をするな。

でも、黙って悶々としているくらいなら、ちゃんと困らせなさい。


それが許される相手を、あなたはようやく手に入れたのだから。


リリナ



読み終えたあと、ミュレットはしばらく動けなかった。


手紙を持ったまま、ただじっと文字を見つめる。


王宮の立て直し。

父王の回復。

王都の空気。

そこにちゃんとリリナが立っていて、エルニアが前を向こうとしていることが分かって、胸のどこかが少しだけほどけた。


あの夜、炎の中に取り残したような気がしていたものが、ようやく続いているのだと知る。


けれど、本当に胸へ落ちてきたのは、そのあとの言葉だった。


無口男の相手は大変でしょう。


その一行を見た時、思わず少しだけ唇が動いた。

笑いそうになって、それからすぐに熱くなる。


欲しいなら言いなさい。

嫌なら嫌だと言いなさい。

婚約者でしょう。


一文ごとに、胸の奥へ静かに落ちる。


“分かってほしい”を我慢する相手ではなく、“分かるまで言っていい”相手。


そこまで思っていいのだろうか、と少しだけ怖くなる。

けれど同時に、肩のどこかから力が抜けてもいた。


そうかもしれない。


自分はずっと、分かってほしいのに、言ってはいけない気がしていた。

察してもらえなければ、自分が諦めるしかないのだと思っていた。


けれど、アランは違うのかもしれない。


分からないなら、分かるまで言ってもいい相手。

困らせてもいい相手。

自分の望みを、ちゃんと向けてもいい相手。


そこで、ふと手紙の一節がまた目に入った。


それに、今考えてること、それもそのまま言えばいいの。

あの男、顔はものすごく真面目なまま固まるでしょうけど。


ミュレットは、思わず小さく息を漏らした。


リリナへ悩みを打ち明けた覚えはない。

なのに、まるで見ていたみたいに言い当てられていることに、少し驚く。


そして、その光景がやけにはっきり目に浮かぶ。


真顔のまま固まるアラン。

たぶん本気で必要性を考え始める。

そして、ずいぶん間を置いてから、低い声で「……必要なのか、それは」と問うに違いない。


可笑しいような。

困るような。

でも少しだけ、見てみたいような。


気がつけば、ミュレットの口元には小さな笑みが浮かんでいた。


その時だった。


ふいに、手の中の紙がするりと抜かれた。


「え?」


顔を上げる。


いつの間にか、アランがすぐ隣にいた。

長椅子へ腰を下ろし、肩が触れそうなくらい近い。


さっきまで執務卓にいたはずなのに。


ミュレットは思わず視線を上げる。

卓の上には、まだ片づいていない書類の山。


「……執務は」

「後でいい」


短く答えた声は、ほんの少しだけ不機嫌そうだった。


アランは取り上げた手紙を軽く見下ろしてから、ミュレットを見る。


「ずいぶん熱心だな」

「……リリナ様からのお手紙ですから」

「見れば分かる」

「……」

「さっきから俺の前では難しい顔をしていたのに」

「……」

「リリナからの手紙を読んで、大層嬉しそうに笑う」


ミュレットは目を瞬いた。


そこでようやく分かる。


アランは、少しだけ拗ねているのだ。


もちろん、それを素直な形では見せない。

執務を途中で切ってまで隣へ来て、手紙を取り上げるくらいには、面白くなかったのだろう。


ミュレットは少しだけ息を詰めた。


リリナは立場も口調も遠慮がなく、ミュレットが言いにくいことまで平気で言葉にしてくる。


アランにはそれだけではない意味で気を遣ってしまう。

王太子であり、実質は王として国を支える人。

その重さを知っているからこそ、くだらない嫉妬や寂しさをそのままぶつけることが、時々どうしようもなく難しかった。


アランは、そんなミュレットの沈黙を見て、低く名を呼ぶ。


「ミュレット」


その声に、ミュレットはようやく彼を見た。


「……何を考えていた」


いきなり答えられなかった。


欲しいなら言え。

嫌なら嫌だと言え。

分かるまで言っていい相手なのだと、あの手紙はそう言っていた。


なのに、いざその場になると難しい。


どう切り出せばいいのか分からない。

こんなことを言って困らせないだろうか、とまだ少し思ってしまう。


アランは、取り上げた手紙を膝の上へ置いた。


「あとで急にいなくなるくらいなら」

「……」

「いま言え」


その言い方が、あまりにも真面目で、ミュレットは思わず少しだけ目を見開いた。


責めているのではない。

むしろ、昨日のことを踏まえたうえで言っているのだと分かる。


いま言え。


それはたぶん、彼なりの譲歩だった。


ミュレットは指先を握りしめた。


それから、意を決して口を開く。


「……不公平だと思って」


アランの眉がわずかに動く。


「何がだ」

「それは」

言いかけて、視線が迷う。

それでも逃げずに続ける。

「私ばかり」


アランは黙ったまま待っている。


ミュレットは自分の左手へ触れた。

薬指の指輪に、そっと。


「私には、あります」

「……」

「でも、アラン様には、ない」


そこでようやく、アランの視線が自分の左手へ落ちた。


何もついていない薬指。

その意味を測るような沈黙が落ちる。


ミュレットは、少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、言葉を継いだ。


「前みたいに、たくさん手紙が届いて……アラン様を見て、色のある目を向ける方もいて」

「……」

「気にしないようにしても、やっぱり少し気になります」

「……」

「信用していないわけではありません」

「分かっている」

「でも」


ミュレットは小さく息を吸った。

そして、左手の指輪へ右手の指先で触れる。


「私だけが、印を持っているのは」

「……」

「なんだか、不公平です」


言ってしまったあと、胸がどきどきとうるさい。


きっと、またアランは戸惑う。

必要なのか、それは、と本気で考え込みそうな顔をする。


そう思っていた。


けれど、アランは昨日のようにすぐ理屈を返さなかった。


ただ、膝の上の手紙をそっと脇へ置く。

それから、あらためて自分の左手を見下ろす。

何もついていない薬指を。


「……そうか」


低い声だった。


責める響きはない。

ただ、ちゃんと聞いたと分かる声だった。


ミュレットは、そろそろと顔を上げる。


アランはまだ自分の手を見ていた。

その横顔は真面目で、いつものように整っているのに、どこか少しだけ考え込みすぎているようにも見えた。


やがて、低く言う。


「俺の左手にも、同じものが欲しいと」


確かめるような声音だった。


ミュレットは小さく頷く。


アランはしばらく黙っていた。


その沈黙は、分かっていないものではなかった。

分かろうとしている沈黙だった。


やがて、息をひとつ吐くと、ほんのわずかに表情をやわらげる。


「……雪の中で、新しい指輪をすぐに作らせるのは難しい」

「……はい」


ミュレットは小さく頷く。


それは分かっていた。

だからこそ、言うのをためらっていたのだ。


けれどアランは、そこで話を終わらせなかった。


「だが」

視線を上げる。

「何もないままにはしない」


その一言に、ミュレットの胸が小さく跳ねた。


アランは立ち上がると、机の引き出しを開けた。

書類や印章とは別に、奥へしまってあった小さな黒い箱を取り出す。


それを持って戻り、長椅子の前で足を止めた。


「昔、術式補助に使っていた銀の輪だ」

「え……」


箱が開かれる。


中には、細く簡素な銀の輪がひとつ収まっていた。

華美な装飾はない。

けれど、よく見れば内側へごく薄く術式が刻まれている。

道具として作られたものなのだろう。

それでも、冬の光を受けて静かに品よく光っていた。


「正式なものではない」

アランは言う。

「雪がやんだら、改めて用意する」

「……」

「だが、それまで何もないのは不公平なのだろう」


ミュレットは、思わず息を止めた。


その言い方が、あまりにも真面目で。

それでいて、自分の気持ちをちゃんと受け取ったあとに返ってきたものだと分かって、胸の奥がじんと熱くなる。


アランは箱の中の銀の輪を取り上げた。

そして、それを自分では薬指へ通さず、ミュレットへ差し出す。


「つけてくれ」


低い声だった。


ミュレットは目を見開く。


「……え」

「俺に」

「……」

「ミュレットが望んだことだ」


その一言で、顔が一気に熱くなる。


自分で望んだ。

たしかに、その通りだった。


けれど、こうして真正面から差し出されると、急に現実味を帯びる。

アランの左手。

その薬指へ。

自分が。


ミュレットはおそるおそる手を伸ばした。


アランの手は、いつも通りあたたかい。

剣を握る手なのに、どこか静かな熱を持っている。


左手をそっと取る。


長く、整った指。

少しだけ力が入っているのが分かる。

アランも平然としているようで、まったく何も感じていないわけではないのだろう。


ミュレットは銀の輪をつまみ、ゆっくりと薬指へ近づけた。


「……きつくは、ありませんか」

「問題ない」

「……そうですか」


声が少しだけ上擦る。

自分でも恥ずかしいくらいだった。


けれど、アランは何も言わず、ただ手を預けている。


輪が、指へ通る。


するりと滑り、薬指の根元で止まる。


それだけのことなのに、胸の奥がひどく満たされる。


ミュレットは指先を離せずにいた。


自分の左手の薬指には、アランからもらった指輪。

そして今、アランの左手薬指には、自分の手でつけた輪がある。


それが妙にくすぐったく、嬉しかった。


「……どうだ?」


アランが低く問う。


ミュレットはようやく顔を上げた。


「……とても、いいです」

「そうか」

「はい」


アランの視線が、ミュレットの左手へ落ちた。


「その指輪は、母上が残した特別なものだ」

「え?」


ミュレットは左手の指輪へ視線を戻す。


「条件はあるが、力を編み込める」

「……同じものは、作れるのでしょうか」

「それほどのものは、母上にしか作れない」

アランは少し迷ってから続けた。

「だが、ミュレットなら、いずれ近いことはできるかもしれない」


ミュレットの目がぱっと上がる。


「では、冬の間に調べます……!」

「……」

「王宮図書室の秘蔵書庫へ入る許可をください」


勢いのまま身を寄せ、真剣な眼差しで言われて、アランは一瞬だけ言わなければよかったと思った。


以前、ミュレットは“隣に立ちたい”と考え、図書室に籠もるように本を読み漁っていた時期がある。

すぐ傍にいても、本へばかり意識を向ける彼女に、妙に歯痒い思いをさせられた記憶まで蘇った。


「……入室時間の制限は厳しくする」


それが最大限の譲歩だった。


ミュレットは、その返事に小さく笑った。


アランは自分の左手を一度だけ見下ろす。

銀の輪は簡素で、飾り気もない。

それでも、そこにあるだけで印象が変わる。


「だが、これで外から見ても分かる」

「……え」

「ミュレットが気にしていたのは、そこだろう?」

「……」

「俺に何もないことが」

「……はい」


ミュレットは、また泣きそうになるのをこらえるみたいに、ぎゅっと指を握った。


「……ありがとうございます」


アランは、そのままミュレットの手を引いた。


軽くではない。

逃がさないように、けれど苦しくはない力で、アランはミュレットの手を引いた。


そのまま近くで、少しだけ考えるように目を細める。


「……女心というものは、まだ分かっていない」

「……」

「努力はしているつもりだ……だから、何も言わずに諦める癖は、どうにかしてほしい」

「……はい」

「それから、秘蔵書庫に引きこもるのも」


最後の一言だけ、ほんの少しだけ不満が混じっていた。


あまりに真面目な声で付け足されて、ミュレットはとうとう笑ってしまった。


「リリナの前では笑って、俺には難しい顔をするのも」

「……ただのお手紙です」

「手紙でも、あの女の言葉は影響力がある」


その言い方に、ミュレットはふと、以前アランがこぼした言葉を思い出した。


――リリナには、頭が上がらない。


あの時の、どこか本気で困ったような顔。

それを思い出してしまって、胸の奥のわだかまりとは別のところがくすぐったくなる。


「……ふふ」


小さく漏れた笑いに、アランの目がわずかに細まる。

ミュレットはまだ少し笑いを含んだまま首を振る。


「本当に、頭が上がらないのだなと」

「……否定はしない」


それがまた妙に可笑しくて、ミュレットの頬がやわらぐ。


アランはそんな彼女を見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

まだ不器用で、まだ分からないことばかりなのだろう。

けれど、分からないままで終わらせるつもりはないのだと、その手の温度で分かる。


外では雪が降り続いている。

春はまだ遠い。


けれど今、二人の左手には同じ場所へ輪がある。


それだけで、胸の奥の引っかかりが、ようやくやわらかくほどけていくのが分かった。


ミュレットは、指をつないだまま小さく言う。


「アラン様にも、寂しい思いをさせないようにします」


アランは一瞬だけ目を止め、それから低く返した。


「……ああ」


暖炉の火が静かに鳴る。

白い雪が窓の向こうを埋めていく。


その冬の午後、アランの左手薬指には、初めてミュレットがつけた輪が光っていた。


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